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トヨタ vs 日産の大激突!国産車史上最大のシェア争い・BC戦争の番付を振り返る【推し車】

トヨタと覇権を争った「技術の日産」も今は昔…

「マイカー元年」の前哨戦として激しいシェア争いを繰り広げた、ダットサン(日産)ブルーバードとトヨペット(トヨペット) コロナ(背景:©taku/stock.adobe.com)

レースでは今でもフェアレディZやGT-Rが頑張ってますし、ノートなどe-POWER車、サクラやアリアなどBEVでは頑張っている日産ですが、「技術の日産」と言われ、トヨタと国産自動車メーカーの覇権を争った時代は遠い昔の話になってしまいました。

そのため、最近の日産しか知らない世代と、昔の元気が良かった(良すぎた?)日産を知っている世代ではクルマ好き同士でも話が合わない事があるかもしれません。

今回は、戦前から大衆車の名門だった日産、当時のブランドでいえば「ダットサン」と、戦後に大衆車へ進出した新興メーカー、トヨタにとって1960年代の重要なターニングポイント、日産 ブルーバードとトヨタ コロナによる「BC戦争」について紹介しましょう。

BC戦争の前哨戦~戦後復興期

ダットサンDB-5

1950年代、太平洋戦争後の焼け野原から朝鮮戦争特需で奇跡の復興を遂げた日本では、生産制限の撤廃やガソリン販売の自由化で自動車需要が急増し、それに応えるべく当時の国産車メーカーは大メーカーから町工場レベルまで大いに盛り上がりました。

ホンダやスズキ、スバル、プリンスのように、戦後ほぼイチから立ち上がって発展したメーカーもあれば、戦前からの実績を足がかりにするメーカーもありましたが、トヨタと日産は後者の類。

ただし、戦前・戦中はトラックやバス、大型乗用車のメーカーだったトヨタに対し、同じく「ニッサン」ブランドでトヨタと争いつつ、吸収合併した「ダットサン」ブランドで大衆向け小型乗用車や、小規模事業者向け小型トラックも作った日産では出発点が異なります。

トヨタは1947年に1リッター級小型車の「トヨペットSA型乗用車」を作りますが、タクシー向けには評判が悪く、小型トラックのSB型へ乗用車ボディを架装したSB改造タクシーがメイン。

対する日産は722ccの戦前型ダットサン小型乗用車をベースにした「ダットサンDA」、「ダットサンDB」で戦前から「1にソロバン、2に電話、3にトラック、ダットサン」と歌われたほどのブランドイメージを最大限に活かします。

ダットサンDB-2(1950年)以降860ccへ拡大、DB-4(1951年)ではホイールベースを延長、DB-5(1953年)には4ドア化し、小型タクシーユーザー向けの絶え間ない改良で、圧倒的な支持を受けていたのです。

さらにデラックスセダン系の「DB」以外に実用車的なスタンダードセダン「DS」系もDB系と同時に進化しており、4ドア版スリフトDS-4やDS-5、その後継コンバーDS-6(1954年)と、大衆車では新参のトヨタに比べ、分厚いラインナップを誇りました。

日産の圧勝だった初代コロナ vs ダットサン110/210

ダットサン210(1958年オーストラリア一周ラリー参戦車の1台、「富士号」)

トヨタも負けじとSB改造車からRH系「トヨペット・スーパー」を経て初代「トヨペット・クラウン」(1955年)に至るわけですが、1.5リッター級と当時の小型車枠いっぱいの豪華デラックス路線へ向かったので、小型大衆車はちょっとお留守になります。

その間に日産は戦前型ダットサンから脱皮した戦後型の小型乗用車第1号、「ダットサン110」(1955年)を発売、エンジンこそDB系と同じ860ccでしたが、1957年にはイギリスのオースチン社製乗用車の国内生産実績を活かし、1,000ccエンジンの210を発売。

小型タクシー業界向け乗用車で水を開けられたトヨタも、クラウンの成功により1年ほどでお役御免となった同クラス実用セダン「マスター」のパーツを流用、旧式ながら信頼性の高い1リッターS型エンジンを積む初代コロナ(1957年)を発売して対抗します。

しかし、同社初のモノコック構造という点を除けばエンジンも内外装も古くて見るべき点がなかったコロナに対し、細心のOHVエンジンを積み、オーストラリア1周ラリーで抜群の耐久性をアピールしたダットサン210は市場での評価も高いものでした。

まだ「ブルーバード」の名は出ていないものの、BC戦争の第1戦はダットサン(日産)の圧勝だったのです。

信頼性でまた日産圧勝、2代目コロナ vs 初代310ブルーバード

ダットサン310 初代ブルーバード(女性向け特別仕様車ファンシーデラックス)

1959年にダットサン210はダットサン310「ブルーバード」初代モデルへとモデルチェンジ、210で実績を積んだ1リッターOHVエンジンに、翌年には1.2リッターエンジンも加え、何より余計な装飾もなくスマートで近代的なデザインで、完全に戦後復興期から脱却。

トヨタも1960年にコロナを2代目へモデルチェンジ、日本初とも言われる発売までから段階的にちょい見せするティーザーキャンペーンで話題を集め、やはりスマートなデザインで当初は好調なセールスを記録、ついにダットサンへ追いつくかと期待されます。

しかし、2代目コロナ初期のカンチレバー式と呼ばれる独特のリアサスペンションが耐久性不足で、タクシー業界から総スカンを食って販売は急速に低迷、オーソドックスなリーフリジッド式へと改善したものの、初期の酷評を覆すに至りませんでした。

1960年代はじめ頃の日本はまだマトモな舗装路が整備されておらず、未舗装路や維持補修の追いつかない穴だらけのデコボコ道を猛スピードで走り抜けても耐える足回りが要求されており、海外ラリーで実績を積んだダットサンの方が、そこをよく理解していたのです。

さらにトヨタはそれまでもトヨペットSAに四輪独立懸架を採用して同様のクレームを受けており、今ひとつユーザーの使用状況を理解できていない、技術先行型のクルマづくりでウケが悪いという、後年の評判とかなり異なる自動車メーカーでもありました。

悪評を挽回したいトヨタは、コロナのCMでドラム缶を蹴散らして軟弱なイメージ脱却を図り、1963年の第1回日本グランプリではライバル不在をいい事にクラス優勝して速さもアピールしますが、モデル末期とあって時既に遅し。

さらに日本グランプリでの実績も、翌年の第2回では2代目スカイライン1500(2代目S50系)に太刀打ちできずに終わるというオチで終わったのです。

日産の転換点・イタリアかぶれの2代目410ブルーバード

ダットサン410 ブルーバード(画像は1965年マイナーチェンジ後の411型だが、1966年4月に「尻下がり」を改める前)

いよいよ戦前以来の名門、「ダットサン」のブランドイメージは盤石かと思われる中、1963年にモデルチェンジしたダットサン410、2代目「ブルーバード」は、イタリアのピニンファリーナーへ依頼した優雅なデザインでデビューしました。

その当時の日本では、イタリアの有名カロッツェリア(デザイン工房)へ新型車のデザインを依頼するのがちょっとしたトレンド。

ミケロッティによるプリンス スカイライン・スポーツ(1962年)、ビニャーレによるダイハツ コンパーノ(1963年)、ベルトーネ時代のジウジアーロによるマツダ 初代ルーチェ(1966年)など数多く、ギア時代のジウジアーロによるいすゞ 117クーペ(1968年)は傑作。

日産も2代目セドリック(1965年)ともども410ブルーバードのデザインを託したピニンファリーナですが、どんなカロッツェリアでも日本で大ウケとはいかず、ミケロッティやピニンファリーナはどうも日本に合わなかったようです。

ヨーロッパ仕込みのトランク部分がスッと下がるエレガントな「尻下がりデザイン」が、モータリゼーション初期のステイタスシンボルとして、迫力やスピード感を求めたユーザーには全く響きませんでした。

翌1964年にはSUツインキャブのスポーツモデル「1200SS(スポーツセダン)」を、1965年には後にブルーバードの象徴となる「1600SSS(スーパースポーツセダン)を追加してスポーツ性を高めても効果なし。

ついに1965年4月のマイナーチェンジで「尻下がり」を改める大掛かりなデザイン変更を行いますが、同年発売された2代目セドリックもピニンファリーナのデザイン不評により、3年後には同様のビッグマイナーチェンジを受けています。

トヨタの転換点・アローラインの3代目コロナ

3代目トヨペット コロナ

410ブルーバードの翌年、1964年にコロナを3代目へモデルチェンジしたトヨタは、それまで初代、2代目と繰り返してしまった失敗を一気に挽回すべく、大胆な策を講じました。

まずデザインはフロントバンパーからヘッドライト左右でシャキッ!と立ち上がり、そのままテールへ向けメッキモールつきショルダーラインを駆け抜けた、「アローライン」と呼ばれるデザイン。

「バリカンコロナ」という愛称の元になった、目の濃いメッキパーツによる大型グリルと左右の大型4灯式ヘッドランプをスラントノーズに収めたフロントマスク。

力強くスピード感あふれるイメージを裏付けるべく、開通したばかりの名神高速道路で長距離連続走行テストを行い、一般車との接触事故による離脱を除けばテスト車両は故障もなく完走して、見た目も性能も問題ナシ!とされるや、コロナ史上初の大ヒットとなります。

初代パブリカ(1961年)でも失敗し、「大衆車づくり」に疑問が持たれていたトヨタですが、3代目コロナの成功で自信を深めると、クラウンやパブリカの教訓も踏まえた初代カローラ(1966年)で大衆車メーカーとしての基礎を盤石なものへしていったのです。

ついに「ダットサン」を打倒したトヨタ、BC戦争を制す

コロナは末裔のプレミオが2021年3月まで販売を続けたが、ブルーバード末裔のシルフィも同年10月で販売終了、最後には「いつまで売るか」合戦だった

大きく評判を落とした410ブルーバード、今度こそユーザーから絶賛された3代目コロナは、ついに販売台数においてコロナが逆転トップに立ち、戦前からの名門「ダットサン」を戦後新興組の「トヨペット」が打倒するのに成功しました。

この後も日産はスーパーソニックラインやサファリラリーでの活躍から今でもファンの多い510(1967年)、ダウンサイジングで原点に帰り、スクエアデザインで評価された910(1979年)、ラリーマシンSSS-Rを擁するU12(1987年)と名車を輩出します。

いずれも評価は高く、日産ファンにとっては誇りとするクルマであり、瞬間的にはコロナを販売面で上回る時期すらあったものの、全体を通してみれば410ブルーバード vs 3代目コロナの結果が尾を引き、コロナへの差は開く一方でした。

走りの楽しさを求めるスポーツユーザーや、乗ればわかる品質を求めるユーザーにブルーバードはウケが良かったものの、普段乗りで気にするほど違いのない走りに、乗らずとも所有欲を満たしたユーザーの方が多くなったのが、コロナの勝因と言えます。

それは、質実剛健なクルマを求めるタクシー業界というプロフェッショナルから、イメージを大事にする、そして過剰な性能まではかえって求めない一般ユーザーへという、「ユーザー層の変化」に対して、どちらがうまく立ち回ったかという勝負でもあったようです。

「名選手、名監督にあらず」というのはプロ野球や企業の管理職を表す格言ですが、クルマの世界においても、「名車は必ずしも成功作にあらず」でした。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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