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実況は「言葉になりません!」を連呼…世界がマツダ 787Bのル・マン優勝に驚嘆した日【推し車】

興奮してマツダを讃えまくった思い出

マツダミュージアムに展示されているル・マン24時間レース優勝車、マツダ787B 55号車

日本車で初めてル・マン24時間レースで総合優勝したマシン、そして日本車で唯一、「手強いライバルに打ち勝って総合優勝したマシン」、マツダ787B。

1991年に起きたあのドラマから、もう32年が経つのかと思うとともに、当時17歳だった筆者はたしかに驚いたけれども、それは大した期待もしていなかった裏返しだったような気もします。

実際、大はしゃぎで友人知人を捕まえてはマツダの勝利を讃えまくったものの、「はぁそれで、マツダの何がそんなにすごいの?」と、冷めた反応ばかりでした。

今考えてみると、当時のマツダはル・マンでの勝利で勢いづくどころか、バブル崩壊で坂道を転げ落ちるように存亡の危機に立たされ、落ち着いて当時を振り返る余裕ができたのは10年近く経ってからのことで、その偉業など一時はすっかり忘れられていた気もします。

1970年に始まる、マツダロータリーによるル・マンへの挑戦

1991年ル・マン優勝という記録や、「レナウン」の「CHARGE」カラーなど、バブル時代を感じさせる

マツダ公式「ルマン優勝30周年メモリアルサイト」によれば、マツダロータリーによるル・マン24時間レース初挑戦はコスモスポーツやファミリアロータリークーペなどと同じ10Aロータリーを積む、1970年の「シェブロンB16マツダ」。

日本車としては1974年に12Aロータリーで参戦したシグマMC74マツダで、その次が1979年にマツダスピード(マツダオート東京スポーツコーナー)として参戦したRX-7 252iで、1983年のマツダ717Cあたりまではマツダワークスという雰囲気ではありません。

コスモスポーツでマラソン・デ・ラルート84時間レースに、ファミリアロータリーでスパ24時間レースへ参戦して大健闘し、耐久性と高性能を両立したロータリーエンジンの威力をアピールしてきたマツダですが、ル・マン24時間への関心は低かったようです。

さらに1970年代は「日本で馴染みのない海外レースにばかり出るのは、本当は遅いから」などという陰口を放置できず、国内レースに力を入れてGT-R軍団と戦い、さらにオイルショック後は燃費や排ガス対策に懸命でしたから、余裕がなかったのは仕方ありません。

そら豆717Cを描いた漫画の「すり込み」

幾度かオーバーホールを受けサーキットを全開デモランしている動態展示車だけあって、「現役」感がある

筆者が初めて「マツダとル・マン24時間レース」を意識したのは9歳の頃、前年のル・マンでRX-7 254がル・マン初完走を成し遂げ(それまでは最後まで走ってもトラブルによる周回不足で完走扱いにならなかった)、グループCジュニアの717Cで参戦した1983年。

草創期のゲーム漫画、「ゲームセンターあらし」の作者、すがやみつる氏による読み切り漫画でマツダチームの奮闘を読んだ時で、それまで完走するのもやっとなマツダが、717Cで一瞬とはいえポルシェ(当時ですから956ですね)を抜くのが見せ場でした。

あくまで子供向け漫画ですし、最後に717Cターボが登場して「マツダの挑戦はまだまだ続く」的な終わり方でしたが、それから数年たって新聞の片隅にマツダ車のル・マン挑戦について書かれたチョイ記事を見かけ、「あーまだやってたんだ?」という程度。

しかし、モータースポーツへ全く無関心、JSPC(全日本スポーツプロトタイプ選手権)でトヨタや日産などが必死にポルシェのグループCマシンを追いかけていた事も知らない少年が、マツダの方を覚えていたのですから、漫画のすり込みは恐ろしいものです。

しかし1980年代後半のマツダは、737C、757、767とマシン開発を続け、少しずつ上位に姿を表すようになったものの、海外の有力メーカーと優勝争いで話題に上るのはトヨタや日産であり、ひそかに応援していたとはいえ、マツダが勝つなど私も思っていませんでした。

あくまで「昔の漫画で見た覚えのあるマツダ頑張れ」、その程度だったと思います。

時代の隙間でチャンスをつかみつつ、なおノーマークの787B

高度なコンピューター解析で奇形ともいえるレーシングカーより、この頃のグループCカーが好きという人も多いのでは

そして迎えた1991年、プロトタイプレーシングカーの花形、グループCはF1と歩調を合わせた新規則が始まり、移行期間として旧規則仕様のC2マシンも走れるとはいえ、まだ開発不足の新規則C1マシンを本気で走らせようというワークスチームは、まだいません。

さらに、SWC(スポーツカー世界選手権)の一戦に組み込まれたル・マン24時間レースへの参戦はSWC全戦への参戦が義務付けられ、トヨタと日産はそれぞれの思惑もあって、この年は欠場します。

したがってこの年のル・マンの主役はいずれもその年までの参戦が許されたC2マシンで、下馬評で有利なのはメルセデス・ベンツ C11とジャガーXJR-12、それに続いてプライベーターで一大勢力だったポルシェ962C。

マツダも昨年は2台ともリタイヤしてパッとしなかったマツダ787が1台、そして改良型の787Bを2台エントリーさせていましたが、翌年からのC1マシンでは許されないロータリーエンジンの「勇退記念参戦」に近い空気がありました。

実際、787/787Bの最低重量はライバルより100kg以上軽く設定されており、それ以前の実績を考えても、レースに華を添えられれば上出来、という扱いだったようです。

TVで観戦していた筆者も、「頑張ってきたマツダもこれが最後か」と、どうせ勝てるわけもないだろうし、記念に見ておこう程度でスタートを見送りました。

土壇場でマツダ撤退を阻止した、オレカの熱意

直線での最高速主体だった787からフットワーク主体になったとはいえ、787Bでも低く寝かせてマウントされたリアウイング

そうした空気は何も観戦している外野だけの話ではなかったようで、本戦直前にはちょっとした「事件」がありました。

テストウィークに走行していた787Bがクラッシュ、「補修」というより「作り直しに近い大修理」を要するダメージを受けた結果、なんとマツダワークスは撤退を決めたのです。

これに猛反対したのが、787/787Bでもマシン製作からレーシングマネジメントまで大きく関わっていたチーム・オレカ社長のウーグ・ド・ショナック氏で、帰り支度を始めようとするマツダを熱のこもった説得で引き止めます。

それだけでなく、1週間でマシンを修復して30時間のテストを終え、マツダが万全の態勢でル・マンへ挑む全てのお膳立てを整えました。

マツダロータリーのル・マン24時間レース挑戦は、現在まで伝わる伝説的な盛り上がりとは裏腹に、当時はメーカーとしてさほど力が入っていたわけではなかった、とも言われます。

マツダスピードに引っ張られ、関係者の熱意に動かされてマツダワークスのような形になり、マツダ本社にも熱心な人はいましたが、全社的な動きとはいえず、それが1991年の本戦直前に一時は撤退を決める決断につながったかもしれません。

これはマツダの社風とも言えますが、ロータリーの実用化にせよ、ロードスターやRX-8の開発でも時おり垣間見える、「凄まじい熱意を持った個人の想いに、普段は冷めている会社が何となく突き動かされる」という一面があります。

1991年のル・マンでも、オレカのウーグ・ド・ショナック氏の熱意がなければ、マツダはその栄光を逃すどころか、スタート地点に立つ事すらできませんでした。

24時間をギリギリ耐えた、R26Bロータリー

24時間走行後もまだ500km走れると言われたR26Bロータリーだったが、実はエンジンブロー直前だったと30年目に明かされた

レースが始まると、当初は早かったプジョーなどのC1マシンはお付き合い程度で早々に退場、下馬評通りトップはC2マシンのメルセデス・ベンツ、次いでジャガー、マツダ787/787Bはその後方から様子を伺う慎重なレース運びが続きます。

やがてメルセデス・ベンツの一角が崩れ、燃費問題でジャガーのペースアップが困難なのを見て取ると、マツダチームはペースアップでジャガーを抜き去るとともにプレッシャーをかけ、ついに21時間目、先頭のメルセデス・ベンツ1号車がトラブルでリタイア。

気がつけばマツダ787Bの1台、55号車がトップに立っており、その段階でTV観戦に戻った筆者は「マツダがトップ!」と聞いて仰天しました。

トヨタでも日産でもなく、あのマツダが世界の強豪を破って勝利するのか…レース、特に長時間マシンに負担を与える耐久レースは最後まで何が起きるかわかりませんが、この時は本当に何も起きません。

最終ラップ、787B 18号車(6位)を引き連れた787B 55号車の勇姿が帰ってきて、感極まった実況席は「言葉になりません」を連呼し、筆者も背筋をゾクゾクさせながら、喉の奥で声にならない笑いが止まらなくなり、目頭が熱くなります。

この時、787B 55号車の4ローターエンジンR26Bロータリーはエキセントリックシャフトのロータージャーナルに亀裂が入り、あと1周でエンジンブローする可能性もありました。

しかし、興奮して観客がなだれこんだホームストレートを駆け抜けるのはもはや不可能であり、歓喜渦巻くピットロードでビクトリーランを終えたのが、787Bにとって最後の「幸運」です。

規則変更の間隙を突き、有利な車重で挑んだとはいえ、有力ワークスの全てが不参戦だったわけではない1991年のル・マン24時間レースでマツダ787Bが勝利した瞬間は、日本車にとって確かに「世界へ手が届いた瞬間」でした。

現在の787B 55号車

マツダミュージアムでも787BはVIP的な扱いで、今後も長くその栄光を語り継いでいくことだろう

凱旋帰国したマツダ787Bは、優勝した55号車が優勝を記念して保存されることとなり、時おりイベントなどで走行する時や、何かの展示で貸し出される時以外、現在もマツダミュージアムで展示されています(不在時は767Bやレプリカが展示されるそうです)。

2011年には優勝20周年を記念してレース開始前のル・マンでデモ走行を行いましたが、その際に「がんばろう日本」「がんばろう東北」など被災地応援ステッカーを貼っており、別なイベントで何度か走行した後もそのままの姿です。

その後のル・マン24時間レースでは、トヨタや日産が何度か好成績を上げるも総合優勝にはなかなか縁がなく、2018年にトヨタがTS050HYBRIDで日本車勢27年ぶりの勝利をあげ、2022年まで5連覇中(2021年からはGR010HYBRID)。

その間、マツダロータリーは市販車用もレース用も廃れていましたが、1ローターの8Cロータリーを使ったPHEVシステムで2023年に復活、いつかレースでも何らかの形でロータリーサウンドを響かせる日がくれば…と思います。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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