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トヨタとヤマハの初タッグ作「廉価版が初代スープラだった?」トヨタ2000GT【推し車】

オークションでは国産車最高額となる歴史的名車

ロングノーズ・ショートデッキで美しいデザインの国産スーパースポーツ、トヨタ2000GT

デビュー当時の国産車としては飛び抜けた高性能や、華々しい世界記録、美しいデザイン、そして凄まじい高価格から「日本初のスーパーカー」と言われる事もあるトヨタ2000GT。

時代の流れで、現在の視点から見れば平凡な性能の2リッター級5ナンバーFRクーペに過ぎないとも言えますが、作られた時代を考えれば素晴らしい名車と国内外で高く評価され、今ではオークションで1億円以上の値がつくことすらあります。

今回はトヨタ博物館に展示されている後期型の画像を交えつつ、開発の経緯や、幻に終わった廉価版までを紹介しましょう。

トヨタのイメージリーダーとなるスポーツカーを求めて

サイドまで大きく回り込む曲面フロントガラスなど、今見ても日本車離れしたデザインはトヨタ社内の野崎 喩氏によるもの

戦前の1933年に創業後、日産とともに大型乗用車やトラックの国産メーカーに指定されて発展、戦後もトラックや乗用車メーカーとして存続したトヨタは、1955年に初代クラウンを発売後、本格的な国産車メーカーとして飛躍的に発展する軌道に乗ります。

コロナやパブリカなど、小型タクシーや一般向けの手頃な大衆車にも手をつけ、1963年の第1回日本グランプリで大勝して販売促進につなげるなど、技術面でまだ未熟なところはあったとえはいえ、着実に国産車No.1メーカーへと成長していきました。

しかし問題はイメージリーダーとなるスポーツカーの不在です。

純レーシングカーの「トヨペット・レーサー」(1951年)や、2代目クラウンのデザインスタディ的な2ドアクーペ「トヨペット・スポーツX」(1961年)は市販車ではなく、久野自動車工業が架装した「トヨペット・カスタムスポーツ」(1960年)も販売は限定的。

初代パブリカをベースに、航空機の技術を空力に応用した画期的な軽量モノコックボディの「トヨタスポーツ800」はあったものの、求めていたのはトヨタの象徴となる、豪華で高性能なスポーツカーでした。

そこで、第2回日本グランプリ(1964年)からレース担当となっていたエンジニア、

河野 二郎氏をプロジェクトリーダーとした開発チームが発足、2代目クラウン同様のXブンフレームを用いたFRスポーツクーペという基本レイアウトを決定します。

ただし、大量生産を前提とした従来のトヨタ車と異なり、生産性より性能やデザインを最優先した、少量生産の高価格車となるため、トヨタ単独での開発には限界が感じられました。

スポーツカーの夢が挫折したヤマハ

トヨタ博物館に展示されているのは、小型化されたフォグランプ枠がフロントグリルと一体化するなど、細部のデザインが異なる後期型

一方、戦後に二輪車へ参入した日本楽器製造(現・ヤマハ)は、オートバイ部門を1955年にヤマハ発動機として独立、第1作のYA-1からメキメキと頭角を表しており、次のステップとして四輪車進出を目指し、1959年にヤマハ技術研究所へ安川研究室を発足させます。

それ以前から軽自動車の構想はあったものの、実際に初めて開発したのはイギリスのMGAを参考にした1.6リッター級スポーツカー「YX-30」で、2シーターオープンの1号車、2+2シータークーペの2号車を作って、テストでは最高速144/kmをマークしていました。

このYX-30で凄かったのは当初からDOHC、それもオールアルミ製エンジンだったことで、手探りの開発によりどうにか形になるまで苦労したものの、同時期のホンダと似たような道のりを歩んでいたことになります。

しかし、オートバイ不況やスクーターの失敗もあり、単独でのスポーツカー事業どころではなくなり断念、安川研究室どころかヤマハ技術研究所も解散してしまいました。

そこへ日産からエンジンやダットサンスポーツ(フェアレディ)の幌の設計、モーターショーへ展示する「ダットサン・クーペ1500」(後の初代シルビア)のショーモデル製作といった下請け仕事が舞い込みます。

ついには、2リッターDOHCエンジンYX80を積むFRスポーツクーペ「A550X」の共同開発までこぎつけ、寸法は後のS30型初代フェアレディZと同等、見た目はS30Zのフロントを2代目C2コルベット風にしたような、リトラクタブルヘッドライトの試作車が完成。

ところが東京モーターショーでの発表直前に正確な理由は不明ながら提携解消となり、またもやヤマハによるスポーツカーの夢は破れるのですが…拾う神あれば救う神あり。

(※なお、ヤマハチューンの日産車としては、L20ベースでDOHC化したB680Xエンジンを積むプロトタイプレーサー「A680X」が最後となりますが、これも合併したプリンスのR380が本命となり、B680Xを積む「フェアレディS」がレースで一度走ったきりで終了)

最良のパートナーとなった、トヨタとヤマハ

ウィンドウ周りのメッキや内装などは手作業で丁寧に組み付けられた

YX-30、A550Xと2度も夢破れ、すっかり意気消沈していたヤマハ発動機の開発部ですが、今度はトヨタと提携する事になって、R型エンジンのDOHC化からスタート。

さらに1964年10月、河野 二郎氏のチームが開発していた高性能スポーツカーも、トヨタ側で基本設計を行い、細部の設計や具体的な製図作業、M型エンジンのDOHC化や最終組立はヤマハ発動機(磐田工場)で行う事になります。

ただ、普通のトヨタ車とは開発から生産まで全く異なる体制で、しかも急ピッチで開発を進めるためにはトヨタ社内で「大企業のしきたり」を守っている場合ではなかったため、河野氏以下の開発チームがヤマハに派遣されて共同開発となりました。

結果的にそれで妙に風通しのよい開発体制となり、設計作業そのものが大幅に簡略化され、アイシンやデンソーなど関連会社へトヨタを通さない特殊な部品発注などもスピーディに行われて、1965年8月には共同開発開始からわずか10ヶ月で1号車が完成するという早業!

ヤマハが加わる以前の基本設計があったとはいえ、トヨタ側も「組織だルールだと言ってばかりのトヨタではできないことで、参考にすべきだ」と大絶賛。

日産とは社風が合わなかったようで、トヨタも本来なら同じ結果に終わってもおかしくなかったものの、「トヨタ流」を前面に出さなかったことでヤマハの力を存分に発揮することができ、共同開発のお手本のような結果になったのです。

レースでの活躍、ボンドカーへの採用、そして世界記録

トヨタ2000GTといえばマグネシウムホイールだが、現在の製品と違い衝撃でアッサリ割れる事もあったらしく、採用を悔やんだ話も残る

その年の東京モーターショーで「トヨタ2000GT」として発表後、翌1966年5月の第3回日本グランプリへ出場します。

「トヨタスポーツ800へ、ホンダのDOHCエンジンを積めば最高じゃないですか!」とモアパワー志向だった故・浮谷 東次郎(奇しくも2000GTの1号車が完成した1965年8月に事故死)によるドライブがかなわなかったのは残念でしたが、3位入賞と上々のデビュー。

同年10月の鈴鹿1000kmで初優勝するなど耐久レースで強さを発揮し、当初シボレー カマロを使う予定だったと言われる映画「007は二度死ぬ」の日本ロケにもねじ込んでボンドカーとして採用され、2台のオープン仕様2000GTを製作しました。

さらに1966年10月には谷田部のテストコース(自動車高速試験場)でスピード・トライアルの世界記録へ挑み、台風が襲来する中でも集会を続け、72時間の平均独度206.02km/hを記録するなど、13カテゴリーで当時の世界記録を打ち立てます。

こうした実績を積み重ねる裏では、ヤマハ発動機磐田工場での生産準備が進められますが、何しろヤマハは自動車の量産などした事がないため、日産出身の熟練工員に指導を仰ぐ、仕上げも外部の熟練工に頼んで…と、かなり苦労したようです。

しかも職人が手作業で組み立てたところへ「これでもか」とばかりにホースで水をぶっかけても水漏れひとつない、となるまで出荷させないなどトヨタの品質基準は厳しいもので、その後のヤマハにとってもよい経験になりました。

こうして1967年5月に発売されたトヨタ2000GTは、販売台数こそ少なかったものの、「トヨタの象徴」として現在まで国産車屈指の名車として知られることになり、ヤマハもトヨタのスポーツエンジンの数々で腕を振るい、後にレクサスLFAを生む事になります。

幻の2000GT廉価版

隣へ並ぶトヨタスポーツ800がまるで弟分のようだが、「本当の弟分」はトヨタ1600GTなので、この配置はちょっと寂しく、つくづく1600GTの不遇というか悲哀を感じる

ところで、トヨタ2000GTには「幻の廉価版」が存在します。

よく知られるのは、北米輸出向けに2.3リッターSOHCエンジン(2M-B)を積む通称「2300GT」ですが、それとは別にリトラクタブルライトを固定式ヘッドライトへ変更、それ以外のデザインは似ている別モデルが計画され、モックアップまで作っていたのです。

エンジンやシャシー(Xボーンフレーム)はヤマハで作りますが、ボディは関東自動車工業(※)で量産し、高価すぎて販売が振るわない2000GTの量販バージョンとして期待されましたが、最終的に多額の設備投資に見合う販売台数を見込めず、計画は中止されました。

(※セントラル自動車などと合併し、現在は「トヨタ自動車東日本」。千葉県木更津市に現存する同名会社とは無関係)

もし実現していたら、北米で初代S30フェアレディZと「プアマンズポルシェ」を争っていたかもしれず、これが初代スープラ(2代目までの日本名は「セリカXX」)となっていたかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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