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【自動車の歴史】ホンダの歴史、ルーツと車種の特徴を知ろう!

創業者の本田宗一郎

本田宗一郎氏(右)、元ホンダF1チーム監督の中村良夫氏(左)

ホンダの創業者である本田宗一郎は、1906年に静岡県で生まれました。本田宗一郎は、子供の頃から自動車や飛行機に強い関心を持ち、高等小学校卒業後には東京の自動車修理工場「アート商会」に入社し、自動車修理の経験を積みました。

本田宗一郎はアート商会で人一倍努力した結果、アート商会の主人である榊原郁三氏から、浜松支社を設立して独立することが認められました。

その後、本田宗一郎はエンジンの部品の一つである「ピストンリング」の製造ビジネスをしようと試みましたが、学問的な壁に阻まれたことで、浜松高等工業(現在の静岡大学工学部)の講義を聴講するなど、研究に勤しみました。

研究への情熱が実を結び、本田宗一郎は自身が創業した「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)でピストンリングの製造を行いましたが、時代は太平洋戦争に突入したことで、本田宗一郎を取り巻く環境も悪化していきました。
工場職員が戦争に徴兵されたほか、度重なる空襲で東海精機重工業山下工場も破壊されました。決定的だったことは、1945年1月の南海大地震によって磐田工場が倒壊したことです。

製造業を続けることが難しくなったことを悟った本田宗一郎は、東海精機重工業の経営から手を引き、1年間の「人間休業」(休養)に入りました。

ホンダの歴史を振り返る

本田技術研究所を設立

ホンダ ドリーム D型(1949年) 外観
ホンダ ドリーム D型(1949年)

「人間休業」を終えた本田宗一郎は、1946年に本田技術研究所を開設しました。この施設では内燃機関および各種工作機械の製造、ならびに研究が行われていました。

1948年に、この本田技術研究所を継承する企業として、本田技研工業株式会社が設立されました。当時は浜松市に本社を置いており、ホンダ初の2輪車「ドリームD型」が作られたのはこの頃です。

マン島TTレースへの挑戦

1961年のマン島TTに出場したトム・フィリス
1961年のマン島TTに出場したトム・フィリス

1954年3月20日に、今なお受け継がれるホンダのDNAを象徴する発表がなされました。それが、「マン島TTレース出場宣言」です。

マン島TTレースは、イギリス王室の属国であるマン島の公道で開催されているオートバイレースであり、ここで勝つには世界の有名オートバイメーカーを倒さなければなりませんでした。

当時、まだ先進国に敵わないレベルの工業製品しか作れなかった日本の企業としては、野心的すぎるとも言える宣言でした。

絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る! 明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。

此のレースには未だ會つて国産車を以て日本人が出場した事はないが、レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧傳される。

従つて此の名声により、輸出量が決定すると云われる位で、独・英・伊・仏の各大メーカー共、その準備に全力を集中するのである。

ホンダ「マン島TTレース出場宣言」より一部抜粋

その後日本のオートバイレースで経験を積み、1959にホンダはマン島TTレースに初挑戦。参戦初年度であるゆえ、完走することさえ難しいのではないかと思われていたところ、なんとホンダのマシンは4台も完走させることに成功し、さらにメーカーチーム賞も送られました。

その後も挑戦を続け、参戦3年目の1961年についに初の優勝を飾ります。

それも125ccクラス、250ccクラスともに1位から5位までを独占するという完璧なかたちでの初優勝を成し遂げ、ホンダのマシンは「まるで時計のような精密さ。アイデアに満ち溢れた完璧なエンジン」と世界中のメディアからの絶賛を受けました。

初期のホンダ車

ホンダ T360

ホンダ初の4輪車は、1963年8月に発売されたT360です。

この軽トラックは、当時発売が計画されていたスポーツカーホンダ S360と同じエンジンが搭載されていたことから、軽トラックとしては異例の高出力エンジンとなっており、後に「スポーツトラック」の異名を得るほど、ホンダの個性があふれ出た軽トラックでした。

ホンダ S500

T360の後に発売された4輪車が、S500です。

前述したホンダ S360は結局発売が断念されたのですが、S500はS360に大きな車体とパワフルなエンジンが与えられたスポーツカーとして発売されました。

ホンダ S500は、バイクで培われた技術が注ぎ込まれた精密なエンジンが特徴の小型スポーツカーとして、人気を博しました。

F1への挑戦

ホンダ RA271(1964年)

ホンダは日本で初めてF1世界選手権に参戦した自動車メーカーとしての顔も持っています。

ホンダは同社初の4輪車発売直後となる1964年8月、F1世界選手権に初参戦。

ホンダ初のF1マシン「RA271」は、他メーカーよりも20馬力から30馬力程度出力が高いエンジンを搭載していましたが、車重が重かったことと信頼性の欠如により、参戦当初は苦戦を強いられました。

1965年、ホンダは改良されたマシン「RA272」でF1に挑戦しました。そして最終戦のメキシコグランプリで、ホンダは F1初優勝を達成しています。

参戦11戦目で初優勝という快挙を成し遂げたホンダは、1968年まで参戦を継続。ホンダのF1活動は休止と再挑戦を繰り返しており、この最初期の活動は俗に言う「第1期」にあたる時期です。

CVCCエンジンの開発

ホンダ シビック CVCC(1973年)
ホンダ シビックCVCC

F1への挑戦が一区切りした頃、世間では大気汚染が深刻な問題として話題となっていました。

そして自動車文化が進んでいたアメリカでは、一酸化炭素・炭化水素・窒素酸化物を従来の10分の1にすることを定める「マスキー法」が制定されるなど、自動車の環境性能に対する世界的な関心が高くなった時期でもありました。

こうした世論を受け、ホンダは世界で初めてマスキー法をクリアしたエンジン「CVCCエンジン」を開発し、アメリカで高い評価を受けました。

CVCCエンジン

当時、マスキー法をクリアする技術を持ったメーカーはほとんどなく、トヨタ・フォード・クライスラーなどのメーカーにCVCCエンジンの技術供与が行われました。

ここまで、高出力エンジンの開発に力を注いできたホンダでしたが、CVCCエンジンという低公害なエンジンの開発によって、世界に通用する自動車メーカーという地位を確固たるものにしました。

1970年前後のホンダ車

ホンダ シビック

ホンダ シビック 2ドア DX 1972年
ホンダ 初代シビック 2ドア DX

上記で説明したCVCCエンジンが初めて搭載されたのがシビックです。

オートバイの販売店でも扱えるほど小さいボディで広い室内空間を実現した小型車であり、かつ高い環境性能を誇る当時のエコカーとして、世界中で人気を博しました。

また、ボディタイプもセダンハッチバック、ライトバンなど複数種類から選ぶことができるなど、幅広いユーザーが満足できる車となっていました。

初代シビックは1972年から1979年まで販売されましたが、その後も北米・欧州などでグローバルに販売されるホンダの看板車種としての地位を築いています。

ホンダ N360

ホンダ N360

ホンダが1967年に発売した軽自動車「N360」は、前輪駆動方式を採用したことで広い室内空間を実現したほか、ライバル車より圧倒的に高出力なエンジンが与えられたことで、ほかの軽自動車メーカーに衝撃を与えました。

高性能である点や廉価な価格が消費者に受け、N360は当時スバル360が保持していた軽自動車販売トップを奪取するほどの人気車種となりました。

ホンダF1黄金期

Honda F1記者会見 マクラーレンホンダ2015
2015年のホンダF1記者会見にて展示されたマクラーレン・ホンダ車

1983年から、ホンダはF1への挑戦を再開させました。

これをホンダF1第2期というのですが、この時ホンダはレースカーの車体を開発せず、レーシングチームにエンジンを供給して参戦するという形をとりました。

その結果生まれたのが、かの有名な「マクラーレンホンダ」です。

ホンダはマクラーレン以外のチームにもエンジンを供給しており、パワフルなエンジンでF1界を席巻。1980年代後半には、伝説のF1ドライバーであるアイルトン・セナがマクラーレンホンダに加入し、1988年のF1の全16戦中15勝を挙げるなど華々しい戦績を残しました。

またこの頃は、日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催され始めたこともあり、日本でのF1人気も最高潮に盛り上がりました。

1980年代頃のホンダ車

ホンダ シティ

ホンダ 初代シティ

1981年に発売されたホンダのコンパクトカーが、シティです。

当時、モデルチェンジしたホンダ シビックが大型化したことを受け、シビックより小さいコンパクトカーの需要を満たすために開発されました。

当時のコンパクトカーとしては異例とも言える背の高さ(1,470mm)と、それによってもたらされた広い室内空間が特徴でした。

ホンダ NSX

ホンダ 初代NSX

NSXは、1985年から開発がスタートして1990年に発売されたホンダのスーパーカーです。日本がバブル景気で湧いていた中、ホンダが当時F1に再挑戦していた背景もあり開発がスタートしました。

NSXは、エンジンが車体の中央付近に搭載される「ミッドシップエンジン・リアドライブ」レイアウトや、ボディ全体を軽量なアルミニウムで作る世界初の「オールアルミモノコックボディ」が採用されました。

NSXの開発にはF1ドライバーのアイルトン・セナや中嶋悟も参加し、世界最高レベルの走行性能を実現しました。

バブル景気が弾けた後も販売が継続され、2006年まで生産された長寿モデルとなりました。

エコカーへの挑戦

ホンダ 初代インサイト

近年、モーターとエンジンで走るハイブリッドカーや、「究極のエコカー」とも言われる燃料電池車などに注目が集まっていますが、ホンダはこれらのエコカーの開発に1990年代から取り組んでいました。

ハイブリッドカーの開発は1995年に始まりました。それまでは車の動力源に電気を使うこと自体が珍しく、さらにエンジンとモーターを組み合わせて制御するという難しさもあり開発は一筋縄ではいきませんでしたが、ホンダ初のハイブリッドカー「インサイト」は1999年11月に発売されました。

水素を燃料として走る燃料電池車の開発も、同じく1999年代後半からスタートしました。当初ミニバンをベースに作られた試作車は、水素から電気を取り出す装置だけで荷室が占拠されているという実用性に乏しい車でした。

しかし、現在リース販売されている燃料電池車「CLARITY FUEL CELL」はデザインも洗練され、気負わずに乗れる車として完成度の高い車種となっています。
ホンダは燃料電池車のさらなる普及に向けて研究を続けています。

航空機・ロボットへの挑戦

HondaJet 量産1号機 初飛行の様子
HondaJet 量産1号機 初飛行の様子(2014年)

ホンダは1980年代から航空機の研究を水面下でスタートさせていました。というのも、ホンダの創業者である本田宗一郎は幼い頃から飛行機に憧れ続けていたからです。

その後、1997年にホンダは自社製ビジネスジェット機「HondaJet」の開発を正式にスタートし、2014年に量産1号機の初飛行が行われました。HondaJetは、エンジンを主翼上に配置するというユニークなアイデアが採用され、それによってクラストップの巡航速度と低燃費が実現されました。

また、ホンダが人型ロボットの研究を始めたのもこの頃です。当初は歩行技術の確立に絞ったロボットを研究していましたが、その後人間に近い動きをする手や腕が実現されたり、人とぶつからないように歩くことができるなど、進化が続いています。

同時に、人型ロボットの技術を応用し、筋力が弱い方の歩行をアシストする道具の研究も行われています。

執筆者プロフィール
MOBY編集部
MOBY編集部
新型車予想や車選びのお役立ち記事、車や免許にまつわる豆知識、カーライフの困りごとを解決する方法など、自動車に関する様々な情報を発信。普段クルマは乗るだけ・使うだけのユーザーや、あまりクルマに興味が...

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