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トヨタ自動車の歴史とルーツ・代表車種【自動車メーカーの歴史】

第二次世界大戦後のトヨタ

戦後の自動車産業の復興

1945年、約6年に渡った第二次世界大戦が終わります。敗戦国である日本はGHQの管理下に置かれ、自動車の製造も制限されることになりました。

トヨタ自動車工業の拳母工場も空襲によって大きな被害を受け、9,500人いた従業員は動員などによって3,700人にまで減ってしまいました。

衣食住を軸に据えた「トヨタ研究所」を設立

トヨタ自動車工業の社長であった喜一郎氏は、自動車製造が禁止される可能性も考えて雇用を維持するための新規事業を模索し始めます。その新規事業を研究するために設立されたのが「トヨタ研究所」であり、「衣食住」を中心にした事業の研究を行ないました。

その研究の成果は、今も続く「トヨタホーム」などの形として残っています。もちろん戦後の復興を見据えた自動車の開発研究も続けられており、小型エンジンや、トルクコンバーターの試作などを行なっていました。

そして、1946年に号機が完成した小型エンジンはS型と呼ばれ、サイドバルブ方式を採用した995ccの直列4気筒でした。

乗用車製造の再開と小型車「トヨペット」

トヨタ 歴史 TOYOPET Model SA(1951年)
TOYOPET Model SA(1951年)

S型エンジンの開発当時は、GHQの政策によってトラックの製造しか認められていなかったため、S型エンジンはまず小型トラックSB型へと搭載されました。

1947年、それまで禁止されていた乗用車の製造が解禁されました。しかし、これは1,500cc以下の排気量で、年間300台以下という限定されたものでした。

トヨタはS型エンジンを搭載したSA型乗用車の試作車を1947年の1月に完成しました。

S型エンジンはヨーロッパフォードのベビーフォードをベンチマークに開発されたものであり、SA型のボディデザインはフォルクスワーゲンやルノーなどヨーロッパの小型車を意識したと思われるデザインを採用していました。

それまでアメリカ車を参考に開発されていたトヨタの車は、戦後になってヨーロッパ車を参考にした車作りに変わっていったのです。

新型車の名前「トヨペット」、公募の末に決定!

SA型の車名は公募が行なわれ、「トヨペット」という名称が採用されました。この「トヨペット」は商標として登録され、現在もディーラーの名称として使われています。

この時代のトヨタ車はトヨタ自動車工業製のエンジンとシャシーに、ボディメーカーが製作したボディを架装するという形で製造されました。

小型車規格の拡大とR型エンジンの開発

日本の「小型車規格」、現在のいわゆる「5ナンバー」規格は1933年に制定され、当初4サイクルエンジンの排気量は750cc以下とされていました。

戦後の1948年に4サイクルエンジンは1,000ccへと改定され、さらに1949年には4サイクルエンジンは1,500cc以下へと拡大されています。

トヨタ自動車工業は排気量の大型化傾向に合わせて、小型車規格であったS型エンジンをこの規格に合わせて1,500ccのP型へと発展させると共に、1,500ccの新型エンジンの開発に着手します。

1950年に労働争議の責任を取って社長を辞任した喜一郎氏は、東京に設立した研究所で研究を行なっていました。新しいエンジンはOHV方式の1,453cc直列4気筒で、1953年にR型エンジンとして量産が開始されます。

喜一郎氏が最後に関わったR型エンジン

喜一郎氏は1952年に社長への復帰が内定しましたが、復帰直前の同年3月に57歳という若さで亡くなってしまいます。

R型と名付けられた新しいエンジンは1953年にトヨペット・スーパーRH型乗用車とトヨペット・トラックRK型へと搭載されました。S型エンジンよりも強力な48馬力を発生するR型エンジンでしたが、燃費はS型と大差なかったことからRH型乗用車はタクシーを中心に大きく販売を伸ばしました。

喜一郎氏が最後に関わったR型エンジンは、トヨタの自動車の大躍進のきっかけとなったのです。

その名は「トヨペット・クラウン」

初代 クラウン 1955年
初代 クラウン 1955年

RH型乗用車は発売から1年で5,000台以上を販売し、トヨタの主力車種になりました。

RH型乗用車はそれまでと同様に、トヨタ自動車工業製のエンジンとシャシーにボディメーカーがボディを架装するという形で作られていました。喜一郎氏の社長への復帰が決まった1952年1月、1台の乗用車の開発がスタートします。

この新しい乗用車はトヨタの自社内でボディまで設計し、自社工場で完成車として製造するというもので、トヨタが新しいステージへと羽ばたくための重要なプロジェクトでした。

開発の開始からすぐに喜一郎氏は他界してしまいましたが、その意思を継ぐ開発陣によってプロジェクトは継続されました。成功したRH型乗用車はこのプロジェクトの過程にあったとも言え、R型エンジンとRHシャシーをベースに開発が開始されました。

R型エンジンとRHシャシーの新型車、その名前は……

RS型として開発が進められることになった新型乗用車のシャシーは、RH型のシャシーをベースにフロントにコイルスプリング式の独立懸架式へと変更、油圧式のクラッチやシンクロメッシュ付きのトランスミッション、ハイポイドギアを採用したファイナルなど当時最新の装備が与えられることになります。

また、ボディを内製すること前提だったため、それまで別々に設計されていたシャシーとボディは総合的に設計されました。ボディに関しては様々なデザインが検討された結果、観音開き式のドアを備えた個性的なものとなりました。

喜一郎氏はこの世を去る前、この新しい乗用車に名前を残していました。それは王冠を意味する「クラウン」であり、喜一郎氏の夢の結晶とも言えるRS型乗用車は、「トヨペット・クラウン RS型」として1955年に発売されました。

こうして誕生したクラウンは、トヨタを象徴する車として時代に合わせてモデルチェンジを行ない、2021年現在15代目となるS220型が販売されています。

ランドクルーザーの誕生

トヨタジープ BJ型 1951年
トヨタジープ BJ型 1951年

トヨタは乗用車の開発と並行して、トラックや全輪駆動車(4WD)の開発も行なっていました。

A型エンジンから発展したB型エンジンは主にトラック用に使われるようになり、さらに改良を重ねてD型、F型へとさらに発展しました。

朝鮮戦争が勃発した1950年、アメリカ軍と警察予備隊(後の陸上自衛隊)から、全輪駆動のジープ型1/4トン積みトラックと兵器輸送用の3/4トラックの試作依頼が舞い込みます。そしてトヨタは、1951年にB型エンジンを搭載した1/4トントラックの試作車を完成させます。

入札の結果、警察予備隊には三菱がライセンス生産していたウイリスジープが採用されたものの、1953年から「トヨタ・ジープBJ型」として製造を開始しました。この「ジープ」という名称はウイリスの商標であったため、1954年に「ランドクルーザー」という名称に改められました。

警察車両・軍用車として誕生した「ランドクルーザー」

ランドクルーザー 20系  1955年
ランドクルーザー 20系 1955年

1955年には全面改良されたBJ25型を発売、より強力なF型エンジンを搭載したFJ25型もラインナップに加わりました。3/4トントラックはBQ型四輪駆動トラックとして警察予備隊に採用され、並行して開発された六輪駆動トラックのFQS型トラックもその後採用されました。

軍用車として開発されたランドクルーザーですが、その後40系、70系へと進化し、派生モデルを含めて世界中で愛用されています。

S型エンジンを搭載した「コロナ」の誕生

R型エンジンを搭載したトヨペットから始まったS型エンジン搭載車は、SC、SD、SF、SHと発展していきました。このS型エンジン搭載車の流れの中で、1957年に登場したのが「トヨペット・コロナ」ST10型です。

このST10型コロナは低価格のタクシー向け車両として開発されたモデルでしたが、先行する日産のダットサン110型を相手に販売は苦戦を強いられました。

1959年にS型エンジンを改良したP型エンジンを搭載するPT10型を投入するも、またも同年に発売となった日産のブルーバード310型とのシェア争いに苦戦します。

日本で初めてティーザーキャンペーンを実施

打倒ブルーバードをかかげたトヨタは、1960年にはPT20型のコロナを導入。このPT20型のプロモーションには車体を隠した状態での広告戦略、つまり今で言うティーザーキャンペーンの手法が用いられました。

このキャンペーンは功を奏し、1960年の4月6日に行なわれた一般向けの発表会には10万人もの人が集まりました。

PT20型は自家用車として高い人気を博しましたが、タクシーで使用された車両に発生したトラブルをきっかけに「弱い車」というイメージが世間に浸透してしまいます。

この悪いイメージを払拭するために直ちに改良が施され、1961年には1,500ccのR型エンジンを搭載したRT20型が発売されます。高性能なRT20型は、コロナに付いてしまった悪いイメージを一気に払拭し人気車となりました。

コロナの血統「プレミオ」「マークX」

コロナ マークⅡ 1968年
コロナ マークⅡ 1968年

好調な販売を続ける中、1964年には革新的なデザインを取り入れた後継車RT40型を発売。翌1965年には日本初の2ドアハードトップモデルRT50型「コロナ・ハートトップ」と、「リフトバック」と呼ばれた5ドアハッチバックのRT56を追加しました。

1968年にはコロナの上級モデルという位置付けで「コロナ・マークII」が発表されました。

その後もコロナは時代ごとにモデルチェンジを繰り返し「プレミオ」へと名を変え、コロナ・マークIIは「マークII」として独立モデルとなり「マークX」へと進化しました。

プレミオは2021年、マークIIは2019年に製造が中止されたためコロナの血脈は途切れてしまいましたが、その精神はこれからもトヨタの車の中に生き続けることでしょう。

マイカー時代の到来と、トヨタの「大衆車」

1958年に登場したスバル360は、日本初の大衆車として大きく販売を伸ばしました。このスバル360の誕生に端を発するマイカーブームの流れを受けて、トヨタは1960年のモーターショーで「トヨタ大衆車」を発表します。

排気量697ccの水平対抗2気筒の強制空冷エンジンをフロントに積んだこの車は、「パブリカ」として翌1961年から販売が開始されます。この「パブリカ」という名称は公募されたもので、「パブリックカー(大衆車)」という言葉から造られた造語でした。

大衆車「パブリカ」の成功

排気量360cc以下の軽四輪を中心に広がったマイカーブームの中、小型車であるパブリカは当初苦戦しましたが、軽四輪のデラックス(高級)化に合わせた「パブリカ・デラックス」の投入によって人気を得ることに成功。派生モデルとして「パブリカ・コンバーチブル」や「トヨタ・スポーツ800」などが発売されています。

パブリカの成功によって、トヨタは次なる大衆車戦略へと駒を進めます。1966年、パブリカとコロナの間を埋める車種として、「カローラ」を発売したのです。

新たな大衆車「カローラ」の大成功

トヨタ カローラ 初代
トヨタ カローラ 初代

カローラには新開発されたOHV1,077ccのK型エンジンが搭載され、2ドアと4ドアのセダンボディが用意されました。高性能で経済的、快適なカローラは新たな大衆車として人々に受け入れられ、月産3万台という計画が立てられたと言われています。

1969年に国内販売台数第1位に輝いたカローラは、2001年まで33年もの間1位を維持し、日本を代表する「大衆車」となり現在は12代目モデルが販売されています。

また、カローラのクーペモデルとしてラインナップされていた「レビン」と、兄弟車スプリンターのバリエーション「トレノ」は手頃なスポーティモデルとして若者に受け入れられました。

特に1983年に登場した4代目カローラ時代のモデルは形式名称の「AE86」として今も人気が高く、現在のスポーツモデル「86」を生み出す原動力となりました。

大衆車にとどまらず、スペシャリティカーやスポーツカーも登場

トヨタ ヤリス
トヨタ ヤリス

パブリカの名前は1978年に乗用車としては途切れましたが、後継のスターレット、ヴィッツへとその役割を引き継ぎ、現在のヤリスへと繋がっています。

トヨタ センチュリー 初代
トヨタ センチュリー 初代
トヨタ 2000GT 1967年
トヨタ 2000GT 1967年

また、1960年代のモータリゼーションの波の中でトヨタは、カローラのような大衆車を発表する一方で、最高級車「センチュリー」や本格スポーツカー「2000GT」といった特別なモデルも発表しています。

トヨタ、未来への挑戦

トヨタのスペシャリティカー

1970年に登場したセリカとカリーナは、量産車用としては初のDOHCエンジン2T-Gを搭載したスポーティなモデルでした。

カリーナは2ドアと4ドアのセダンボディ、セリカは2ドアクーペと後に追加された3ドアのリフトバックがラインナップされました。

新しいジャンル「スペシャリティカー」の礎を築いたセリカ

トヨタ セリカ 1970年
トヨタ セリカ 1970年

セリカは1964年に登場して大ブームを起こしたフォードのマスタングやサンダーバードといった、「スペシャリティカー」と呼ばれる新しいジャンルの車を意識して作られた意欲作でした。

マスタングと同様のエンジンや内装などを顧客の希望に合わせて自由に組み合わせる「フルチョイスシステム」が導入されるなど、自動車の新しい販売方法も提案されました。

トヨタ スープラ MA70型 1988年
トヨタ スープラ MA70型 1988年

セリカは2代目の時代に上級モデルの「セリカXX」を設定、「スープラ」としてアメリカなどでも販売されました。

3代目セリカの時代に登場した2代目セリカXXは本家セリカのを上回る人気を博し、3代目のA70型以降は日本でもスープラとして独立モデルとなりました。4代目のA80型排気ガス規制対応できず2002年に販売を終了して以来スープラはラインナップからその姿を消していましたが、2019年に「GRスープラ」として5代目が発表されました。

兄弟車・カリーナはスタンダードな乗用車へ

セリカの兄弟車として登場したカリーナは、モデルチェンジしていく中で少しずつスタンダードな乗用車としての色合いを強めていき、2001年の7代目で後継となる「アリオン」へとその役目を引き継ぎました。

アリオンはコロナの後継モデルであるブレミオとの兄弟車でしたが、カリーナの後継らしくプレミオよりもスポーティさが強調されていました。アリオンは2007年に2代目にモデルチェンジし、この2代目モデルはマイナーチェンジを繰り返しながら2021年まで販売されました。

バブル期には「ソアラ」「セルシオ」といった高級車・ハイソカーも

トヨタ ソアラ MZ20型 1989年
トヨタ ソアラ MZ20型 1989年

より高級志向のスペシャリティカーとして1981年に登場した「ソアラ」は、ヨーロッパの高級スポーティカーをベンチマークとして開発されました。このソアラは「ハイソカー」と呼ばれる新しいジャンルを切り開き、4代目のマークIIとその兄弟車クレスタとチェイサーなどもこのジャンルに含まれることになりました。

さらにバブルの時代には「アリスト」や「セルシオ」といった高級志向のモデルが次々に登場し、このハイソカーの流れは現在のレクサスブランドの礎となりました。

トヨタの見据える自動車の未来

内燃機関の限界が見え始めた1990年代、各メーカーは次世代の自動車を模索していました。世界的な企業となったトヨタは、1997年いち早く次世代の自動車と言えるモデルの販売を開始します。

パワーユニットとしてモーターとエンジンを必要に応じて使い分ける、ハイブリッドカー「プリウス」です。

世界の最先端を行き過ぎていたプリウス

トヨタ プリウス 1代目
トヨタ プリウス 1代目

1,500ccのガソリンエンジンと永久磁石式同期モーターを備えたプリウスは、10・15モードでリッターあたり28キロという当時としては驚異的な燃費を実現していました。

この初代プリウスは当然大きな注目を集めましたが、新しい物への警戒感からか販売台数は大きく伸びることはありませんでした。2003年にフルモデルチェンジを行なった2代目は、現行モデルにも受け継がれている5ドアハッチバックスタイルを採用しますが、残念ながら販売台数が大きく伸びることはありませんでした。

しかし、2009年に発表された3代目プリウスは、ガソリン価格の高騰やエコカー減税の導入といった追い風に乗って大ヒットモデルとなりました。プリウスが2009年の新車販売台数第1位に輝いたことで、3代目になってやっと時代がトヨタに追いついたといえるでしょう。

ゼロエミッションカーである燃料電池自動車「MIRAI」

トヨタ MIRAI 1代目
トヨタ MIRAI 1代目

その後、他メーカーもハイブリッドカーや電気自動車といった新時代の車を発表する中、トヨタも負けじとハイブリッドモデルを拡充していきます。そして、2014年、さらなる未来を見据えた燃料電池自動車(FCV)、「MIRAI(ミライ)」を発売します。

電気自動車は使用する電気を発電する際に二酸化炭素(CO2)や窒素酸化物(NOx)といった有害物質を発生させている可能性がありますが、水素と酸素を反応させて発電し、その電気を使ってモーターを駆動させる燃料電池車は発電時に水しか発生しません。

つまり、燃料電池車であるMIRAIは、現代社会において問題とされている、環境に有害な物質を一切発生しない本物の「ゼロエミッションカー」と言えるでしょう。2020年MIRAIは、航続距離や出力の向上に加えてより高級感のある車体などを採用した2代目にモデルチェンジしました。

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こうした常に未来を見据えた自動車の開発を行なってきたトヨタの精神の根底には、創業者である佐吉氏や自動車の未来を切り開いた喜一郎氏の姿勢が生き続けていると言えるでしょう。

そして、世界的な企業へと成長したトヨタ自動車株式会社の現在の社長を務めるのは、佐吉氏のひ孫、つまり喜一郎氏の孫に当たる豊田章男氏です。

トヨタ自動車 豊田章男社長

2009年に社長に就任した章男氏は、自らテストドライバーを務めたりレースに参戦するなど、喜一郎氏のように自動車の開発現場に立った車作りを自ら実践しています。創業時の精神を今に引き継ぎつつ世界一となったトヨタの描く未来、それは自動車の未来そのものなのかもしれません。

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執筆者プロフィール
後藤 秀之
後藤 秀之
1970年代生まれ。バイクと自動車を中心にした趣味関係の書籍編集長を長年務めた後、フリーランスライターに。バイクと自動車以外にも、模型製作やレザークラフト 、ロードバイクや時計など男子の好む趣味一式を愛...

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