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ニッサン党なら「快進社」は知ってる?実はトヨタ以上の歴史を誇る日産のルーツとは【推し車】

近年復調の気配がある国産車の名門、日産の足跡をたどる

期待の国産大型高級乗用車だったニッサン70型だが、信頼性が高く人気があったのはシボレーやフォードだったらしい

近年ちょっと元気がなかった状態から、EVやe-POWER車による攻勢、スカイラインやフェアレディZのような伝統的車種へのテコ入れまで、かつて日本第2位の自動車メーカーだった勢いを取り戻そうと奮起しつつある日産自動車。

その歴史をたどれば、明治時代末期に設立された「快進社」など、初期の国産車史の中心にある老舗の名門メーカーを源流にしていた事がわかります。

そのため、戦前には国産自動車産業の振興を図る国や軍部の後押しで、GMやフォードへ対抗可能な本格乗用車の生産へ乗り出しますが、既に生産していた「ダットサン」ブランドの小型自動車ではなく、「ニッサン」ブランドの本格乗用車がニッサン70型です。

今回は、トヨタ博物館所蔵の70型フェートンの画像をご覧いただきながら、当時の日産を取り巻く時代背景などを解説します。

快進社からダット自動車製造を経て、「日産自動車」へ

ニッサン70型は製造権を買ったグラハム モデル80「クルセイダー」とほぼ同じ外観だが、幌型ボディのフェートンは日産オリジナル架装

明治時代末期の1911年(明治44年)、輸入車の模倣で実験的に作られた一品モノに留まっていた自動車を国産化すべく誕生した「快進社」は、1914年(大正3年)にエンジンまで純国産のダット自動車(脱兎号)を開発、1918年(大正7年)にダット41型乗用車を発売します。

その後の概要は以下の通り。

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1926年(大正15年):大阪の「実用自動車製造」と、快進社改め「ダット自動車商会」が合併、「ダット自動車製造」を設立。

1931年(昭和6年):ダット自動車製造、自動車部品メーカー「戸畑鋳物」傘下へ。

同年、495ccの小型自動車「ダットソン」を開発するも、「ソンは”損”につながる」と、翌年に「ダットサン」へ改名。

1933年(昭和8年):ダット自動車製造が石川島自動車製造所と合併、「自動車工業」(後の「いすゞ自動車」)となった際、「ダットサン」の商標と、同車を開発・生産する小型車部門は戸畑鋳物と日本産業の合弁会社「自動車製造」へと無償譲渡。

1934年(昭和9年):自動車製造、「日産自動車」へ改名。

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こうして国産自動車の始祖のひとつ、快進社をルーツに持つ「日産自動車」が誕生、後にライバルとなるトヨタ設立の3年前でした(※)。

(※トヨタは1933年に開設された豊田自動織機製作所自動車部を前身に、1937年トヨタ自動車工業として設立)

国防目的の自動車振興策で初の「日産車」、ニッサン70型誕生

運転席周りは簡素だが、手入れさえ怠らなければ要所がピカピカで豪華高級セダンらしい雰囲気が

名を改めた後も、運転免許が試験制ではなく許可制で、気軽に乗れた小型乗用車/トラックの「ダットサン」ブランド車が主力で、「♪一に算盤、二に電話、三にトラックダットサン♪」のキャッチコピーも好評だった日産自動車。

しかしその一方、日本の乗用車産業は関東大震災後に乗り込み、大工場を作って一気に日本市場を制したGM(シボレー)とフォードが占めており、バスやトラックも含め、有力な国産車はなかなか現れません。

軍でも日本製アメリカ車が重宝されており、日産などまずは技術格差から埋めるべく日本GMとの合併話まで持ち上がっており、国防上の観点からも国産自動車産業の振興と保護は急務に思われ、1936年(昭和11年)に「自動車製造事業法」が施行されます。

これは日本国内での自動車製造を、日本の株式会社へ限定した許可制とし、海外メーカーは従来通りの創業は認めるものの工場の拡張は不可、要するに今後は国産車メーカーのみ発展できるようにした、国産車メーカー育成策です(※)。

(※既に国産車が幅を効かせていた3輪/4輪の小型自動車は、この法律の対象外)

この法律で許可を受けたのがトヨタ自動車工業(当初は豊田自動織機自動車部)と日産自動車で、日本GMとの合併などすぐにご破産となった日産は、小型車ブランド「ダットサン」ではなく、「ニッサン」ブランドのニッサン70型乗用車を1938年に発売しました。

アメリカ生まれの日産車だが、軍用の幌型は独自開発

後席はゆったりした3人がけベンチシートで、補助席を畳んでおけば足元もかなり広そう

ただし、それまで庶民的な小型乗用車/トラック「ダットサン」を生産・販売していた日産が、すぐにシボレーやフォードに対抗できる車を開発できるわけもありません。

そこで目をつけたのがアメリカの中堅メーカー、グラハム・ペイジから乗用車とトラックの生産権および生産ラインまで丸々一式を購入することで、後に日産自身、新興国へ旧型車の生産権と生産ラインを譲ったのと同じことからスタートしたのです。

乗用車はセダンのグラハム・モデル80「クルセイダー」の生産権を入手、ニッサン70型として1937年から早速生産を始めますが、生産機械が同じですから、当然両車はよく似ているどころか、ほとんど同じ。

ただし、軍部で士官・将官クラスといったお偉いサンが部隊や前線の視察にも使うため、全周にわたる広い視界が要求される軍用向けにした幌型オープンカー、「ニッサン70型フェートン」は日産で独自に架装、セダンと合わせ約5,500台が生産されました。

現代に残る、豪華内装の「70型フェートン」

補助席を使うと2列目、3列目とも狭そうだが、補助席の下へ足を入れられるので、案外余裕はあるのかも

現在はトヨタ博物館で展示されているニッサン70型フェートンは、85馬力の水冷直6サイドバルブ3,670ccエンジンを搭載、車重1,410kgに対して少々アンダーパワー気味にも思えます。

しかし最高出力は3,400rpm、最大トルク23kgf・mも1,200rpmで発揮する低回転型エンジン(現代のエンジンのように高回転まで回らないだけとも言える)ですから、ギア比が適切なら低速から安定した走りで、登坂能力も十分だったと想像できます。

運転席周りは簡素で、床から生えたシフトレバーなど助手席も足元に余裕があるとは言いがたいように見えますが、ベンチシートで肩周りはゆったりしていそうです。

さらに後席は2人分の補助席を畳めば3人がけのベンチシートで足元にかなり余裕をもってくつろげそうであり、補助席を使えば5人、前席と合わせ最大7人が乗車できました。

当時は戦後の自動車と違い、幅の狭いボディ両脇へ前後輪のフェンダーが出っ張った、現在から見ればクラシカルなスタイルですが、前後フェンダー間のステップで乗降性は良さそうです。

戦前は公用車やタクシー、戦時中は徴用されて軍で使われたセダンと異なり、フェートンは最初から主に軍用メインだったそうですが、部隊の視察に使えば沿道の兵士から敬礼を受けやすく、前線でも周辺や上空からの襲撃をいち早く発見するのに便利だったでしょう。

戦火が激しくなる中、軍や官僚向けに細々と作られた70型

堂々たるボディの割には帆布張りの幌が何となく無造作だが当時はこんなもので、3列7人乗りフルオープンカーとして今見てもオシャレ

ニッサン70型には通常のセダンとフェートンのほか、梁瀬自動車(現在のヤナセ)系の梁瀬車体で架装した高級ボディもあったようですが、日中戦争が始まった1939年以降は国家による統制が激しくなって民間向け生産は限られ、軍や官僚向けとなります。

大型乗用車の70型以外に、より量産に適した中型乗用車も試作されますが、戦争が激化するとそれどころではなくなり、乗用車生産への復帰は戦後、進駐軍から乗用車生産を段階的に緩和される中、小型乗用車ダットサンの生産再開を待たねばなりませんでした。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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