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フェラーリの70年以上に渡る歴史を40台以上の名車と振り返る
エンツォ・フェラーリの誕生
1898年、イタリアのエミリア=ロマーニャ州モデナで、1人の男児が誕生します。
板金工であったアルフレード・フェラーリの次男として生まれたその子は、エンツォと名付けられました。エンツォは幼い頃に観たレースに魅了され、レーシングドライバーを目指します。
アルファ ロメオ時代
18歳で徴兵されたエンツォは、第一次世界大戦に参戦した後、レーシングドライバーとしての職を探しを始めました。
名門であったフィアットの門を叩くも断られ、ミラノにあった自動車メーカーであるコストルツイォ―二・メカニケ・ナツィオーリ(CMN)でレーシングドライバーとしてのキャリアをスタートすることになります。
シチリア島で行なわれる公道レース「タルガフ・ローリオ」で入賞し、レーシングドライバーとしての頭角を現しはじめたエンツォは、1920年にアルファ ロメオのテストドライバーとして採用されます。
優秀なエンジニアの招集
まもなくレーシングドライバーへと昇格したエンツォは、エンジニアリングの強化が必要なことに気がつきます。
そしてエンツォは、フィアットのレーシングチームにいたエンジニア、ルイジ・バッツィをアルファ ロメオに引き抜きます。さらなるアルファ ロメオの躍進を求めたエンツォは、バッツィが推薦するフィアットの若きエンジニア、ヴィットリオ・ヤーノをアルファ ロメオへと招きます。
ヤーノが設計したグランプリマシン「P2」はデビュー戦で見事優勝を飾り、そこからアルファ ロメオの黄金時代が始まります。
スクーデリア・フェラーリを設立
エンツォはアルファ ロメオでのレース活動を続け、1929年にアルファ ロメオのサテライトレーシングチーム、「スクーデリア・フェラーリ」を設立します。このチームこそが、現在のスクーデリア・フェラーリの始まりでした。
1932年に自身のレーシングドライバーとしての活動をやめたエンツォは、資金難によってワークス活動を停止したアルファ ロメオに代わってスクーデリア・フェラーリでワークスマシンを走らせ始めました。
この時代のアルファ ロメオのレーシングマシンはヤーノの設計が続いていましたが、1937年にヤーノがランチアへと移籍。ヤーノのポジションは、彼の愛弟子とも言えるジョアッキーノ・コロンボが受け継ぎました。
アルファ ロメオとの訣別
1938年にアルファ ロメオのワークスチーム「アルファ コルセ」が設立され、スクーデリア・フェラーリは吸収される形で一旦消滅します。
アルファ コルセのマネージメントを任されたエンツォですが、翌1939年には経営陣との対立によってアルファ ロメオを去ることになりました。
最初のオリジナルカーを開発
アルファ ロメオとの契約で「フェラーリ」という名前をレースでは使えなかったため、エンツォは「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名前でレースへの参加を再開します。
この時製造されたのが「ティーポ815」というモデルで、エンツォがはじめて作ったオリジナルカーです。
しかし、第二次世界大戦の拡大によってその活動は中止へと追い込まれました。第二次世界大戦が終わると、エンツォは新たなレーシングカーの製造を開始します。この新しいレーシングカーの設計を任されたのは、アルファ ロメオのエンジニアであったジョアッキーノ・コロンボでした。
コロンボエンジンの誕生
コロンボが設計した1,500ccのV型12気筒エンジンは、以降「コロンボエンジン」として排気量を拡大しながら長く使われていくことになります。
このエンジンを搭載したフェラーリ最初のレーシングカーは、1気筒あたりの排気量125ccから「125S」と名付けられました。
フェラーリの名が世界的なものに
1947年に完成した125Sは、「スクーデリア・フェラーリ」からイタリアの国内レースに参戦し、6回の優勝を飾りました。
その後125F1、159、166とマシンを進化させ、ル・マン24時間レースやF1、ミッレ・ミリアといったメジャーレースへと参戦。1948年のミッレ・ミリアと1949年のル・マンでは優勝を果たし、フェラーリの名を世界へと知らしめました。
フェラーリの発展とF1
F1世界選手権への挑戦
1950年に始まったF1世界選手権に、エンツォは125F1での参戦を決めます。
古巣であるアルファ ロメオや名門マセラティを相手に苦戦を強いられますが、参戦2年目となる1951年には新型の4,500ccエンジンを積んだ375F1を投入。
3勝を挙げて王者アルファ ロメオに肉迫しました。この新型エンジンはアウレリオ・ランプレディが設計したものであり、コロンボはこの年アルファ ロメオへと戻っていきました。
初のF1優勝
1952年のシーズンは2,000ccのF2規格で世界選手権が開催されることになり、フェラーリはランプレディが設計した直列4気筒エンジンを搭載する「500F2」で参戦することになります。
前年の優勝チーム、アルファ ロメオが資金の問題から参戦しなかったこともあり、アルベルト・アスカリが8戦中6勝を挙げてワールドチャンピオンを獲得。翌1953年もアスカリが9戦中5勝でチャンピオンに輝きました。
1954年のシーズンは2,500ccの自然吸気にレギュレーションが変更となり、第二次世界大戦後初めてメルセデスがF1に復帰しました。フェラーリは500F2を発展させ625F1と553F1を投入しますが、ファン・マヌエル・ファンジオの駆るメルセデス・ベンツW196に完敗、1955年のシーズンもファンジオ+メルセデスがチャンピオンを獲得します。
しかし、1956年にメルセデスがF1から撤退し、ファンジオはフェラーリへと移籍。ファンジオはF1を3連覇し、3年ぶりにフェラーリがチャンピンを獲得しました。
エンツォに降りかかる苦難
その後は1958年にマイク・ホーソーンがドライブする246F1や、1964年の158F1によるジョン・サーティースのチャンピオン獲得などがあったものの、1960年代に入るとロータスやブラバム、ティレルといったイギリスのチームの躍進によってフェラーリは苦戦を強いられます。
また、1956年にはV6エンジンを開発するなどしていたエンツォの息子「ディーノ」ことアルフレードが死去、1961年には「宮廷の反逆」と呼ばれる幹部社員の離反が起こるなど、公私共にエンツォにとって苦難の時代が訪れたのです。
資金難からの脱出、そしてF1での復活
F1ではイギリス勢の後塵を浴びていたフェラーリですが、ル・マン24時間耐久レースでは「Pシリーズ」と呼ばれたプロトタイプレーシングカーを走らせ、1960年から1965年まで連続優勝を果たしています。
その一方、経営難となっていたフェラーリは、アメリカの自動車会社フォードとの間で買収契約を進めていました。しかし、買収はうまくいかず、それに怒ったフォードは、キャロル・シェルビーを中心として「GT40」を開発、1966年にはフェラーリの「330P3」を抑えて1位から3位までを独占しました。
その後同じイタリアのフィアットの傘下に入り、新たな資金を得たフェラーリはF1での復権を果たすために新しいエンジンの開発を始めます。このエンジンの設計・開発を手掛けたのはマウロ・フォルギエリであり、1970年に180度V型エンジン(※水平対向と呼ばれることもありますが、正しくはVバンクを180度に設定したV型エンジンであるためこう表記します)をデビューさせます。1970年のシーズンではこのエンジンを搭載した「312B」で参戦。
ジャッキー・イクスがランキング2位、クレイ・レガツォー二が3位となり、コンストラクターズタイトルで2位を獲得。1975年には「312T」が投入され、前年からスクーデリア・フェラーリに加入していたニキ・ラウダのドライブでチャンピオンを獲得、レガツォー二の5位となりコンストラクターズタイトルも獲得しました。
1976年はニキ・ラウダが大事故にあったため2戦を欠場したため、マクラーレンのジェームス・ハントが勝利しますが、1977年には再びラウダがチャンピオンとなりました。1980年から90年代中盤にかけては、ナイジェル・マンセルやアラン・プロストのドライブで、マクラーレンやウィリアムズ、ロータスなどと死闘を繰り広げました。
ミハエル・シューマッハの加入、そしてトップF1チームへ
1990年代に入ってからF1では苦戦を強いられていたフェラーリでしたが、1996年にベネトンで2年連続世界チャンピオンを獲得していたミハエル・シューマッハが加入します。
シューマッハの加入後少しずつ環境やマシンを改善し、1999年には1983年以来のコンストラーズタイトルを獲得、2000年には「F1-2000」を駆りシューマッハがチャンピオンを獲得します。フェラーリのドライバーが世界チャンピオンを獲得したのは、1979年のジョディー・シェクター以来のことでした。
そこから2004年までシューマッハは5年連続でチャンピオンを獲得、スクーデリア・フェラーリは名実ともに世界最強のF1チームとなったのです。シューマッハは2006年でドライバーを引退、スクーデリア・フェラーリのアドバイザーとしてその年のキミ・ライコネンの優勝とコンストラクターズタイトルの獲得に寄与、翌2008年もフェラーリはコンストラクターズタイトルを獲得しました。
2008年以降フェラーリはドライバー、コンストラクターズ共にタイトルを獲得してはいませんが、トップチームのひとつとして活躍を続けています。2021年シーズンのマシンは「SF21」で、ドライバーはシャルル・ルクレールとカルロス・サインツJrを起用しています。
ロードカーの誕生、そして発展
F1の資金源としてのロードカーの誕生
レースを続けるためには当然莫大なお金がかかります。レースの資金を得るために、エンツォはレーシングカーのエンジンとシャーシをそのまま使い、カロッツェリアにボディを架装させたロードーカーを販売しました。
フェラーリ最初のロードカーは1,955ccのV型12気筒エンジンを積んだ166Sをベースにした「166SC」で、1947年に製造されました。この166系ロードカーは、「166MM(ミッレ・ミリア)」や「166インター」といったバリエーションが製作されました。レーシングカーに積まれるエンジンは195、212、250と排気量を拡大していき、そのエンジンを使ったロードカーが製造されていきます。
この時代のフェラーリのロードカーは顧客のオーダーに合わせて1台ずつ作られていましたが、1953年にフェラーリ初の量産ロードカー「250ヨーロッパ」を発売します。この250 ヨーロッパはランプレディの設計したエンジンをスケールダウンした2,953ccの250エンジンを搭載、ピニンファリーナの手によるクーペボディが架装されていました。
1954年にはコロンボエンジンを搭載した「250GT ヨーロッパ」となり、同年パリショーで発表された「250GTクーペ」には、ピニンファリーナの手によるまったく新しいボディデザインが与えられました。
このコロンボエンジンを搭載した250GT系モデルはフェラーリのロードカーを確立させ、様々なバリエーションを生み出していきます。この250 GT系モデルの中で最も有名なのが、1962年に発表された「250GTO」です。
「GTO」の「O」は「ホモロゲーション(公認)」を意味する「オモロガード」の頭文字であり、GTレースに参加するために公認を取得したモデルでした。
GTレギュレーションのレースに参戦した250 GTOは、1962年から64年までFIA GT選手権を3連覇し、ツール・ド・フランスやツーリスト・トロフィーなどの耐久レースでも勝利しました。この250GTOの活躍により、フェラーリはスポーツカーメーカーとして世界中に認知されることになりました。
「275GTB」と「ディーノ」
250GT系モデルの成功によってスポーツカーメーカーとしての地位を確立したフェラーリは、その発展モデルである「275GTB」を1964年のパリモーターショー(日本ではパリ・サロンとも呼ばれた)で発表しました。
275GTBは3,285ccまで排気量をアップしたコロンボエンジンを搭載、ピニンファリーナの手による新しいデザインのボディが与えられていました。1966年にはそれまでSOHCだったエンジンをDOHC化して搭載した、「275GTB/4」を発表します。
しかし、同じ年に登場したランボルギーニ の「ミウラ」は、エンジンをミッドシップに搭載したレーシングカーばりのシャーシに、マルチェロ・ガンディーニがデザインした先進的なボディを纏い、それまでのスポーツカーを置き去りにしてしまう斬新なものでした。
フェラーリもミッドシップのロードカーを考えていなかった訳ではなく、1967年にディーノV6エンジンをミッドシップに搭載した、「ディーノ206GT」を発表しました。
ディーノはいわゆる「ピッコロ・フェラーリ」の元祖となり、V8ミッドシップモデルへと繋がっていきます。
新時代の入り口「365GTB/4」
フェラーリは275GTB/4の後継となるモデルとして、1968年のパリモーターショーで「365GTB/4」を発表します。
365GTB/4に搭載されたエンジンは4,390ccのV型12気筒で、より大きな排気量に対応できるようにビッグブロック化されてはいましたが、コロンボエンジンの延長上にあると言えるものでした。
駆動方式は今まで通りのFRでしたが、ピニンファリーナのデザイナー、レオナルド・フィオラバンティが手がけたボディは、当時としては非常に先進的なものでした。
「ウエッジシェイプ(楔形)」と呼ばれるデザインを持つボディは、1970年代から80年代にかけてのフェラーリのデザインの源流になりました。
フィオラバンティはこの365GTB/4を皮切りに、1970年代から1980年代にかけてのフェラーリの代表的な車種をデザインしていくことになります。
365GTB/4は「デイトナ」として知られていますが、この呼び名はフェラーリの正式なものではありません。
1967年のデイトナ24時間レースでフェラーリが1位から3位までを独占したことに因んでそう呼ばれるようになったと言われています。
FRからミッドシップへ「365GT/4 BB」
1971年、フェラーリはついに12気筒エンジンをミッドシップに搭載したフラッグシップモデル、「365GT/4 BB」を投入します。車名に付く「BB」は「ベルリネッタ ボクサー」の頭文字で、「水平対向のクーペ」を意味しました。
車名に「ボクサー」と付くこの365GT/4 BBに積まれたエンジンは、同時代のF1に積まれたものとは別の設計のものでしたが、180度V型レイアウトを採用していました。
365GT/4 BBは1976年に排気量を4,942ccに排気量アップした512 BBへとモデルチェンジ、1981年にはインジェクション化された512 BBiとなりました。512 BBにはレース用の「512BB LM」が用意され、耐久レースなどで活躍しました。一方のディーノ206GTに始まった小型のミッドシップモデルも独自に進化を遂げていきます。まず1969年にディーノ246GTへと排気量をアップ。
1973年には2+2の「ディーノ308GT4」、1975年には2シーターの「308GTB」が登場します。「308」は「3.0リットルの8気筒」を意味し、ディーノ308GT4は、V型8気筒エンジンを初めてミッドに搭載したモデルでした。
ディーノ308GT4は1980年に「モンディアル8」に、308GTBは1985年に「328GTB」にモデルチェンジしています。
衝撃の「テスタロッサ」
512 BBiの後継モデルとして1984年に登場したのが「テスタロッサ」です。
エンジンは512 BBiに搭載されていたものを4バルブ化して390馬力までパワーアップしミッドに搭載、ボディサイドに大きなフィンが配されたデザインはスポーツカーのデザインに大きなインパクトを与えました。
この車に付けられた「テスタロッサ」という車名は「赤い頭」という意味で、過去の「500テスタロッサ」と「250テスタロッサ」というレーシングカーに因んだものです。
元々「テスタロッサ」という名称はエンジンのカムカバーが赤く塗装されていたことに由来しており、この新しいテスタロッサに積まれたエンジンのカムカバーも赤く塗装されていました。
また、同じ1984年には、グループB規格のホモロゲーションを取得するための限定車、「288GTO」が発表されています。
この288GTOは308系のデザインを踏襲していましたが、エンジンは400馬力を発生するV型8気筒2,855ccのツインターボで、308がエンジンを横置きで搭載していたのに対して縦置きで搭載するなど全く別物て言えるものでした。
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本日の在庫数 8台 平均価格 1,959万円 支払総額 1,720~2,120万円
エンツォ最後のロードカー「F40」
フェラーリの設立からちょうど40周年となる1987年、それを記念した限定モデル「F40」が登場します。
このF40はレーシングカーにそのままナンバーを付けたような車で、これはフェラーリのロードカーの原点に立ち返ったような車でした。
エンジンは2,936ccのV型8気筒で、ツインターボを装備することで478馬力を発生。
乾燥重量で1,100kgと軽量な車体を、最高速度324km/h(※公称)まで加速しました。このF40の発表会には89歳になるエンツォが出席し、自ら発表を行ないました。
その翌年エンツォは90歳でこの世を去ります。フェラーリの40周年記念モデルというだけではなく、エンツォが最後に関わったロードカーという意味でもフェラーリにとって特別なモデルとなりました。F40は1992年までの間に1,311台が製造されています。
1990年代のロードカー
エンツォの死後、フェラーリは完全にフィアットグループに吸収されることになりました。エンツォ亡き後のフェラーリは、F1の不振や品質管理など、様々な社内問題を抱えていました。
1989年に発表された「348TB」は、テスタロッサの流れを汲むデザインを持ったモノコックボディを持つV8ミッドシップモデルでしたが、まっすぐ走らないという致命的な欠陥をはらんでいたのです。
モンテゼーモロの就任、フェラーリの再建
1991年、1970年代にスクーデリア・フェラーリのマネージャーであったルカ・ディ・モンテゼーモロが社長に就任、フェラーリの立て直しを開始します。
348TBは1993年に「348GTB」にマイナーチェンジ、翌1994年には後継モデルとなる「F355」がデビューします。
このF355には新開発の5バルブエンジンF129Bが搭載されており、1997年にパドルシフトを使ってシフトチェンジを行なうセミオートマチックトランスミッション「F1マチック」を装備したモデルが追加されました。
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本日の在庫数 12台 平均価格 1,360万円 支払総額 1,103~1,850万円
12気筒モデルの進化と「F50」
テスタロッサは1991年に「512TR」、1994年に「F512M」へとモデルチェンジを重ねて熟成されていきました。さらに、1992年には新開発のV型12気筒エンジンF116を搭載した4シーターモデル、456GTもラインナップに加わっています。
1995年には創立50周年記念モデルとなる「F50」が発表されています。このF50は「公道を走れるF1」というコンセプトのもとに開発され、搭載されたエンジンは実際にF1マシン「F92A」に搭載されていたエンジンのブロックをベースに開発されたものでした。
車体にカーボンモノコックを採用し、サスペンションにプッシュロッド式とするなど、車体の各部にF1技術が投入されていました。
V12気筒エンジン搭載モデルのFRへの回帰「550マラネロ」
1996年にF512Mの後継モデルとして発表された「550マラネロ」は、365GTB/4以来のFRレイアウトを採用していました。エンジンはF133と呼ばれる4,473ccの65度V型12気筒で、先に発表されていた456GTに積まれていたF116を高回転、高出力化したものでした。
550 マラネロは2002年に排気量を5,748ccに拡大したF133Eを搭載する「575Mマラネロ」へと進化します。
この575Mマラネロには、V型12気筒モデルとしては初めてF1マチックが設定されていました。550マラネロ以降フラッグシップモデルは12気筒のFRとなります。
V8エンジンモデルの新時代を築いた「360モデナ」
1999年に発表された「360モデナ」は完全新設計のアルミ製ボディを持ち、F355から引き継ぐ5バルブのV型8気筒エンジンを400馬力までチューニングしてミッドに搭載していました。
排気量は3.6リットル(3,586cc)となり、車名の「360」はこの排気量に由来しています。
この360モデナが新しく採用したファストバックスタイルのボディデザインは、現在のF8トリブートに続くデザインの基礎となります。
2005年まで販売された360モデナは、シューマッハがもたらしたF1黄金時代のモデルだったということもあり、16,000台以上が販売された大ヒットモデルとなりました。
360モデナはそのほとんどがF1マチック仕様で出荷されてており、これはスポーツカーにおけるATのニーズの大きさを感じさせる事柄でした。
モンテゼーモロによる様々な改革はフェラーリのF1をチャンピオンへと導き、ロードーカーの品質を飛躍的に向上させるなど企業として大きく躍進させ、「一流スポーツカーメーカー」という地位を確固たるものにしました。
2000年代のロードカー
創業者の名前を冠した「エンツォフェラーリ」
2002年はフェラーリの創業から55年目に当たり、それを記念したモデルが発表されました。この車に付けられた名前は「エンツォフェラーリ」、つまり創業者であるエンツォの名前そのものでした。
このエンツォフェラーリのデザインを手がけたのは、当時ピニンファリーナに在籍していた奥山清行でした。
F1のデザインを取り入れた個性的なデザインを持つ車体は、5,998ccのV型12気筒を積むミッドシップカーで、最後にチャリティ用に製造された1台を含めて400台が製造されました。
F1テクノロジーを投入した「F430」
2004年、大ヒットとなった360モデナの後継モデルとなる「F430」が発表されます。
このF430は360モデナの延長線上にあるボディに、4バルブのV型8気筒エンジンを搭載。排気量は4,308ccへとアップされ、出力は490馬力へと向上していました。
430という車名は360同様に排気量に由来、ローンチコントロールシステムやE-デフといったF1によって培われた技術が投入されました。
新時代のテクノロジーに挑戦した「599GTBフィオラノ」
575Mマラネロの後継モデルとして2006年に登場した「599GTBフィオラノ(※日本においては商標の関係から「599」となります)のデザイン」は、2004年に発表された4シーターモデル「612スカリエッティ」の流れを汲んだものです。
フロントに搭載されるV型12気筒エンジンは5,999ccで、最高出力は620馬力と575Mマラネロよりも100馬力以上パワーアップされていました。
599にはサーキット走行専用の「599XX」やそのロードカーバージョンの「599GTO」、コンセプトモデルでありますがフェラーリ初のハイブリッドカー「599HY-KERS」といったバリエーションモデルが存在します。
- 最新「599」中古車情報
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本日の在庫数 9台 平均価格 1,710万円 支払総額 1,462~1,999万円
新規顧客を獲得した2+2クーペカブリオレ「カリフォルニア」
2008年、フェラーリはそれまでラインナップに無かった2+2モデルを発表しました。
「カリフォルニア」と名付けられたこの車は、F430用をベースとする4,297ccのV型8気筒エンジンをフロントに搭載したFRモデルで、電動格納式のハードトップを備えたクーペカブリオレでした。
490馬力とハイパワーなエンジンを持つスポーツカーでありながら、小さいとは言えリアシートを持つこの新しいモデルは、その実用性の高さから新しいフェラーリの顧客を獲得することに成功しました。
自動車業界全体のダウンサイジングの波はフェラーリにもその影響を与え、カリフォルニアの改良型となる「カリフォルニアT」には3,855ccのツインターボエンジンが搭載されました。排気量は小さくなりましたが、ターボのおかげて出力は560馬力に向上しました。
- 最新「カリフォルニア」中古車情報
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本日の在庫数 19台 平均価格 1,325万円 支払総額 950~1,590万円
7速DCTミッションを採用した「458イタリア」
2009年に登場したV型8気筒ミッドシップモデルには「458イタリア」という名前が付けられており、車名の数字は「排気量+気筒数」へと回帰しました。
458イタリアには7速DCTミッションが採用され、3ペダルのマニュアルはついにラインナップから消えることとなりました。
エンジンはF430系のものを車名の4.5リットル(4,499cc)まで排気量アップし、馬力は578馬力までアップされました。オープンボディの「458スパイダー」には、それまでの幌に代わってリトラクタブルハードトップが採用されました。
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本日の在庫数 38台 平均価格 2,743万円 支払総額 2,023~3,467万円
フェラーリ初の4WDモデル「FF」
2011年に発表された「FF(フェラーリ フォー」は、今までのフェラーリには無かったデザインを持った4シーターモデルです。
2ボックスのデザインはヨーロッパで「シューティングブレーク」と呼ばれるワゴンライクなデザインに仕上げられ、室内は大人4人が不満なく乗れる広さを確保しています。
エンジンは660馬力を発生する6,262ccのV型12気筒で、駆動系にはフェラーリ初となる4WDシステムが採用されています。
2016年に「GTC4ルッソ」へとモデルチェンジ、V型8気筒ターボエンジンを積んだ「GTC4ルッソT」もラインナップに追加されています。
- 最新「FF」中古車情報
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本日の在庫数 13台 平均価格 1,929万円 支払総額 1,700~2,300万円
フェラーリロードカー初のハイブリッドモデル「ラ フェラーリ」
2013年に発表されたフェラーリ初のハイブリッドロードカーには、「ラ フェラーリ」という名前が与えられました。
社名そのものが単独車種の名称として使われたこの車は、599でもテストされていた「HY-KERS(ハイカーズ)」と呼ばれるハイブリッドシステムを搭載し、システム合計で963馬力を発揮するに至っています。
車体はカーボンモノコックを採用、走行条件によって可変することで常に最適な空力性能を発揮する「アクティブ・エアロダイナミクス」など先進的な装備が与えられました。
499台が限定生産された後に、チャリティ用に追加の1台を生産。2016年にはオープンボディの「ラ フェラーリ アペルタ」も発表されています。