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「天才」アイルトン・セナ覚醒!破竹の16戦15勝を収めた伝説のマシン・マクラーレン ホンダ MP4/4【推し車】
目次
ホンダF1にとって最高の年となった「1988年」
2023年現在まで、ホンダのF1プロジェクトでもっとも栄光に満ちた時期はいつだったか…といえば、「1988年」を置いてほかにないでしょう。
前年にホンダエンジン快進撃の一翼を担ったロータスこそ不振を極めたものの、新たなカスタマーとなったマクラーレンに、前年ロータスで活躍した「天才」アイルトン・セナが移籍、「教授」アラン・プロストとのツートップ。
加えて翌年からの規則変更によるターボ時代最後の年であり、他社エンジンの開発が停滞する中、ホンダにとってはむしろRA165E以降の集大成となる「名機」、RA168Eが熟成の極みに達していました。
マクラーレン ホンダMP4/4はまさに「勝つべくして勝ったマシン」だったのです。
ロータスに続く名門、マクラーレンにエンジンを供給
1987年にはウィリアムズとロータスへ供給、前者は9勝、後者は2勝の計11勝をあげ、ウィリアムズのコンストラクターズ、ネルソン・ピケ(ウィリアムズ)のドライバーズとWタイトル獲得、イギリスGPではホンダエンジンが1-2-3-4フィニッシュを決めます。
一方で、燃料使用量制限を課しても技術力を持ったサプライヤーによる革新が進むのみ、過熱するパワー争いに歯止めのかからない1.5リッターターボエンジンにF1側も見切りをつけ1989年からのターボ禁止を決定、1988年はターボ最後の年(当時)と決まりました。
ホンダとしては新規則対応用の3.5リッターV10自然吸気エンジンの開発を始めつつ、RA165E系V6ターボエンジンの熟成を進めたRA168Eで1988年シーズンを戦う事となりますが、1987年シーズン半ばには反感を買いつつもウィリアムズへの供給打ち切りを決定。
新たな供給先は1966年からF1に参戦している名門・マクラーレンで、TAG(ポルシェ)エンジンの不調を抱えつつ1987年にはコンストラクターズタイトル2位につけ、同タイトルでのホンダエンジン1-2を阻止する強豪でした。
「天才」アイルトン・セナの覚醒を促すマクラーレンへの移籍
マクラーレンの1987年ドライバー陣は「教授(プロフェッサー)」の異名をとる名手アラン・プロストと、ステファン・ヨハンソンでしたが、ホンダの意向もあって「天才」アイルトン・セナがロータスから移籍します。
ワリを食ったヨハンソンについては読者諸兄も覚えておられるかどうか、1983年には第2期ホンダF1初の参戦となったスピリット ホンダ 201Cを駆ってホンダへ貴重な経験をもたらした人物でしたが、当のホンダによって2度もF1のシートを失う憂き目を見ました(※)。
(※セナの後釜はウィリアムズからネルソン・ピケが移籍、その後釜はリカルド・パトレーゼで行き場のないヨハンソンは翌年からリジェでF1参戦を継続しつつ、ヨコハマタイヤやTaka-Qのスポンサードを得て日本との縁が続き、トヨタのCカーにも乗っています)
勝利のために非情の決断を下したホンダですが、確かにセナにはそれだけの価値がありました。
開幕戦ブラジルGPではマシン不調でスタート前にTカーへ乗り換え失格という珍事を起こし、完走すれば淡々と1位か2位のプロストに比べ表彰台の回数も少なく、マクラーレン同士の直接対決ではプロストからのプッシュに弱いと、まだ粗削りの若さが目立ったセナ。
しかし最終的にはプロスト(7回)を上回る優勝8回でドライバーズタイトルを獲得し、見事にホンダの期待へ応えてその後のマクラーレン ホンダ、そして自身の伝説においても黄金時代の始まりとなったのです。
またも続く「ブラバム」との縁、マクラーレンMP4/4
ホンダエンジンの新たなカスタマーとなり、1.5リッターターボ時代のF1最強となる名機、RA168Eを得たマクラーレンもまた、大きな転機にありました。
この年から、後にマクラーレンのロードカー部門で「マクラーレンF1」を設計した事でも知られる名人、ゴードン・マーレイが移籍しますが、その移籍元が1960年代からホンダF1との関わりでたびたび名が出る「ブラバム」。
この頃のブラバムF1チームは既にジャック・ブラバムの手を離れていたとはいえ、そこでマーレイが開発したF1マシンのうち、末期のBT55をさらに熟成したようなマシンが、マクラーレン移籍後初となる「マクラーレンMP4/4」。
その特徴をザックリ言うと、「ドライバーを後ろに大きく寝かせてでもマシンの全高を下げ、フラットな気流でリアウィングに最大限の仕事をさせ、さらにギアボックスにもディフューザー効果を発揮するなど、空力にとことんこだわったマシン」。
ブラバムBT55ではBMWエンジンとのマッチングをうまくこなせず不振でしたが、ホンダエンジンを得たマクラーレンMP4/4ではこれがバッチリとハマります。
さらに、F1の規則変更でドライバー位置を後退させねばならなかった時、同じく規則変更で燃料タンクの容量を減らした分だけスッポリと収まり、重量バランスもバッチリ!
ここまでお膳立てが整うと、何か妙な新機軸でも採用してトラブル多発しない限り、勝てなきゃおかしいというくらい万全の常態です。
怒涛の16戦15勝でブッチギリのWタイトル!
そうして迎えた1988年シーズン、マクラーレン ホンダは無敵の快進撃でセナかプロストいずれかがほぼ必ず1位に、場合によっては1-2フィニッシュを決め16戦15勝。
2位のフェラーリを全く寄せ付けない勢いで、ブッチギリのコンストラクターズタイトル、セナのドライバーズタイトルを決めます(※)。
(※セカンドカスタマーのロータスはこの頃に資金不足による開発の停滞、チーム体制の混乱が続き名手ピケをもってしても全く振るわず、この年限りでホンダエンジンを失う。)
しかもそれがフジテレビで全戦地上波放送され、既に第11戦ベルギーGPでコンストラクターズを決め、王者として乗り込んだ日本GPでは日本のファンの目前でセナのドライバーズタイトルが決まったのですから、この年のF1はほぼマクラーレン ホンダが主役でした。
CMでは女性ファンがうっとりとした目で「セナ様…」とつぶやき、バブルの勢いで世界一の国になろうとしているような錯覚をしていたあの頃の日本にとって、1988年のホンダF1は日本という国の絶頂期を示すエピソードのひとつだったと言えます。
全勝に至らなかった原因への、思わぬ因縁
しかし読者の皆さんは「16戦15勝はいいけど、残り1勝はどうなったの?」と思うことでしょう。
それはこの年の開催(9月11日)直前、8月14日に90歳でこの世を去ったエンツォ・フェラーリに勝利を捧げようと、フェラーリF1チームが燃えていたイタリアGPでした。
この時のマクラーレン ホンダも、フェラーリとティフォシ(イタリアの熱狂的なフェラーリF1ファン)の事情はさておき絶好調で、ポールポジションはセナ-プロストのフロントロー独占でスタート。
しかしスタート直後から不調だったプロスト車のエンジンはついに35周で音を上げ、燃費の悪化に苦しみつつも終盤までトップを走っていたセナの目前で、周回遅れのマシンがブレーキングの失敗でバランスを崩し接触!
これでセナがリタイアとなり、空前絶後の全勝を逃したマクラーレン ホンダですが、周回遅れのマシンは前年限りでホンダに三下り半を叩きつけられた、ウィリアムズのFW12。
しかもドライバーのジャン=ルイ・シュレッサーはこともあろうに1968年、魔の空冷F1マシン、ホンダRA302唯一の実戦でクラッシュ、炎上事故でこの世を去ったジョー・シュレッサーの甥と来れば、いかに偶然の重なりでも、何かの因縁か神の采配を感じずにはおれません(※)。
(※そしてレースはティフォシの願い通り、フェラーリのものとなった)
1988年のマクラーレン ホンダにとっては、ちょっとしたベストへのシミ─完璧ではなかった栄光と興味深いエピソード─を残したイタリアGPでした。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...