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「嘘だろ…」トライアンフもMGもポルシェもブッチギリ!フェアレディ1500とは【推し車】
目次
日産純血スポーツカー、ダットサン・スポーツ”フェアレディ”
日産のスポーツカーといえば、GT-Rやスカイラインの「プリンス派」、そしてフェアレディZの「日産純血派」に大別されるでしょう。
プリンスの躍進は、第1回日本グランプリでの大敗北に激怒した石橋正二郎会長(ブリジストンの創業社長でもあった)によるもの。
しかし日産はそれよりはるか昔、多摩川スピードウェイの「第1回全国自動車競走大会」でオオタに敗北して激怒した鮎川義介社長(日産コンツェルンのトップ)が激を飛ばし、数カ月後の第2回大会では大勝利という、似たような歴史を戦前に経験済みです。
そんな日産は戦後もいち早く国産スポーツカーを作り、発展させ、そしてついには鈴鹿サーキットの第1回日本グランプリで国産車が外国車にかなうわけもないという下馬評をくつがえすブッチギリ、「国産スポーツが勝った!」と観衆を熱狂の渦に巻き込みました。
これは日産純血スポーツによって、スカイラインより1年早く作られた伝説の話です。
戦後復興期にいち早く立ち上がったダットサン・スポーツ
1945年の敗戦後、日本を占領した連合国の進駐軍に自動車産業は厳しく制約されており、まずは終戦の年にトラック、1947年に乗用車も許可されたものの、1949年まで生産台数は制限され、材料も闇市頼みでロクに作れません。
そもそも乗用車を開発しても大多数の国民は貧乏でクルマどころではなく、需要があったのはタクシーくらい。
そんな時期に日産は戦前型ロードスター風の「ダットサン・スポーツDC-3」を発売しますが、ようやく戦前型から一回り大きくなった乗用車ダットサンDB-4や、商用車のダットサン・スリフトDS-4を作っていた1952年には無謀もいいところです。
よほど愛国的な富裕層でもなければ欲しがるのは海外の高性能車、形ばかりの国産スポーツDC-3が売れるわけもなく、50台作ったものの一説には半分が売れ残り、トラックやタクシーなどへ架装し直し在庫処理したと言われています。
しかしこういうものは最初にやったもの勝ちで、「売れるかどうかより、スポーツカーへの情熱を絶やさなかったメーカー」として、日産自動車は歴史に名を残しました。
バージョンアップを経て日本では”フェアレディ”の名を得る
DC-3以降しばらく休眠状態だった日産のスポーツカーですが、1957年11月1日、日本橋三越デパートの屋上で開催した「ダットサン展示会」で、突如1台の試作スポーツカーを発表します。
シャシーは古いダットサン110用、860ccサイドバルブエンジンや前後リーフリジッドサスなどはDC-3から進歩していなかったものの、旧オオタの太田 祐一氏がデザインしたFRPボディは近代的で、車重はDC-3(970kg)より軽い810kg。
わずか25馬力のエンジンですから最高速度は85km/hと性能はささやかでしたが、近代的な国産スポーツの登場に湧いた観衆が殺到、3日間の展示予定が1週間に延長されました。
手応えを得た日産は、市販前提車の「ダットサンスポーツ1000」を翌1958年10月の全日本自動車ショー(現・ジャパンモビリティショー)に出展、2シーターから4人乗りとなり、ダットサン210用のOHC1,000ccエンジンを載せて最高速115km/hと性能アップ。
1959年6月にS211型ダットサン・スポーツとして発売したものの、国内ではまだ時期尚早だったようで、翌1960年1月に発売された1,200cc版、SPL212「ダットサン・フェアレデー」は輸出専用となって、国内では少数の販売に留まりました。
激闘第1回日本GP!日本唯一のスポーツカーが外国車に勝つ!
格上の大排気量エンジンを初搭載した本格派、フェアレディ1500登場
マイナーチェンジ版のSPL213まで輸出専用の「フェアレデー」ですが、1961年の全日本自動車ショーで発表・翌1962年10月発売のSP310型「ダットサン・フェアレディ1500」で国内市場へ返り咲きます(海外ではSPL212から引き続きダットサン・スポーツを名乗る)。
ベースの310型ブルーバード(初代)シャシーを補強し、エンジンは初代セドリック(1960年)用のG型OHV4気筒1,488ccエンジン(71馬力)を搭載し、最高速度150km/h。
ブルーバードより格上で大排気量の高級車、セドリックが登場したことにより、そのエンジンへ手を加えてブルーバード級シャシーへ搭載する、オープンスポーツボディの高性能エボリューションモデルはこのSP310が最初で、いよいよ本格スポーツ時代の到来です。
その頃の国産スポーツといえば、初代トヨペット・クラウンをベースにトヨペット・カスタムスポーツ(1960年)が少数架装された程度で、ホンダ S500(1963年)やトヨタ スポーツ800(1965年)はまだまだ先の話。
正真正銘”日本唯一のスポーツカー”だったフェアレディ1500にふさわしいのはやはりレースでしょう…というわけで1963年に鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ(日本GP)」へ出場するわけですが、実はこの時、ワークス体制ではありませんでした。
下馬評では全く期待されていなかったフェアレディ1500
当時の日産ワークスはダットサン210で豪州ラリーへ出場以来、主にラリーへ注力しており、1963年も初出場のサファリラリーへかかりきり。
そのため第1回日本GPへ参戦した日産車は、プライベーターによるフェアレディ1500とブルーバードがボチボチ…と、力の入らない状態でした。
特にフェアレディが出場した、1,300〜2,500ccのスポーツカーによる「B-II」クラスはトライアンフTR4やMGB、ポルシェ356といった「本物の最新鋭海外スポーツカー」が参戦し、ワークス参戦でもない国産スポーツに勝ち目は…下馬評ではそうなっていたのです。
ところがたった1台、ゼッケン39番、後にSCCN(日産スポーツカークラブ)会長となる田原 源一郎氏のフェアレディ1500だけは違いました。
何が起きた?!
予選3位と健闘するも海外勢に及ばなかった田原フェアレディが、最初の周回を終えてホームストレートへ帰ってくると…観客が大きくざわめき、ただならぬ雰囲気に、注目していなかったパドックの関係者も「何が起きた?!」とピットの上などへ駆け上がります。
先頭で駆け抜けるのは田原フェアレディ、しかも海外のスポーツカーを文字通りブッチぎり、さらに加速してグングン引き離していくではありませんか…日本のスポーツカーが!世界のスポーツカーを従え、トップで!
実はこの田原フェアレディ、輸出仕様のツインキャブレターやクロスミッションを搭載してサスペンションも固めるなど、規則内で許された限りの改造を加えた代物。
もちろんプライベーターでどうにかできるものではなく、日産ワークスが大っぴらにならない範囲で関与した…と言われ、しかも練習走行から予選までは三味線を弾きつつ、徐々にバージョンアップし、本戦で本領を発揮する「寝技」まで使ったと言われています。
高性能とはいえプライベーターの外国車勢に対し、独走態勢に入った田原フェアレディは、ホームストレートの歓声にクラクションで応える余裕まで魅せ、2位に6秒もの差をつけブッチギリの優勝、観客は総立ちで大興奮!
2〜4位で続いたトライアンフを全く寄せ付けない完勝に「規則違反があったのでは」とクレームさえつきましたが、それほどに国産スポーツの勝利はインパクトが強かったのです。
日本唯一のスポーツカー、世界の強豪をしのぐ
この第1回日本GPでは、多くの部門で優勝したトヨタによる翌日の新聞広告と販売に与えた影響、規則にもない紳士協定を真に受けたプリンス(スズキに敗れたスバルも)の激怒による確執で知られています。
しかし、「外国車勢を破っての優勝」はDKWやルノーを破ったC-IIIクラスの日野 コンテッサ900(立原 義次)と、B-IIクラスのフェアレディ1500くらいであり、日産もしっかり広告を出しました。
日本唯一のスポーツカー フェアレディ優勝 第一回日本GPレースで世界の強豪をしのぐ
~当時の広告より~
トライアンフTR4などをはるか後方に従え、堂々とチェッカーフラッグを受けるゼッケン39番フェアレディ1500によって、「国産車No.1」どころか「世界に勝ったNo.1」をアピールして見せた日産に比べると、トヨタやプリンスのアレコレなど本当は小さな話でした。
じゃじゃ馬娘のフェアレディ2000を最後に”Z”へ
ピュアスポーツとしての発展を始めたフェアレディ
その後、日本GPでの活躍で日産本社もフェアレディを見直したらしく、国内仕様にもレース車と同じく輸出仕様のツインキャブレターを組んでパワーアップするなど改良、レース用のキットを発売し、横向き1名用の後席を廃止して2シーターのピュアスポーツ化。
内装も大径4連メーターから速度計、回転計をより大きくして他のメーターを小径化し、シートスライド増加でドライビングポジションの調整範囲を広げるなど改め、ラジエターの冷却能力を向上するなど、スポーツカーとしての性能強化に重点が置かれます。
1964年には1.6リッターエンジンへ改めたSP311フェアレディ1600および、デザイン最重視で超高級志向の全く異なるボディを持つクローズドクーペの派生車シルビア(初代)を発売。
じゃじゃ馬娘は走り去り、Zカーの時代へ
1967年にはセドリック用2リッターOHVのH20型をベースにSOHC化、ソレックス・ツインキャブレターで145馬力を発揮、最高速度205km/h、ゼロヨンの加速タイムに至っては1980年代まで破られなかったSR311フェアレディ2000へと発展します。
SR311になるともはやシャシー性能に対しエンジン性能が明らかに過剰、ラフな運転で発進加速しようものなら真っ直ぐ走らないほどでしたが、日本名フェアレディ、海外名ダットサン・スポーツの最終進化系にふさわしい「じゃじゃ馬娘」。
しかしその頃、主要市場の北米で求められるスポーツカーはかつてのヨーロッパ風オープンスポーツから、テールゲートを持つクローズドボディのファストバックスポーツへ移行しつつありました。
優雅なオープンボディに不釣り合いなほど強力なエンジンを載せたじゃじゃ馬娘の時代は終わり、1969年の初代S30「フェアレディZ」登場が目前に迫っていたのです。
後に「Zカー」として北米で大人気となったフェアレディZですが、その前身であるフェアレディも、古き良き時代を伝えるスポーツカーとして、現在も多くのオールドカー・ファンに愛されています。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...