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トヨタ自動車の歴史とルーツ・代表車種【自動車メーカーの歴史】

2020年、953万台の自動車を売上げ、5年ぶりに世界一となったトヨタ自動車。

1933年に「豊田自動織機製作所」内に設立された自動車製作部門から始まり、1937年に独立した自動車製造会社「トヨタ自動車工業株式会社」として独立しました。

1982年に販売会社であったトヨタ自動車販売と合併し、現在の「トヨタ自動車株式会社」となったのです。

トヨタの歴史を名車で振り返る記事はコチラ!

トヨタ、そのはじまり

稀代の発明家、豊田佐吉の誕生

豊田佐吉氏(1927年)

トヨタグループの創始者である豊田佐吉氏は、1867年(慶応3年)に遠江国敷地群山口村(現在の静岡県湖西市山口)で農家の長男として生まれました。

佐吉氏が生まれたのはいわゆる幕末であり、誕生年である1867年に当時の将軍徳川慶喜が大政奉還を行なったことにより明治政府が誕生しています。

佐吉氏は、大工としても働いていた父の伊吉氏の元で大工修行をはじめますが、紡績会社への就職を試みたり、家族に無断で東京へ出るなど新しいことにチャレンジしようとする行動力に溢れた若者でした。

静岡県湖西市には「豊田佐吉記念館」があり、佐吉氏ゆかりの品々や後述する木製人力織機などが展示されています。

1891年に豊田式木製人力織機の特許を取得!

豊田式木製人力織機 (1890年)
豊田式木製人力織機 (1890年)

そんな佐吉氏が18歳になった1985年、政府は発明の特許を保護する「専売特許条例」を施行しました。

佐吉氏は両手を使わなければ作業ができなかったバッタン付き高機と呼ばれる当時の織機を改良し、片手で作業ができる「豊田式木製人力織機」を発明、1891年に初めてその特許を取得しました。

その後も織機の研究を続けた佐吉氏は、1895年に糸繰返機、1898年には元々目指していた蒸気動力によって作動する木鉄混製動力織機の特許を取得し、「豊田式汽力織機」を完成させました。

佐吉氏は生涯で45の工業所有権(特許と実用新案を合わせたもの)を取得しており、その内38件は織機に関するものでした。

日本初の動力織機「豊田式汽力織機」

豊田式汽力織機(木鉄混製動力織機) (1896年)
豊田式汽力織機(木鉄混製動力織機) (1896年)

日本初の動力織機である「豊田式汽力織機」ですが、それ以外に特筆すべき機構が備えられていました。それは「緯(よこ)糸停止装置」と呼ばれるものです。

これは、よこ糸が切れたり、消費されなくなった時に自動的に織機を停止させる装置で、製品の品質安定に大きな効果を与えるものでした。

自動織機を改良し、不良品の発生を少なくすることに成功!

その後も、たて糸の張力を一定に保って切断を防ぐ装置や、たて糸が切れた際に織機を自動停止させる「経糸停止装置」などを発明し、自動織機は改良を重ねていきました。

この不具合の発生時にいち早く織機を停止させるという機構は、自動化された工場現場において不良品の発生を防ぎ、手直しなどによって発生する損失を防ぐことに成功しました。

そして、この考え方は、現在のトヨタ生産方式の根底を支える考え方になっていると言って良いでしょう。

「豊田式織機株式会社」の設立と、豊田佐吉の解任

佐吉氏の発明した動力織機は統廃合の続く当時の紡績業界において大いに求められ、当時はまだ個人事業であった豊田商会の資金力では対応できなくなったため、1907年に「豊田式織機株式会社」が設立されました。

常務取締役としてこの会社に迎えられた佐吉氏は、それまで以上に研究開発に力を入れ、1907年から10年の間に16件もの特許を取得しました。

発明家気質が経営陣との対立を生み……

しかし、元々実業家というよりも発明家であった佐吉氏のその姿勢は、他の経営陣との間に溝を生んでしまいます。

そして、「会社の業績が上がらないのは、発明や試験に社員の気が奪われすぎているからだ」として、その責任を取って常務取締役の辞任を求められてしまいます。

豊田佐吉の新たなる舞台「豊田紡織株式会社」

豊田織機株式会社を離れた佐吉氏は、米欧視察へと旅立ちました。

約1年の視察を終えて帰国しすると、字米田(現在の名古屋市西区)に土地を借りて「豊田自動織布工場」を設立、特許権の譲渡などで得た資金を元に自動織機8台を含む200台の織機を揃えたのです。

第一次世界大戦後の日本の輸出を支える工場に

自動織機の研究を続ける中で佐吉氏は、日本の糸には品質のムラがあり、さらに張力に問題があることに気がつきました。そして、糸の品質を安定させるために独自の紡績工場を設立、「豊田自動紡織工場」へと名称も改められました。

第一次世界大戦の影響によりヨーロッパの紡績産業が軍需産業へと転換していく中、それに代わって輸出を伸ばした日本の紡績産業は大きく躍進しました。

その例に漏れず業績を伸ばした豊田自動紡織工場も株式会社へと改組され、1918年に「豊田紡織株式会社」が設立されました。

自動車産業への参入

豊田喜一郎の入社と自動車製造のはじまり

田喜一郎氏
豊田喜一郎氏

佐吉氏の長男として1894年に誕生したのが、トヨタ自動車の創業者となる豊田喜一郎氏です。

喜一郎氏は1920年に東京帝国大学工学部を卒業後、企業経営に関する法律などを学ぶために法学部へ再度入学します。

しかし、その頃佐吉氏たちが上海工場の建設に手一杯となったため、名古屋の工場における技術責任者として1921年に豊田紡績へと入社することになりました。

新型のG型自動織機の完成

無停止杼換式豊田自動織機(G型)
(1924年)
無停止杼換式豊田自動織機(G型) (1924年)

本格的に自動織機の開発を始めた喜一郎は、イギリスのプラット社での研修を含むヨーロッパ視察を経て、1924年「G型自動織機」と呼ばれる新型の自動織機を完成させるに至ります。

このG型自動織機を量産するために、喜一郎氏は今の愛知県刈谷市に新しい工場を建設することを立案しました。

新工場の設立が決定すると、自動織機の製造を専門とする「豊田自動織機製作所」が1926年に設立されました。

トヨタグループの発祥の地に立っているトヨタグループ館は、旧豊田紡織(株)本社事務所を建設当時の状態に修復したものだそうです。

10万ポンドの特許譲渡

G型自動織機は海外にも積極的に輸出され、世界的に高い評価を受けることとなりました。そして1929年、イギリスのプラット社に織機に関する特許を10万ポンド(現在の貨幣価値で約10億円)で譲渡する契約を結びます。

この頃すでに自動車の製造を志し始めていた喜一郎は、海外への特許販売の際に自動車工場の視察などを行なっていました。

関東大震災で自動車製造に興味を持つ

喜一郎氏が自動車製造に興味を持つきっかけとなったのは、1923年に発生した関東大震災でした。

それまで交通インフラの中心であった鉄道は震災によって壊滅的な被害を受けたため、輸送手段として自動車の需要が飛躍的に高まったのです。

自動車の需要が高まったことにより、アメリカのフォードやGM(ゼネラルモータース)は日本に組み立て工場を作り、日本の自動車市場をほぼ独占することになりました。

国産自動車研究のはじまり

そんな中、1930年頃から国産自動工業を興そうという気運が高まり、豊田自動織機製作所の中にも自動車研究室が設けられました。

当初は常務取締役であった喜一郎氏の個人研究という形での発足でしたが、本格的に自動車の研究開発を始め、1931年に60ccの2気筒の小型エンジンを完成。

1933年には自動車研究は正式に豊田自動織機製作所の事業となり、試作工場も設立されました。

OHV直6・A型エンジンの製作を開始

そしてシボレーのエンジンをベンチークとして、A型エンジンの製作を開始します。1934年に完成したA型エンジンは、OHV方式の直列6気筒エンジンであり、3,389ccの排気量から65馬力を発生しました。

こうした自動車研究の費用として用意された100万円は、プラット社に販売した織機の特許料が充てられたと言われています。

夢の結実、G1型トラックとA1型乗用車

試作工場での「トヨダ A1型試作乗用車」完成式
(1935年)
試作工場での「トヨダ A1型試作乗用車」完成式 (1935年)

喜一郎氏を中心とした自動車製造部門は、1935年にA1型乗用車とG1型トラックの試作車を発表しました。A1型試作乗用車は翌年までに3台が製造されましたが、車体の一部にはシボレー製の部品がそのまま使われていました。

その年の12月にG1トラックが発売されましたが、リアアクスルのハウジングが破損するというトラブルが続出してしまいます。何せ国産初の量産自動車ですから、それ以外にも様々なトラブルが発生したと言われています。

GA型トラックとAA型乗用車へ

トヨダ AA型乗用車
トヨダ AA型乗用車

それらのトラブルを丁寧に解析して確実に解決していき、改良型のGA型トラックに進化させました。

A1型乗用車も同様に改良が施され、AA型として1936年から販売が開始されます。AA型はセダンでしたが、AB型と呼ばれるフェートン(オープンボディ)や、ABR型と呼ばれる軍用フェートンなどのバリエーションがありました。

「トヨダ」から「トヨタ」へ

佐吉氏そして喜一郎氏の苗字は「豊田」ですが、この読みは「とよだ」であり「とよた」ではありません。では、なぜ現在の企業名は「トヨタ」なのでしょうか?

実際に1935年に登録されたマークは、元々の発音である「TOYODA」という表記でした。しかし、1936年に新しいロゴマークの懸賞募集が行なわれ、そこで「トヨタ」といカタカナを使ったロゴマークが選ばれます。

そして1937年に正式に「トヨタ」という商標が登録され、それ以降社名に「トヨタ」が使われることになりました。

ちなみにこの時の懸賞金は1等が100円(現在の貨幣価値で約100万円)という当時としては破格な物でした。そして1937年、自動車製造部門は「トヨタ自動車工業株式会社」として独立することになったのです。

インチ規格のA型エンジンからメートル規格のB型エンジンへ

トヨタ自動車工業が設立された1937年頃から、A型エンジンに変わる新型エンジンの開発が始められます。

A型エンジンがシボレーの部品との互換性を考慮してインチ規格で作られていたのに対して、新しいエンジンはトヨタの専用部品のみを使用することを前提にメートル規格で設計されました。

ロングライフとなったB型エンジン

この新しいエンジンはB型と呼ばれ、A型と同じOHV6気筒3,389ccでありながら75馬力を発生しました。クランクシャフトのやカムシャフトの軸受けも3ヵ所から4ヵ所に増やされ、耐久性の向上なども考慮されていました。

B型エンジンはGB型トラックやAA型乗用車に搭載され、改良を重ねながらトラック用などとして1956年まで20年近くの間製造されました。

第二次世界大戦と自動車開発

1938年に始まった第二次世界大戦は、少しずつトヨタなど一般の企業にも影響を与えはじめました。

1938年にAA型よりも小型のエンジンを搭載し、経済性に優れた車の開発を当時の商工省から要請された喜一郎氏たち自動車部は、既に開発を始めていたOHV4気筒2,258ccのC型エンジンを使った中型乗用車の試作を開始しました。

ほとんど搭載されなかったC型エンジン

この試作中型乗用車はAE型と呼ばれ、「紀元2600年記念 トヨタ国策乗用車」として発表。この「国策乗用車」の車名は公募されて「新日本号」と名付けられましたが、軍用として76台が製造されたのみでした。

C型エンジンは1940年にBA型にも搭載されましたが、この車は生産台数わずか17台、BC型に至っては試作車1台を作っただけで戦争の影響によって開発が中止されてしまいました。

そんな戦時中の1941年、喜一郎氏はトヨタ自動車工業の2代目社長(初代社長は佐吉氏の婿養子であった豊田利三郎氏)に就任しました。

執筆者プロフィール
後藤 秀之
後藤 秀之
1970年代生まれ。バイクと自動車を中心にした趣味関係の書籍編集長を長年務めた後、フリーランスライターに。バイクと自動車以外にも、模型製作やレザークラフト 、ロードバイクや時計など男子の好む趣味一式を愛...
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