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RX-7

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スーパーカーブーム世代を魅了した《SA22C型》初代マツダの伝説的スポーツカー・サバンナ RX-7【推し車】

スーパーカーブーム世代に刺さる名車、SA22C型RX-7

マツダミュージアムで展示されている初代SA22型「サバンナRX-7」

マツダロータリースポーツの象徴として今でも「復活待望論」が根強いRX-7。

中でも1978年に発売された初代、SA22型サバンナRX-7は単純なスポーツカーとしてだけでなく旧車としても人気は高く、スーパーカーブーム世代にとっては国産車離れしたスタイリングから、今でも鮮烈な記憶を残している1台です。

リトラクタブルヘッドライト、フロントミッドシップ、テールゲートつきの3ドアファストバッククーペという、全3代にわたるRX-7全てで特徴にされてきたスタイルを初めて採用し、従来のロータリースポーツのイメージを一新。

レースやラリーでも活躍し、その後21世紀に入ってしばらくするまでロータリーがスポーツカー用エンジンとして存続する礎になりました。

最新「RX-7」中古車情報
本日の在庫数 30台
平均価格 615万円
支払総額 378~1,530万円

1960年代末まで遡る初期コンセプト

なんとなく取ってつけたようなフロントバンパー周りやフェンダーミラーなど、まだデザインが洗練される前の初期型

1970年代のオイルショックによる石油価格高騰と、燃費劣悪な「ガスイーター」扱いからの復活を狙ったピュアスポーツ路線への転向…初代RX-7のデビューをザックリ説明すればそんな感じですが、ちょっと深掘りすると、そう単純な話ではありません。

そもそも、後のRX-7へつながるロータリースポーツのコンセプト研究は1960年代末、マツダが初のロータリー市販車コスモスポーツを発売した直後には始まっており、それがいくらか形になったり、オイルショックでお蔵入りになったりを繰り返しています。

具体的にはコスモスポーツ発売翌年の1968年、後継車として開発コード「X809」のプロジェクトがスタート、マツダ(当時は「東洋工業」)創立50周年事業として東京モーターショー1970へ展示された開発コードX810、リアミッドシップの「RX500」へと派生。

ただしこのRX500はあくまでコンセプトカーであり、市販型は必ずしもこのカタチへこだわる必要はないと研究開発は続行、開発コードもX810-IIを経て「RS-X」となる中、「フロントミッドシップ」レイアウトの採用が決まりました。

コンパクトな割に高出力というロータリーの長所を活かせるボディサイズで、同程度のパワーを持つレシプロエンジン、あの時代なら2〜3リッター級直6となれば、リアミッドシップへ横置きならともかく、フロント縦置きでは実現が困難。

つまり「ロータリーの特徴をよりわかりやすくカタチにするなら、フロントミッドシップが一番」というわけで、1970年前後には北米向けロータリースポーツの仕様が固まってきます。

車格を再検討しているうちに情勢の変化でお蔵入り

3ドアファストバッククーペといってもテールゲートはガラスハッチ程度で開口部は狭く、実用性よりボディ剛性重視

ただ、1969年にZカーこと日産の「フェアレディZ」が発売、安くてカッコいいスポーツカーとして大ヒットすると、RS-Xも大衆向けの安価なロータリースポーツへとコンセプトを変更、新たな開発コード「X020」を得て、Zと対決するかに見えました。

問題はその直後に起きた社会情勢の変化で、増大する交通事故とその犠牲者を減らすための安全対策、アメリカのマスキー法を契機とした排ガス対策が急務となってX020は凍結。

そのうちに1973年に起きた第4次中東戦争で「第1次オイルショック」が起きてガソリン価格は高騰、スカイラインGT-Rに勝って天下を盗っていたマツダワークスはレースから撤退し、高出力な代わりに燃費が悪かったロータリーは敬遠されるようになります。

マツダは販売不振に悩みつつ、それでも排ガス対策や燃費向上に取り組み、2代目コスモ(1975年)はロータリー復権を思わせるヒット作になりましたが、それだけだと十分ではありません。

何しろそれまでのマツダは、エントリーモデルの2代目ファミリアからカペラ、ルーチェと、実用モデルへロータリーを積極的に展開していました。

オーストラリアのGM系メーカー、ホールデンから輸入した車体へロータリーを積んだ最高級車「ロードペーサー」(1975年)や、マイクロバスのパークウェイロータリー26(1974年)、トラックの「ロータリーピックアップ」(1974年・日本未発売)が代表的。

しかし、どれだけ頑張っても燃費性能でレシプロへかなわない、というより燃費悪化を推してまで実用車へ積むにはロータリーだと完全にオーバースペックで、ならばふさわしいクルマへ積めばいいじゃないか、となります。

ロータリー本格復権へ向け、開発コード「X605」として復活

ガラスハッチのため3分割となったリアウィンドウも開発で苦労したポイントらしい

そこで改めて北米市場を見直してみると、乗用車ベースで手軽なスポーツカーへ仕立てた「ポニーカー」路線は引き続き好調、さらに社会進出が加速していた女性をユーザー層とした通勤車、「セクレタリーカー」向けに小型スポーツクーペ需要が創出されていました。

そのような路線なら、数年前にお蔵入りしたアレがあったな…と「X020」のホコリが払われ、コンセプトを再検討してみると「フロントミッドシップの小型2シーター/2+2シータースポーツ」はまだ通用する事がわかったのです。

回り道してX020を売らずに損したのか、あるいはロータリーが厳しい悪評にさらされる時期にしまいこんでいて正解だったのか。

いずれにせよX020は新たに「X605」という開発コードを得て、今度こそ市販前提車として、さらにロータリーエンジンへ本領発揮の場を与え、再び「夢のエンジン」として本格的に復権するべくプロジェクトは再開、1978年3月に初代「RX-7」として発売されました。

RX-7発売翌年にドキッ!とした第2次オイルショック

耐久レースでの活躍が目立った初代RX-7だが、異色のモデルがグループBラリー仕様で、7台しか作られなかったという

しかし…神はよほどロータリーエンジンがお嫌いなのでしょうか?

RX-7を発売したあたりから、戦後の日本が石油の輸入元として頼りにしていた中東のペルシャ湾沿岸に物騒な雰囲気が漂い始め、その1国、イランでは不穏な情勢が続いて1979年1月にはついにイラン革命へと発展し、石油生産の中断で石油価格が再び高騰!

追放された王様を支援していたアメリカは自然とイラン革命政府の敵となり、経済制裁やイラン・イラク戦争の勃発もあって、「第2次オイルショック」となります。

ここで、各種統計を紹介する専門サイト「年次統計」から当時のガソリン価格を引用すると、以下のようになっています。

ガソリン価格2012年の物価で換算備考
1972(昭和47)58円173円
1973(昭和48)66円168円第4次中東戦争
(第1次オイルショック)
1974(昭和49)97円204円
1975(昭和50)112円203円
1976(昭和51)118円193円
1977(昭和52)121円182円
1978(昭和53)109円155円初代RX-7発売
1979(昭和54)125円167円イラン革命
(第2次オイルショック)
1980(昭和55)155円192円
1981(昭和56)157円187円
1982(昭和57)172円194円

細かい説明は省きますが、やっと第1次オイルショック後に落ち着いてきた段階でRX-7を発売したのに、第2次オイルショックでガソリン価格がまた跳ね上がっちゃった!というわけです。

ただ、第1次でパニックになった教訓から省エネ志向が進み、多少は不況になったり物価が上がっても給与が上がる時代でしたし、まだ活発だった国内の各種産業は円安ドル高で輸出も好調だったため、第2次で「言うほどショックにならなかった」のは幸いでした。

ここで再び第1次オイルショック並のパニックになっていれば、今度こそマツダロータリーはお陀仏になりかねませんでしたが、実際は再び休日(当時は週休二日制などないので、主に日曜日)にガソリンスタンドが休業する程度で済んだのです。

狙い通り、ロータリースポーツの名車へ

2代目FC3Sベースで4WDのグループSラリーマシンも作ったが日の目を見ず、グループBの初代は歴代RX-7唯一のWRC出場車となり、後継はグループAのファミリア(マツダ323)4WDターボだった

第2次オイルショックの影響もあってか、発売直後ほどの大ヒットは続かなかったとはいえ初代RX-7の販売は堅調に推移し、サーマルリアクター方式のREAPSから三元触媒を使った希薄燃焼エンジンへと排ガス対策変更、ターボ化といった発展も順調でした。

初期にはいかにも廉価版スポーツという感じでコストダウンが目立った内外装も充実、出力面で同クラスの他車より軽量でパワーウェイトレシオに優れ、フロントミッドシップらしく旋回性能は優秀、低いボンネットとリトラクタブルライトでスポーティと評判になります。

特にそのスタイルはスーパーカーブーム世代を経た青少年にも人気で、ポルシェ924に似ていたため「プアマンズ・ポルシェ」とも呼ばれましたが、当のポルシェは「ウチの924に似ていてはるかに安い高性能スポーツが出たぞ?」と、多少焦ったとも言われました。

日本でも売れましたが主要市場はもちろん北米など海外で、性能アピールのため出場したデイトナ24時間やスパ24時間といった耐久レースでの優勝が注目を浴び、海外でもヒット作へ。

グループBマシンを作って出場したWRC(世界ラリー選手権)こそ、4WD時代にFRでは苦戦し、重大な事故が相次いだグループB選手権の廃止もあって短期間での活躍で終わったものの、もっとも多彩なステージで活躍したロータリースポーツだったかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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