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メルセデス・ベンツ

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50台以上の名車と振り返る!メルセデス・ベンツ95年の歴史

創立95周年を迎えたメルセデス・ベンツ

メルセデス・ベンツ ロゴ エンブレム
メルセデス・ベンツのロゴ

メルセデス・ベンツは1926年に誕生したドイツの自動車ブランドです。

前身となる「ダイムラー・ベンツ」は、ゴッドリープ・ダイムラーとカール・ベンツの会社が合併したことで誕生しました。

ゴッドリープ・ダイムラーは内燃機関を搭載した自動車を世界で初めて開発、カール・ベンツは世界最古の自動車メーカーを設立したことで知られており、両名とも自動車業界の偉人といえる人物です。

ここでは、2021年に創立95周年を迎えたメルセデス・ベンツの歴史を、名車と共に辿っていきます。

「ダイムラー・モトールキャリッジ」を作ったゴットリープ・ダイムラー

ゴットリープ・ダイムラー
メルセデス・ベンツ創設者のひとり、ゴットリープ・ダイムラー

内燃機関の誕生

1769年にニコラ=ジョセフ・キュニョーによって蒸気自動車が発明され、18世紀末から19世紀初頭、ヨーロッパやアメリカでは蒸気自動車が輸送手段として普及しました。

実用的な内燃機関は、1860年にフランスのジャン・ジョセフ・エティエンヌ・ルノワールが作り出した石炭ガスを燃料とする今で言う2サイクル構造で、クランクからパワーを回転力として取り出していました。石炭ガスを燃料としていたためルノワールの内燃機関は定置用でしたが、車や船などへの転用を考え、ガソリンを気化させて燃料とすることに成功しました。

ルノワールの作った内燃機関は、ガスを圧縮せずに点火する無圧縮であったため出力が低く、後の研究者たちによってガスの圧縮や機構の見直しがされていきました。そして、1862年にフランスのボー・ド・ロシャが、現在の4サイクルエンジンの作動原理を論文にまとめて発表しました。

ロシャは理論を確立したのですが、実際にその理論に基づいた内燃機関、つまり4サイクルエンジンを作り上げたのはドイツのニコラス・アウグスト・オットーでした。

オットーの4サイクルエンジンとダイムラー

1864年、オットーはカール・オイゲン・ランゲンと出会い、「オットー・ランゲン式ガスエンジン」の製造を開始します。このオットー・ランゲン式ガスエンジンを生産するために、「ガスモトーレン・ファブリーク・ドイツ(ドイツガスエンジン工場)」という会社が1872年に設立されました。

その工場長に就任したのが、後にメルセデス・ベンツの創立者のひとりとなる、ゴッドリープ・ヴィルヘルム・ダイムラーでした。

オットー・ランゲン式ガスエンジンは成功を収めますが、大きく、出力にも限界があったため次第に売り上げが下がっていきました。そこで、オットーは新しいエンジンの開発に着手。この新しいエンジンの開発の中心となったのが、ダイムラーとその友人であったヴィルヘルム・マイバッハでした。

ヴィルヘルム・マイバッハ

地道な研究と改良の結果、1876年に現在の4サイクルエンジンの理論が完成しました。これはいわゆる「オットー・サイクル・エンジン」と呼ばれるものであり、現代においてもその名称は使われ続けています。

最初の内燃機関搭載車「ニーデルラート」

ダイムラー ニーデルラート
史上初の現実的な内燃機関搭載車「ニーデルラート」

1881年、ダイムラーはガスモトーレン・ファブリーク・ドイツを離れ、マイバッハと共に理想的なエンジンの開発を始めます。二人が目指したのはより高出力で小型のエンジンであったため、石炭ガスではなくガソリンを燃料として使用するエンジンを完成させました。

彼らの作ったエンジンは1885年に木製の二輪車に搭載され、これは「ニーデルラート」と呼ばれる史上初の現実的な内燃機関搭載車となりました。ニーデルラートに搭載されたエンジンは、空冷単気筒の264ccで、出力は0.5馬力でした。

世界初の馬車にエンジンを搭載した四輪車

ダイムラー・モトールキャリッジ
ダイムラー・モトールキャリッジ

ニーデルラートの成功によりガソリンエンジンにはっきりとした可能性を見出したダイムラーとマイバッハは、次の段階として四輪車の製作に取り掛かります。当時はまだ馬車が主流の時代ですから、車体には馬車として作られたものを使用し、後席の床部分に穴をあけ、排気量462cc、1.1馬力の単気筒エンジンを搭載しました。

1886年に完成した「ダイムラー・モトールキャリッジ」と呼ばれるこの四輪車は、最高時速18キロを記録しました。ダイムラーたちは自動車の開発以外にも、エンジンを搭載した船舶や飛行装置なども製作し、ガソリンエンジンの可能性を広げていきました。

V型2気筒エンジンを積む「シュトールラート・ヴァーゲン」

シュトールラート・ヴァーゲン

1889年には970ccのV型2気筒エンジンを開発、新しい車体も設計しました。マイバッハが設計した新しい車体は、馬車というよりも自転車を横に2台繋げたような形の金属製で、タイヤも馬車の木製ではなく金属製のホイールにゴム製のタイヤを履かせたものでした。

この新しい車は「シュトールラート・ヴァーゲン」と呼ばれ、1889年のパリ万博に出品されました。

一般的にはあまり注目を集めなかったシュトールラート・ヴァーゲンですが、世界最古の自動車会社と呼ばれるパナール(※自動車生産開始当初の社名は「パナール・エ・ルヴァッソール」)の創始者のひとりルネ・パナールなどに大きな影響を与えたと言われています。

会社から離れて作られた「フェニックス」エンジン

ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトの従業員

さらなるエンジンの開発研究に必要な資金を得るために出資者をつのり、1890年に「ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト」を設立しました。しかし、経営権を握った出資者との対立により、1893年にダイムラーとマイバッハはダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトを退職してしまいます。

会社を離れた二人は、新しいエンジン、そして車の開発を始めました。新しいエンジンは直列2気筒で、これにマイバッハが発明した現代のものとほぼ同じ構造のキャブレターを装着。より小型のエンジンにすることに成功しました。

ダイムラー 8HP フェニックス
ダイムラー 8HP フェニックス

「フェニックス」と名付けられたこのエンジンは、ベルト駆動方式を採用した新しい車に搭載されました。

ダイムラーエンジンの優秀さを証明した「パリ – ルーアン・トライアル」

プジョー Type3

1894年、記録として残る世界最古のモータースポーツイベント「パリ – ルーアン・トライアル」が開催され、プジョー・Type3とパナール・ルヴァッソールの2台が優勝しました。

実は、この2台のガソリンエンジン車には、ダイムラーのライセンスによるV型2気筒エンジンが搭載されていたのです。このダイムラーエンジンの活躍に注目したのが、イギリスの技術者フレデリック・リチャード・シムズでした。シムズは好条件でイギリスでのダイムラーエンジンの製造ライセンスを取得するに当たって、会社とダイムラーの和解を求めました。

このシムズの提案によって、1895年にダイムラーは最高技術顧問として、マイバッハは技術部長としてダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトへと復帰しました。

また、ダイムラーはシムズがダイムラーエンジンをイギリスで製造するために設立した「デイムラー・モーター・カンパニー」の役員として名前を連ねることになります。

しかし、そのわずか5年後の1900年にダイムラーはこの世を去りました。

ブランド名「メルセデス」の誕生

35HP

自動車の始まりと共にレースも始まり、熱狂的なモータリストを生み出しました。彼らのほとんどは貴族や大商人で、とてつもない大金持ちでした。そんな熱狂的なモータリストの中に、オーストリア・ハンガリー帝国のニース駐在領事だったエミール・イェネリックがいました。

イェネリックはダイムラー車の販売を手掛け、その後大株主としてダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトに対して大きな発言力を持っていました。イェネリックは速い車を作ることをマイバッハに望み、1901年に「35HP」と呼ばれるまったく新しい車が作り出されました。

この35HPは5.9Lの4気筒エンジンを車高の低い車体に搭載し、4段ギアトランスミッションを装備、最高時速86.1キロを記録しました。この車の性能に満足したイェネリックは、オーストリア、ベルギー、ハンガリー、フランス、アメリカで独占販売する契約をします。

ブランド名の基になったメルセデス・イェネリック

そして、これらの国でこの35HPを販売するにあたって、新しい車名を付けることを提案しました。その車名はイェネリックの娘「メルセデス」から取られ、35HPは「メルセデス35HP」として販売されることになります。

メルセデスのロゴマーク

イェネリックはこのメルセデス35HPを様々なレースに出場させ、その名を広げることに成功しました。ダイムラー」よりも「メルセデス」の方が有名となったため、1902年に「メルセデス」を商品名として登録しました。

「ジンプレックス」の開発、そしてマイバッハとの別離

メルセデス・ジンプレックス 18/22HP
メルセデス・ジンプレックス 18/22HP

ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトは成功した「メルセデス35HP」の排気量を拡大し、出力を高めた後継モデル「メルセデス・ジンプレックス」へと発展。

メルセデス・ジンプレックス60HP

「メルセデス・ジンプレックス60HP」の最高時速は120キロを誇りました。レースにおいても「60HP」や「90HP」が活躍し、ダイムラーの名声を高めていきました。

これらの車の開発の中心となったマイバッハは、1906年にSOHC直列6気筒12.9Lを積む「70HP」を完成させた後、1907年にダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトを去りました。

そしてその後、飛行船用のエンジンや大型高級車を製造する「マイバッハ・モトーレンバウ・ゲゼルシャフト」という会社を設立、1929年に83歳で亡くなっています。

「スリーポインテッドスター」を商標化

最初期のスリーポインテッドスター

マイバッハが去ったダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトで、開発の中心となったのはゴッドリープの長男であるパウル・ダイムラーでした。

パウルはそれまでのチェーン駆動をシャフト駆動に改めたるなどして、レースでのさらなる勝利へと貢献しました。

ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトは1909年に「スリーポインテッドスター」の商標権を申請し、1911年に認められました。

1909年から1921年の間、スリーポインテッドスターはこのように変化していく

このスリーポインテッドスターには、「陸、海、空でエンジンを活躍させる」というゴッドリープの願いが込められており、その後ダイムラー社のシンボルとして使われることになります。

フェルディナント・ポルシェによるレーシングカー開発

メルセデス 6/40/65HP タルガ・フローリオ

第一次世界大戦後、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトは航空機エンジン向けの技術であったスーパーチャージャーを自動車用のエンジンに搭載し、50%以上の出力向上を果たしました。

1922年にパウルはホルヒへと移籍し、その代わりの1923年に技術部長として就任したのがフェルディナント・ポルシェでした。ポルシェは開発のうまくいっていなかった2.0L4気筒スーパーチャージャー付きのエンジンを再設計し、このエンジンを搭載したレーシングカー「6/40/65HP」はタルガ・フローリオやコッパ・フローリオで勝利します。

「ベンツ・パテント・モトール・ヴァーゲン」を作ったカール・ベンツ

メルセデス・ベンツ創設者のひとり、カール・ベンツ

カール・ベンツによる内燃機関の開発

ダイムラーがシュトールラート・ヴァーゲンを出品した1889年のパリ万博には、ドイツからもう1台、カール・ベンツが作ったガソリンエンジン搭載車が出品されていました。

機関車の運転士の息子として生まれたカール・ベンツは2歳で事故によって父親を亡くしましたが、教育熱心であった母のおかげで大学の機械工学科へと進学します。27歳の時に友人と共に機械工作を行なう工場を設立しますが、株式市場の大暴落などの影響を受けて会社は経営危機期に陥り、一旦会社経営から手を引くことになります。

会社経営から手を引いたベンツは、内燃機関の研究を始めました。4サイクルエンジンに関してはオットーが特許を取得(※この特許は後に無効となります)していたため、2サイクルエンジンの開発を進め、1878年に完成させました。

2サイクルエンジンに関するいくつかの特許を取得したベンツは、研究を支援してくれていた写真師エミール・ビューラーとその友人で実業家のオットー・シュマックの出資によって、2サイクルエンジンを製造するための「ガスモトーレンファブリーク・マンハイム」という会社を設立します。

ベンツ&カンパニー・ライニッシュ・ガスモトーレン・ファブリーク

しかし、3ヵ月でベンツはその会社を離れ、マックス・カスパー・ローゼ、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・エスリンガーと共に「ベンツ&カンパニー・ライニッシュ・ガスモトーレン・ファブリーク」という会社を設立しました。

この会社の経営は順調で、ベンツは新しいエンジンとそれを使った乗り物の開発を考え始めます。そして、オットーの特許に対して無効を訴える訴訟が起こされたため、その特許が無効になると確信したベンツは4サイクルエンジンの開発を進め始めます。

世界初のガソリンエンジン自動車

ベンツ・パテント・モトール・ヴァーゲン

1886年、ベンツは水平単気筒、984ccの4サイクルエンジンを搭載した3輪車を完成させました。

この3輪車はガソリンエンジンを搭載した乗り物として特許を取得、「ベンツ・パテント・モトール・ヴァーゲン」として製造・販売されることになりました。完成自体はダイムラーの製作したニーデルラートの方が先でしたが、ベンツが特許を取得したことによって「世界初のガソリンエンジン自動車」を作ったのはベンツということになったのです。

ベンツはこの後も研究を重ね、様々な自動車やエンジンに関する特許を取得していきます。四輪車の製作を始める際も、まずステアリングシステムを考案し、その特許を取得しました。

ベンツ・ヴィクトリア
ベンツ・ヴィクトリア

1893年にこのステアリングシステムを使って作られたベンツ初の四輪車は「ヴィクトリア」と名付けられ、水平単気筒2.9Lのエンジンを搭載し、ベルトとプーリーを使った2段変速機を備えていました。翌1894年にはより小型の「ヴェロ」を発売、ヴェロは「パリ-ルーアン・トライアル」にも出場し、14位という結果を残しています。

水平対向エンジンを積んだ「ベンツ・コントラ・モートル」

ベンツ・コントラ・モートル

1896年ベンツは水平対向2気筒エンジン「ベンツ・コントラ・モートル」を完成させ、水平対向エンジンの設計に関する特許を取得しました。

1900年には水平対向4気筒エンジンを搭載したレーシングカーを製作し、フランクフルトで行なわれた国際レースで勝利しました。

しかし、ベンツの作る車はヴィクトリアやヴェロの発展型であり、ダイムラーの新しいメルセデス35HPに大きな溝をあけられることになってしまいました。共同経営車であったユリウス・ガンスはこれを問題視し、新しい技術者を招聘しました。

当初結果を残せず、内部対立などもあった新新しい技術陣ですが、1903年に直列2気筒エンジンを搭載した「パルシファル」シリーズを完成させ、一定の結果を残すことに成功しました。

こうした一連の動きに反発したベンツは、1903年に会社を離れましたが、ガンスが翌年会社を離れることになったこともあり、ベンツは会社へと復帰しています。

新しいエンジンと「ブリッツェン・ベンツ」

ブリッツェン・ベンツ
ブリッツェン・ベンツ

会社に復帰したベンツは新しい4気筒エンジンを開発、レースにおいても着実に成績を残していきます。

1908年には150馬力を発生する排気量13.6LのOHV4気筒エンジンを積んだレーシングカーを製作、1909年には排気量を21.5Lに拡大した「ブリッツェン・ベンツ」が生み出されます。

このブリッツェン・ベンツは200馬力以上の出力を誇り、レースに参戦すると共に速度記録へのチャレンジを行ないました。1909年にブルックランズで平均時速202.6キロを記録、翌1910年にはデイトナビーチで平均時速211.4キロ、1911年には同じくデイトナビーチで平均時速228.1キロを記録しています。

こうしたモータースポーツでの名声はベンツ車の人気を高め、工場を新設するなどして生産台数を拡大していきました。1914年には最初の6気筒エンジン車である「25/60HP」を発表、第一次世界大戦時には航空機用のエンジンも生産しました。

ベンツによるディーゼルエンジンの開発

第一次世界大戦後の1918年、ベンツは「6/18HP」という4気筒の1.5Lエンジンを搭載した小型車を発表します。

戦後の混乱期、ベンツは自動車の経済性を向上させることを重要な課題と考え、ディーゼルエンジンの研究に力を入れます。

そうして完成したベンツのディーゼルエンジンは、トラクターやトラックに搭載されて販売が開始されました。

新ブランド「メルセデス・ベンツ」の誕生

第一次世界大戦からの復興が進んだ1920年代、自動車は次第に大衆化し、量産化への道を辿り始めます。こうした流れの中、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフトとベンツ&カンパニー・ライニッシュ・ガスモトーレン・ファブリークの間に合併の話が持ち上がります。

新会社「ダイムラー・ベンツ」を設立

1926年に合併した両社は、「ダイムラー・ベンツ」という新しい会社を設立、製造する自動車のブランド名を「メルセデス・ベンツ」に統一することとなりました。

カール・ベンツは新しい会社の役員として名を連ね、技術部長にはフェルディナント・ポルシェが就任します。お互いが持つ既存車種の継続生産からスタートしたダイムラー・ベンツですが、合併した1926年にはポルシェが設計した「シュトゥットガルト」と「マンハイム」を発表します。

グローサー・メルセデス770K

さらに1928年には初の直列8気筒、4.6Lエンジンを積んだ高級車「ニュルブルク460」を発表、1930年にはより大型の7.7Lエンジンを積む超高級車「グローサー・メルセデス770K」が登場します。

このグローサー・メルセデスは、日本でも天皇陛下が乗車する御料車として長く使われました。

初のモータースポーツ進出

ポルシェを中心とした技術陣は、レーシングカーやスポーツカーの製造にも力を注いでいます。

1924年に完成させた6気筒スーパーチャージャー付きエンジンを搭載した「メルセデス24/100/140HP」をベースに、1926年にそのホイールベースを短くした「Kヴァーゲン(KはKurz(クルツ)を意味し「短い」という意味)」を製作。

翌1927年には新設計された6.8LのSOHC6気筒エンジンを搭載し、車体も改良された「Sヴァーゲン(Sは「スポーツ」の意味)へと発展させています。

メルセデス・ベンツ SSK

1928年にはエンジンを7.0Lまでボアアップした「SS(スーパー スポーツ)」と、さらにホイールベースを短くした「SSK(スーパー スポーツ クルツ)」が発表されています。SSとSSKはあらゆるレースで勝利を飾り、レースの世界においてメルセデス・ベンツの名前を轟かせました。

メルセデス・ベンツ SSKL

しかし、このSSとSSKを作り出したポルシェは、1928年にダイムラー・ベンツを去っています。ポルシェが去った後もSS系の車両は改良を重ね、さらに車体を軽量化した「SSKL(スーパー スポーツ クルツ ライト)」へと進化、レースにおける名声を保ち続けました。

メルセデス・ベンツ 500K ロードスター

1933年には3.8LのOHV直列8気筒エンジンを搭載した新しいスポーツモデル「380K」が発表されますが、この車名に付く「K」は「kurz」から「Kompressor(=過給機)」という意味に変わっていて、エンジンにはスーパーチャージャーが装着されていました。380Kはその後5.9Lエンジンを積む「500K」、5.4Lエンジンを積む「540K」へと進化しました。

大衆車の生産へ乗り出す

1929年、カール・ベンツは病によって逝去します。

そして、その年に起こった世界大恐慌に端を発する不況の波は、いわゆる中産階級を台頭させるに至り、自動車会社はこの新しい購買層向けにより一層の大衆化された自動車を求められることになります。

質よりも量を優先する必要に迫られた自動車会社は、小型で経済的、そして価格も安い自動車の製造を行なう方向に動き出します。

初の小型モデル「170」

メルセデス・ベンツ 170カブリオレ

ダイムラー・ベンツは1931年に「170」という小型モデルを発表。この170は1.7Lの直列6気筒エンジンを搭載し、サスペンションには独立懸架方式のものが採用されていました。

170は改良モデルの「170V」や上級モデルの「230」、「290」、「320」と発展を遂げていきます。

ポルシェの置き土産「130」

メルセデス・ベンツ 130H

1934年のベルリンショーで、「130H」というモデルが発表されます。

この車は1.3Lの直列4気筒エンジンを車体の後ろ側に積むRRレイアウトを採用しており、後にドイツの「国民車」として登場するフォルクスワーゲンに似ている部分が数多く見られました。

フォルクスワーゲンを設計したのはフェルディナント・ポルシェであり、彼がダイムラー・ベンツ在籍時にこの130Hの基本設計を行なっていたと考えるのが妥当でしょう。

ダイムラー・ベンツはハンドリングに問題のあった130Hを改良して「170H」へと発展させますが、この170Hも1936年で生産を停止しています。

ディーゼルエンジンを積んだ「260D」

メルセデス・ベンツ 260D

この時代のダイムラー・ベンツにおける大きなトピックのひとつは、ディーゼルエンジンを搭載した乗用車を発表したことでしょう。

「260D」と名付けられたその車は1936年のベルリンショーでタクシー向けの車両として発表され、その経済性の高さから個人オーナー向けとしても好評を得ました。

この260D以降、メルセデス・ベンツは乗用車にディーゼルエンジンをラインナップするようになりました。

「W25」によるレースへの復帰の影にあった、ヒトラーの思惑

世界恐慌以降、ダイムラー・ベンツはレース活動を停止していました。

時代は第二次世界大戦へと向かう最中、ドイツはヒトラー率いるナチス党が政権を握ります。ヒトラーはレースでの勝利によってドイツの国力をアピールできるとして、ダイムラー・ベンツとアウト・ウニオン(後のアウディ)のレース活動に多大な援助を行ないました。

メルセデス・ベンツ W25

その援助のもとでダイムラー・ベンツは当時の「750Kg規定」に合わせたフォーミュラカー「W25」を1934年に完成させ、グランプリレースへと参戦を開始します。

W25に搭載されたエンジンは「M25」と呼ばれ、3.36LのDOHC4バルブ、直列8気筒、スーパーチャージャー付きで354馬力を発生、1936年のシーズンまで使われたこのエンジンは最終的に排気量を4.74Lまで拡大して473馬力を発生しました。

高い戦闘力を誇ったW25は圧倒的な速さを見せ、ヒトラーの思惑通りにドイツ製の自動車の性能を他国に見せつけることに成功しました。1937年のシーズンは「750kg規程」の延長に伴い、次期「3L規定」用に開発していたシャーシに5.66LのM25系エンジンを搭載した「W125」を投入、やはり圧倒的な強さを見せました。

メルセデス・ベンツ W154

翌1938年からは本来の「3L規定」が適用され、排気量に制限がかけられました。ダイムラー・ベンツは3.0LのDOHC4バルブV型12気筒スーパーチャージャー付きエンジンを搭載した「W154」で参戦、この年も圧倒的とも言える速さを見せました。

1939年もW154の発展型となる「W163」の活躍によってダイムラー・ベンツは数々の勝利を得ましたが、このシーズンが第二次世界大戦前の最後のシーズンとなりました。

第二次世界大戦中にダイムラー・ベンツは、メッサーシュミット Bf110などに搭載された航空機用エンジン、DB600シリーズを製造します。

執筆者プロフィール
後藤 秀之
後藤 秀之
1970年代生まれ。バイクと自動車を中心にした趣味関係の書籍編集長を長年務めた後、フリーランスライターに。バイクと自動車以外にも、模型製作やレザークラフト 、ロードバイクや時計など男子の好む趣味一式を愛...

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