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「こんなに美しい国産車が1960年代に存在した」いすゞ 117クーペの魅力とは【推し車】
目次
「あの頃キミは、若かった」と歌いたくなる初期型117クーペ
「国産車で美しいと思うクルマを挙げよ」と聞かれたら、必ず名前が上がるであろう名車、いすゞ 117クーペ。
カロッツェリア・ギア在籍時代の巨匠・ジョルジェット・ジウジアーロがデザインを手掛け、後に初代ピアッツァや2代目ジェミニといったジウジアーロ作品をいすゞにもたらすキッカケとなった2ドアクーペの曲線美は、1960年代の日本車とは思えません。
当初、やむをえない事情からほとんどハンドメイドで作られた初期型、機会生産が可能になった中期・後期と、時を経るごとにオリジナルのエレガントな美しさは失われていきましたが、それだけ初期型を作った職人の魂が感じられる、ということでもあります。
今回はトヨタ博物館に所蔵された初期型を通し、117クーペの魅力を再確認してみましょう。
技術は未熟でも、夢にあふれていた1960年代の日本車
戦後復興期を脱し、高度経済成長期に入った時期の日本車は、今見るとメーカーの自己主張や個性を前面に押し出し、ユーザーに「いつかこんなクルマが欲しい!」と夢を見せてくれたり、メーカーにとっても意地や心意気の見せ所がありました。
まだ北米を主要市場とした輸出が本格化する前でしたから、1970年代以降のようにアメリカンルックスへハマる必要性もまだ薄く、アメ車じみたクルマ、ヨーロッパ調のクルマ、実用性重視の国民車的なクルマと、デザインは多様。
機構的にもDOHCやSOHCエンジンに高性能キャブレター、航空機の技術者が深く関わったモノコックボディや、多彩なボディを可能にするラダーフレーム式まで百花繚乱、現在のように重箱の隅をつつかないと、各メーカーの違いを説明できないなんて事もありません。
いすゞが1968年に発売した「117クーペ」も、デザイン、メカニズム、登場から生産までのエピソードがあふれ、そのいずれもが「いかにもいすゞらしい」と思えるものですから、なおさらです。
トヨタ スポーツ800(1965年)、同2000GT(1967年)、日産 フェアレディZ(初代1969年)、プリンス グロリアスーパー6(1963年)、マツダ コスモスポーツ(1967年)、同ルーチェロータリークーペ(1969年)、ホンダSシリーズ(1963年)、ダイハツ コンパーノスパイダー(1965年)。
これらに117クーペを加えた1960年代とは、後にバブル時代のそれとは異なった意味で「最初の日本車黄金期」だったと言えるかもしれません。
もちろん、技術大国になる以前、ようやく商用車の乗用版や海外の模倣を脱しようかという時期のクルマたちですから、技術的にはまだ未熟でしたが、「明日は今日よりもっと良くなり、いつかはこういうクルマも買えるようになる」と、信じられる時代だったのでしょう。
カロッツェリア・ギアが生んだ、2台の「開発コード117」
117クーペの「117」とは開発コードで、いすゞがシャシーとドライブトレーンを送ったイタリアのカロッツェリア(自動車デザインスタジオ)・ギアへ、4ドアサルーンと2ドアクーペのデザインを依頼、それぞれ「117サルーン」と「117スポルト」になりました。
前者が後のフローリアン、後者が117クーペとなり、デザイナーはそれぞれ異なるものの、両者はボディ違いの姉妹車という関係にあり、117クーペは、いわば「フローリアンのスペシャリティクーペ版」です。
2年後の1970年代に発売される、トヨタのカリーナ(セダン)/セリカ(クーペ)のような関係ですが、大きく異なったのは117クーペのデザインを手掛けたのが、後にイタルデザインから数々の優れた自動車デザインを生み出す巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロだったこと。
メーカーが違っても、同じデザイナーが手掛けたクルマは同時代の同ジャンル車なら何となく似てくるもので、117クーペも同時期のジウジアーロが手掛けたイタリア製クーペと共通点が多く、他の華麗なる国産スポーツとも異なる雰囲気にあふれていました。
機械で作れなくともあきらめず、ハンドメイドで作った初期型
しかし問題は、そのジウジアーロが作り上げた美しい曲線美にありました。
当時の日本はようやく国民車的なマイカー所有が可能となり、個人ユーザー向けに大量生産モデルを作れるようになった時代ですが、117クーペのように複雑にうねるような曲線のボディパネルを同じようにプレス加工で作るには、それなりの設備投資が必要です。
しかし、戦後に4輪乗用車へ参入したとはいえ、本質的には日野と同じようなトラック・バスメーカーであるいすゞには、乗用車向けに回せる開発資源も生産資源も、何もかもが足りません。
それはいすゞが乗用車生産を始めてから常についてまわった問題であり、後にGMグループ入りを経て、他の国産乗用車メーカーより陳腐化するまで同じモデルを作り続けざるをえなかったり、1990年代はじめに乗用車生産からの撤退を迫られた原因でもあります。
しかし1960年代はじめの段階では他社との差はまだ小さく、むしろトヨタ、日産と並ぶ「御三家」に数えられたいすゞには、それなりの意地がありました。
せっかくの美しいクーペを、機械生産できないからとお蔵入りさせるにゃもったいない!とばかりに、大まかな形だけプレス加工して、あとは職人が手作業で作るという117クーペ初期型、通称「ハンドメイド」は、こうして生まれました。
中低速でのパンチが効いた、いすゞ独自のDOHCエンジン
美しいカタチだけで見かけ倒しにならないよう、エンジンもいすゞ初のDOHCエンジン、120馬力を叩き出す1.6リッターのG161Wが搭載されました。
後にいすゞの技術者が、「ツインカムというよりバランサーシャフトも含めトリプルカムなんて呼んでいて、重々しい吹け上がりだった」と語っていましたが、高回転まで気持ちよく吹け上がるより、中低回転域から立ち上がるトルクがいすゞエンジンの持ち味です。
つまり、高回転でしか発揮できない高性能より、実用域からのパンチが効いた公道での実戦向きエンジンであり、ハンドメイドのおかげで非常に高価ゆえに117クーペ自体のモータースポーツ活動は少ないものの、同じエンジンを積むベレットGT typeRが活躍しました。
また、G161Wを電子制御インジェクション化(国産初)したり、1.8リッターエンジンの追加など、高価なフラッグシップモデルらしい高性能化が図られたり、いすゞらしくディーゼルエンジンも設定されています。
足回りについては前述のようにフローリアンと共通だったため、美しいデザインやDOHCエンジンとは裏腹にフロントがダブルウィッシュボーン独立懸架、リアがリーフリジッド車軸懸架と、まさに質実剛健。
既にベレット(1964年)がリアにスイングアクスルを採用した4輪独立懸架だったとはいえ、後の初代ジェミニや初代ピアッツァも3リンクリジッドでしたし、当時の日本ではまだまだ耐久性重視の足回りが必要だったのでしょう。
117クーペが走り去る後ろ姿はカッコよかったものの、それだけにリアのリーフスプリングがやたらと目立ってしまうあたり、やはりスポーツクーペというよりスペシャリティクーペ的でした。
中期型以降のデザインは、アリかナシか?
1973年からプレス加工で生産する目処も経ってハンドメイドではなくなり、1.8リッターガソリンエンジンへ統一された中期型へ移行、さらに1977年には2リッター化と角型(規格型)ヘッドライトの後期型へ。
1974年生まれの筆者より約6年も早く誕生し、7歳になる1981年まで生産された117クーペですが、たまたま幼少期を過ごした家の向かいがいすゞファンで、初代ジェミニ(スラントノーズに丸目の中期型)のほか、117クーペも見たような記憶があります。
その家でも、街で見かけるのも大抵は後期型でしたから、「117クーペってそんなもん」と見慣れていましたが、今見ると中期でアメ車っぽいテールランプとなり、規格型ヘッドライトになった後期では、もはや初期のデザインから全く違うクルマという印象。
知らなきゃ知らないで、後期を見て「117クーペってカッコいい」でしたが、初期のあまりにエレガントなデザインを見てしまうと、中期以降は「2代目シルビア(S10)の上級バージョンみたい」と思ってしまい、ある意味で初期型は眼福ですが、目の毒です。
少しでも新しく見えるよう努力しながら10年以上作ったいすゞは大したものだと思いますし、フローリアンSIIほど激変したわけではないので、中期は後期も「これはこれでアリだし、おかげでピアッツァまで持ちこたえた」と、受け入れるべきなのでしょう。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...