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「プリンス」の名前の由来、知ってる?セダンからレーシングマシンまで、いまだ日産の中に燃える熱き魂【推し車】
目次
スカイラインのおかげで有名だが、それだけじゃない「プリンス」
2023年現在でもしぶとく生き続ける「スカイライン」のおかげで、その歴史と伝統を振り返るうえでしばしば話題に上るため、「現存しないものではもっとも有名な国産車メーカー」として名高い?プリンス自動車工業。
ただし、日産に引き継がれた高級セダンのグロリアでさえ、姉妹車セドリックともども販売が終わってもう20年近く、今やプリンス時代の車名を残す日産車はスカイラインのほか、スズキからOEM供給を受ける軽商用車のクリッパー系しかありません。
今回はあえて「スカイラインとグロリア以外のプリンス車」を通し、1966年に日産に吸収合併されるまで存続した国産車メーカー、「プリンス」を振り返ります。
2つの航空機メーカー、戦前の名門、そしてブリジストン
かつてトヨタや日産などと異なる車種戦略を展開し、現存しないがゆえに伝説的色彩を帯びて語られ、「存続していれば日本のBMWになりえたかも」と言われることすらある、失われた国産車メーカー、「プリンス」(プリンス自動車工業)。
その源流は大きく分けて2つあり、1つが第2次世界大戦の敗戦まで航空機メーカーだった「立川飛行機」で、終戦後に旧従業員が設立した「東京電気自動車」。
同社は戦時中同様にガソリン不足だった戦後混迷機の日本で唯一有り余っていたエネルギー、「電気(※)」を活用して1947年に電気自動車「たま」を発売、「たま電気自動車」と改名後に、たま セニアやジュニアといった一連のたま電気自動車を世に出します。
(※空襲で軍需のみならず工業力全般が壊滅していたため、電力需要が少なかった)
しかし1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、電気自動車に必要な素材の価格が高騰、逆にガソリンの供給体制が改善されたのでガソリンエンジン車メーカーへ転身し、「たま自動車」へと再改名。
なお、自動車メーカーへの転身にあたって大きな役割を果たしたのが、立川飛行機傘下になっていた「オオタ(高速機関工業)」で、戦前にはダットサン(日産)に次ぐ、4輪小型車メーカーの大手でした。
もう1つの源流が、三菱重工などと並ぶ日本有数の軍需メーカーだった「中島飛行機」で、進駐軍による財閥解体で各事業所が独立後、富士重工(スバル)として再結集せずに自動車関連事業を進めた中では規模が大きかった、「富士精密工業」。
こちらは自動車というよりエンジンメーカーでしたが、たま自動車も富士精密工業もタイヤメーカーのブリジストン、あるいは創業一族の石橋家がオーナーとなっており、その縁で両社はタッグを組みました。
富士精密なら、同じ旧中島系の富士重工と組むのが自然では…と思われそうで、実際に初期のスバル試作車には中島精密のエンジンが使われたものの、石橋家の存在によって、富士精密と富士重工は別な道を歩むこととなります。
皇太子殿下(今の上皇陛下)を祝して「プリンス」誕生
1952年、それまで電気自動車にオオタのエンジンを載せた急造車でしのいでいた「たま自動車」は、富士精密の1.5リッター直4OHVエンジンFG4Aを積む「プリンス セダン」と「プリンス トラック」を発表、ガソリン車メーカーとして本格的に再出発します。
この「プリンス」という名は、当時の皇太子殿下(2023年8月現在の上皇陛下)が同年に立太子礼を行ったのを祝したもので、当初はブランド名だったのが、立太子礼が行われた同年11月に社名も「プリンス自動車工業」へと変更。
1954年に富士精密と合併後、1961年に社名を戻すまで「富士精密」が正式社名だった時期もありますが、プリンス セダン以降のブランド名は、日産に吸収合併されるまで一貫して「プリンス」でした。
この時期のプリンス車は、トヨタの初代クラウン(1955年)より3年も早く、近代的な1.5リッター級国産セダンを実現してしまったという意味で、非常に先進的・画期的な存在です。
もっとも、試作車ができるとともに運輸省に持ち込んで認証(型式認定)を受け、そのまま試作車もユーザーに販売してしまうという大らかな時期で、プリンス セダンはいざタクシーに使うと故障続出でクレーム処理に追われたそうですが。
クルマ好きとして現在も知られる上皇陛下も、セダンを愛用したのをはじめ。スカイラインなどプリンス車を気に入っていたようですが、トラブルなどは大丈夫だったのでしょうか?
大衆車はやらなくとも、トラックは作る
プリンス セダンの後、初代スカイライン(1957年)、同グロリア(1959年)と、日産より先にトヨタと真っ向勝負できる高級セダンを送り出したプリンスですが、オーナーである石橋氏の意向で大衆車は販売せず、一種のプレミアムメーカーとして育成されました。
大衆車の試作自体は行われ、それをベースにしたスポーツカーも開発していましたが、グロリアが2代目で車格アップ後、2代目スカイラインが後の世でいうアッパーミドルクラスのサルーンへダウンサイジングされたくらい。
末期にもFF(前輪駆動)の小型車を開発し、日産との合併後に初代「チェリー」として世に出たものの、プリンスの名では一度もコロナやブルーバード、カローラやサニーのように安い大衆車を販売する事はありませんでした。
ならば高級セダン一辺倒かというとそんなことはなく、プリンストラックをはじめとして、後継のボンネットトラック「マイラー」や、キャブオーバートラック「クリッパー」、スカイラインの商用バン/ピックアップトラックである「スカイウェイ」も販売。
2代目グロリアにもバン/ワゴンはありましたし、当時の世情に合わせて商用車にも力を入れていましたが、質実剛健さが目立つライバル車に比べ、プリンスらしいスポーティなデザインが目立っています。
打倒ポルシェに燃えたプロトタイプレーシングカー、R380
第1回日本グランプリ(1963年)で惨敗後はモータースポーツにも力を入れ、翌年のグランプリでは前年の覇者、トヨペット クラウンやコロナを見事に打倒したプリンスですが、スポーツカークラスでも勝とうと投入したスカイラインGTはポルシェ904に敗れました。
1.5リッター級セダンへ無理やり2リッター直6を押し込んだだけのスカイラインGTで、本格ミッドシップスポーツに肉薄して1度はトップを走り、負けても「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」と称えられましたが、プリンスの腹は収まらなかったようです。
トヨタや日産なら勝負にならないところ、ウチだからあそこまで走れた、ならば同じ土俵で勝負すれば…ということなのか、ヨーロッパにエンジニアを派遣してブラバムBT8という格好のベース車を見つけ、グロリア/スカイラインGT用のG7エンジンをDOHC化して搭載。
こうして1966年5月の第3回日本GPに姿を現した「プリンス R380」は見事にポルシェ906を破って優勝、同年8月に日産へと吸収合併されるプリンスへ、最後の華を添えました。
その後もスカイラインやグロリアといった旧プリンス車が、日産の販売シェア維持に大きく貢献したのと同様、R380も日産のレーシングカーとして活躍を続けてR381、R382と発展を続け、1990年代にル・マン24時間レースへ挑んだ「R390」へとその魂を引き継ぎます。
プリンスを吸収合併した日産では、技術・開発面でも、生産面でも、販売面でも旧プリンスが無視できぬほど大きすぎる勢力として、「日産の名のもと、2つのメーカーが存在する」状態でしたから、企業の方向性としては相当に苦労しました。
今もスカイラインとGT-Rをアッサリ切り捨てられないあたり、1966年に消滅したはずな「プリンス」の名残は、この先もある時は苦しみ、ある時は楽しませてくれそうです。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...