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「白いエンジン」ってなんだ?マツダ基幹車種の原点《初代ファミリア》とは【推し車】

現在のMAZDA3へと続くマツダ基幹車種の原点

トヨタ博物館の初代ファミリア800 4ドアセダン

ロータリーエンジンの普及を狙った2代目「ファミリアロータリークーペ」、社会現象にもなった大ヒット作の5代目「赤いファミリア」、WRCで国産初のフルタイム4WDターボとして戦った6代目や7代目、時代の波に乗りS-ワゴンをラインナップした9代目…。

1963年に初代を発売して以来、マツダの主力量販車として常に先頭を走り続けた「ファミリア」は、2000年代に「アクセラ」と改名、さらに国際名の「MAZDA3」と統一して、現在もなおマツダの基幹車種であり続けています。

そのルーツとなる初代ファミリアは、2ドアセダンがマツダミュージアムへ、4ドアセダンがトヨタ博物館へ展示されており、今回はそれらの写真を交えつつ、当時のファミリアとマツダを取り巻く環境を紹介しましょう。

4ドアセダンのマツダ1000から、始まりは800cc級ライトバン

マツダミュージアムの初代ファミリア800 2ドアセダン

R360クーペ(1960年)、初代キャロル(1962年)と、軽4輪乗用車への参入は順調にスタートしたマツダですが、もちろんその上の小型乗用車への参入も視野に入れていました。

1961年にはキャロルの4ドア版へ700ccエンジンを積んだ「キャロル700」、1962年には1クラス上の独立トランクつきFR4ドアセダン、「マツダ1000」を全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)で発表。

キャロル700は1962年に360cc版から数ヶ月遅れでキャロル600として発売しますが、本格的な小型乗用車第1号となるべく開発されたマツダ1000は時期尚早と計画が練り直され、1963年9月に発表した782ccエンジンを積むライトバンが、初代「ファミリア」です。

その背景には、1960年の乗用車生産はわずか16万5,000台、1961年の乗用車個人所有率も12%にとどまっており、小型乗用車の大口ユーザーといえばタクシー、個人向け乗用車なら商用を兼ねたライトバンが有利、という判断がありました。

その当時、トヨタの初代パブリカ(1961年)こそ2ドアセダンで発売されたものの、結局は旺盛な商用車需要に応えて翌1962年にライトバンを追加、オート3輪時代からマツダのライバルだったダイハツも、1963年4月に発売したコンパーノはライトバンからのスタート。

いかに安価な700~1,000cc級小型乗用車とはいえ、「ただ人が乗るだけのファミリーセダン」を求めるユーザーなら1,000~1,500cc級を求めますし、小さくとも安いクルマを求めるユーザーなら、貨客兼用車でもなければ、所有するだけの余裕はなかったわけです。

そのために軽商用ライトバンも販売されていましたが、もっと性能やスペースに余裕のある商用車へのニーズは高く、初代ファミリアもこうした現実に合わせてライトバンから発売。

デザインや使い勝手の評価が高く、発売4ヶ月後には前述した同クラスで44%のトップシェアを獲得する、ヒット作となりました。

直線的で引き締まったデザインは、若手デザイナーの案を採用

テールまでグルリ取り囲むメッキモールが初代ファミリアの特徴

当時のマツダは、3輪/4輪トラックや軽自動車では国内の工業デザイナー小杉 二郎氏を起用し、ライトバンを含む小型4輪乗用車はイタリアのカロッツェリア(自動車デザインスタジオ)、ベルトーネへデザインを依頼していました。

実際に初代ルーチェ(1966年)はベルトーネの基本デザインを元にマツダのデザイナーが手を加えたもので、初代ファミリアも一見するとベルトーネ風ですが、マツダ公式「マツダの名車たち ファミリア第2章」によれば、若手デザイナーの案を採用した事になっています。

先端でクイッと下がったボンネット先端からウィンドウ下のボディ上部を、トランクも含め直線的にグルリと取り囲むラインは初代ルーチェにも通じますが、メッキモールを使った分だけ、ファミリアの方が小さくともデラックス感はありました。

ボンネット先端を直線とせず、中央部を盛り上げて先端も少し伸ばした処理はプリンスの2代目グロリア(1962年)と似ており、落ち着いたイタリアンデザインというより、ちょっとゴージャスで勢いのあるアメ車風に仕上がっています。

1962年の「マツダ1000」とはフロントマスクが大きく異なっており、どの段階からかは不明なものの、ルーチェ同様にベルトーネの基本デザインを社内の若手デザイナーへリファインさせたのかもしれません。

結果的にこれが成功し、700〜800cc級ライトバンでトップシェア獲得の原動力となりました。

追加された本命、セダンもシェア30%超え

1962年の「マツダ1000」以来の大本命、ファミリア800 4ドアセダンは1964年10月にようやく発売

ライトバン発売翌年、1964年にはステーションワゴン、4ドアセダン、2ドアセダンが発売され、セダンは1965年に市場シェア30%を超える急成長を記録、1966年に初代トヨタ カローラ、初代日産 サニーが発売される「マイカー元年」以前のヒット作になりました。

バン、セダンと立て続けにヒットを飛ばした初代ファミリアに危機感を感じていたのは、意外にもトヨタのカローラ開発主査だった長谷川 龍雄氏で、マツダがファミリアでカローラやサニーを蹴落とすテコ入れに走らないのを、不思議に感じていたと言われています。

特に1965年以降はスポーティな2ドアクーペや987ccエンジンを追加しており、2代目から追加された1,200ccエンジンが初代でデビューしていれば、「マイカー元年」の様相も大幅に変わっていたかもしれません。

しかし、当時のマツダはロータリーの実用化に傾倒してレシプロエンジンの実用車へ十分な開発資源を割けない状態にあり、モタついている間に初代カローラの爆発的ヒットを許し、ファミリアが再びカローラを脅かすのは、5代目(1980年)を待たねばなりませんでした。

2代目のロータリークーペでセンセーションを巻き起こした1960年代のファミリアですが、もしロータリーエンジンがなければ、日本を代表する小型ファミリーセダンへ成長し、その後の日本車史はだいぶ変わっていたのでしょうか。

初代ファミリアで注目される「白いエンジン」と始動クランク

跳ね上げ式になっているのがわかるフロントのナンバープレート。奥にはエンジン始動クランク棒を突っ込む穴がある

ロータリーに傾倒していたマツダ…とはいっても、戦前にオート三輪用エンジンを自社開発して以来の歴史あるエンジン屋でもあり、キャロルに引き続いて採用された、直列4気筒OHVオールアルミの「白いエンジン」は、当時でもトップクラスの水準でした。

クーペには68馬力で最高速145km/hまで引っ張る新開発の1,000cc直4SOHCエンジンも積みましたし、ロータリーがなくとも十分に優れたエンジンを開発できていたのです。

さらに2速オートマの追加など新機軸も取り入れていった初代ファミリアですが、ひとつ面白いのは昔ながらの「エンジン始動クランク」を残していたこと。

フロントのナンバープレートを跳ね上げると、バンパーの奥へクランク棒を差し込む穴があり、いざとなれば押しがけなどに頼らず、手動でのエンジン始動が可能でした。

新技術にあぐらをかかず、古い機構でも必要とされる可能性があるうちは残しているのが面白いとこで、単にカッコイイ、性能がいいというだけではなく、マツダがオート3輪で培ったユーザー本位のクルマづくり精神は、こんなところからも感じられます。

知れば知るほど「もしかしてマツダって、ロータリーなんかいらなかったのでは?」と思わせる発見が多い初代ファミリア、トヨタ博物館やマツダミュージアムの展示車をジックリ見てみると、まだまだ面白い発見があるかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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