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「これぞ俺らのスーパーカー」ランボルギーニ カウンタックが16年のロングセラーになった理由【推し車】

華々しいスペックやデザインの裏で見逃しがちな話

ランボルギーニ カウンタックLP400(シャシーナンンバー0001)

1970年代のスーパーカーブームで日本の少年には大ウケ、平べったいボディに空気を切り裂くがごとき極端なウェッジ・シェイプ、リトラクタブルライトにシザースドア(当時は全部引っくるめて「ガルウイング」と言っていたような?)。

「やっぱスーパースポーツとはこうだよねぇ?」と思わせるカッコよさにあふれ、視界が悪くて実用性がないことなどどうでも良かった…何しろ欲しくたってほとんどの人は乗れません!…ランボルギーニ カウンタック。

1990年まで生産されたご長寿車だったので案外新しく、その後のランボルギーニ車へ独特なフォルムが受け継がれただけあって今でも古さを感じさせませんが、メーカーのランボルギーニにとってはけっこう大変な時期に生まれ、長らく看板車種であり続けました。

今回はスーパーカーとしてどうこうというより、カウンタックが生まれた背景や、当時のランボルギーニがどういう状況にあって、カウンタックをロングセラーにしたかなど、そのへんな話をしてみましょう。

案外商売にならないな?と短命で終わりかけたランボルギーニ

情熱とは無縁なアウトモービリ・ランボルギーニ創業史

部下を連れて出かけてもミネラルウォーターを1本しか買ってくれない「シビアな倹約家」フェルッチオ・ランボルギーニ

ランボルギーニといえば跳ね馬のフェラーリに対して猛牛のエンブレム、その昔、創業者のフェルッチオ・ランボルギーニが所有していたフェラーリの部品に自社(ランボルギーニ・トラットーリ)トラクターの部品が使われている事を知り、激昂。

抗議のためにマラネッロのフェラーリ本社へ押しかけたものの、門前払いを受けた悔しさから「いつかフェラーリを見返してやる!」とばかり、スーパーカーを作るアウトモービリ・ランボルギーニを設立した…という伝説が残るものの、実は全部ウソ。

実際のフェルッチオ・ランボルギーニはトラクターだけでなくボイラーや、ヘリコプター(これは成功しなかった)も作って大儲けしようという純然たるビジネスマンであり、クルマの運転にゃちょいと自信があったのは事実ですが、情熱とは対極的な人物。

フェルッチオとエンツォ・フェラーリ(フェラーリ創業者)の交友も後年のパーティで偶然会った程度らしく、要するにランボルギーニ車を宣伝するため、あるコトないコト吹いて回ったというのが真相だったようです。

ケチで堅実がゆえに、危うくミウラすら売らずに終わるとこだった

危うくこれ1台の出オチで終わるところだった市販第1号、ランボルギーニ 350GT

後にジャンパオロ・ダラーラやマルチェロ・ガンディーニなどとともに、カウンタックが開発する上で大きな役割を果たしたエンジニア、パオロ・スタンツァーニが、そのへん面白いエピソードを残しています。

ランボルギーニへの入社初日にフェルッチオに付き合わされたスタンツァーニですが、ピレリに寄ったかと思えば大声でまくし立てて営業担当をキリキリ舞いさせてタイヤの納入価格を値切りまくり、帰りも2人なのにミネラルウォーターを1本しか買ってくれなかったと。

よく言えば無駄遣いしない倹約家、ハッキリ言ってしまえばケチであるがゆえに財を成したフェルッチオですから、スーパーカーも儲けるためであり、フェラーリはただの商売ガタキ、金にもならないレースなどもってのほか…

そのため、ランボルギーニ初の市販車、350GTがソコソコ売れたとはいえ、案外儲からないと感じたフォルッチォは早々にアウトモービリ・ランボルギーニを畳みかけますが、市販第2号(ミウラ)を開発していた社員の説得で何とか事業の継続を決めるのでした。

当時、華々しくデビューしたかと思えば1台2台作って消えるメーカーなんてザラでしたから、ランボルギーニも危うくそのひとつになりかけたのです。

横置きミッドのミウラから縦置きミッドのカウンタックへ

ミッドシップならなんでもベストバランスにはならない

ミウラのV12横置きミッドシップはリアヘビー気味で、事故で失われた改造車のイオタもフロントが浮き気味だったという(画像はミウラP400SV)

その後、3.9リッターV12エンジンとミッションを横置きでミッドシップ配置したミウラが登場、大排気量ミッドシップスーパースポーツの先駆けですが、動力性能は素晴らしかったものの重量バランスがリア寄りとなり(※)、必ずしも理想的ではありませんでした。

(国産車では1990年代のオートザムAZ-1が同種の問題を抱えています)

レースをやるための資金稼ぎで市販車を売り、レースの名声で市販車を売るためレースと市販車に密接な関係があるフェラーリとは異なり、あくまで純粋な市販車の販売で勝負するランボルギーニにとって、ミウラのようなクルマはイメージリーダーに過ぎません。

しかしイスレロやエスパーダといった、販売の主力となるフロントエンジンGTを売るための看板車種としてミウラの後継が必要だったのも確かで、今度は思い切ってエンジンを縦置きするミッドシップスポーツの開発に着手しました。

シャシーやエンジン回りをダラーラ、ボディ回りをスタンツァーニが手掛ける形で製作が進み、デザインは当時ストラトスHFゼロ(ランチア ストラトスの原型)も手掛けていた、ベルトーネ時代のガンディーニが担当という、そうそうたる面々です。

エンジン縦置きでも横置きよりホイールベースを短縮できる不思議

縦置きでもミウラより50mmほどホイールベースを短縮できたカウンタック(画像はLP400)

問題はミウラで横置きだったエンジンを単純に縦置きすると、キャビン後方のエンジンが長すぎてホイールベースも全長も伸び、運動性能に悪影響を及ぼすことでしたが、エンジン前方に配したミッションから駆動軸を後ろへ伸ばす方式でホイールベース短縮に成功。

エンジン側面にはラジエーターや燃料タンクを配置した結果、前後オーバーハングの重量物はフロントのスペアタイヤなどかなり限定的で旋回性能の向上へ大きく寄与したほか、前方配置のミッションはドライバーに近く、ダイレクトなシフトフィールも特徴となりました。

「カウンタック」という車名はストライキの産物

ピエモンテの農夫が納屋で作られていたスーパーカーに驚き、叫んだ言葉が「クンタッチ!」、後に日本では英文字のつづりからか、「カウンタック」と呼ばれる

1971年3月のジュネーブショーで発表すべく製作していた試作車(プロトティーポ)LP500ですが、折悪しくランボルギーニとベルトーネ双方で従業員がストライキを起こし、仕方なくベルトーネ本社近くの納屋で最終仕上げをしていると、地元の農夫に見つかります。

農夫は現地の方言で「クンタッチ(驚いた)!」と叫び、それがそのまま車名となりました。

どのように伝わって変わったかは不明ですが、日本名「カウンタック」の誕生です。

これが日本だったら、スーパーカー「たまげた」では激安スーパーみたいですし(それは「玉出」)、「じぇじぇじぇ」ではワケがわかりませんし、カウンタックはイタリア生まれで幸いでした。

華やかなランボルギーニ発表と裏腹に、苦境のランボルギーニ

不穏な社会情勢、オイルショック、創業者フェルッチオの隠居、経営危機、倒産と逆風をついてカウンタックの生産は続いた(画像はLP400S)

しかしその頃のランボルギーニ、より正確に言えばフェルッチオ・ランボルギーニ氏が経営する企業群は深刻な危機に見舞われていました。

この頃のイタリア経済は、高度経済成長に冷水を浴びせた「熱い秋」と呼ばれる労働者の大規模なストライキで混乱(おかげで「カウンタック」の名前は決まったが)していたうえに、1971年には南米のボリビア政変でランボルギーニのトラクター大量発注も御破算。

さらに1970年のマスキー法で対米輸出が行き詰まり、1974年には第一次オイルショックとスーパーカーにも逆風が吹き荒れると、いい加減嫌気が刺したフェルッチオはランボルギーニ・アウトモビリの株式を手放し、さっさと隠居してしまいました。

その後もランボルギーニはBMWから開発を請け負った「M1」の生産が停滞、1978年に同社からの提携を解消されると資金繰りが行き詰まり、そのまま倒産してしまったのです。

幸い、イタリア政府の管理下で再建が進み、クライスラーなど幾度かの転売を経て1999年以降はフォルクスワーゲン・グループ入り(アウディ傘下)で収まりますが、カウンタックを開発、市販にこぎつけ改良を重ねていた裏で、ランボルギーニはもう滅茶苦茶でした。

最高速度300km/hより大事だった「内製化」

300km/hも出るワケない

最良の条件下で298km/hを記録、ノーマルのカウンタック最速だったと言われる5000QV(クワトロバルボーレ)

日本でスーパーカーの熱狂的なブームがあった頃、「ランボルギーニはミウラもカウンタックも最高速度300km/hだ!そしてフェラーリはそれに対抗したミッドシップスーパーカーの365GT4BBで302km/hだ!スゴイ!」なんて騒がれていましたが。

それはあくまで「言ったもん勝ちの公称スペックによるプロレス」でしかなく、ロクに空力パーツもつけず、デュフューザーやアンダーパネルで車体と路面の間の空気を整流するでもないクルマが、ダウンフォースでのトラクションや高速安定性を稼げません。

駆動輪が浮いてトラクションは抜ける、高速安定性が悪くて踏めない、リアにウイングをつけると今度はフロントが浮いて…というアンバイですし、マトモな電子制御デバイスもないエンジンは、よほど機嫌のいい条件でなければカタログパワーも出ず。

カウンタックでも末期の5000QVが最良の条件下で298km/hを記録したのが最高と言われており、エンジンや空力のチューニングを施さない限り、スーパーカーブームで騒がれた300km/hなど出るはずありません。

どのみち試せる人なんてそうそういませんから、当時は無邪気にはしゃいでいて全く問題ありませんでしたが。

少量生産のスーパーカーだからこそ続けられた

1988年に発表、1990年まで生産されたカウンタック最終モデル、25thアニバーサリー

それより大事だったのは「創業者が出ていってしまったランボルギーニが、倒産しながらもカウンタックの改良、生産を続けられたこと」です。

シルエットやウラッコといったミッドシップの「ベビーランボ」や、エスパーダのようなフロントエンジンGTが、1978年に倒産した頃に相次ぎ生産終了した中でも、カウンタックの生産だけは続けられています。

これが大衆車メーカーならさっさとどこか大メーカーの傘下入り、その支援で再建計画を進め、金食い虫のイメージリーダーなどリストラしてしまうところですが、ランボルギーニではそうはならず、カウンタックの生産は続きました。

これはプロトティーポから量産モデルへ移行する段階で、工程の多くをランボルギーニ社内で職人が手作業で作る内製化で賄っていたからで、多額の投資で生産ラインの新設や維持を考えなくともよかったのが幸いし、細々とでも生産を継続できたのです。

それだけでなく、熱心なランボルギーニマニアだったカナダの石油王、ウォルター・ウルフの資金で、スペシャルモデルの「ウルフカウンタック」を作るついでにエンジンを大排気量化(ミウラと同じ3.9リッターから4.8リッター、最終的には5.2リッター)もできました。

「金はないけど、何となく潰れずに済んでしまったランボルギーニ」の象徴として生産が続けられたカウンタックは、開発が遅れていた後継車、ディアブロまでのつなぎとして1988年にランボルギーニ創立25周年記念モデル「25thアニバーサリー」まで発売。

これが1990年まで生産された結果、カウンタックは16年にも渡るロングセラーとなりました。

伝説をリメイクした、新たな「カウンタックLPI800-4」

アヴェンダドールをベースにセルフリメイクされたカンタックLPI800-4と、奥は1971年に発表されたカウンタックLP500プロトティーポ

カウンタックの後も、ランボルギーニはディアブロ、ムルシエラゴ、アヴェンタドール、ハイブリッド化された最新のレヴェルトまで、大排気量V12自然吸気エンジン、シザーズドア、ウェッジシェイプデザインという伝統を守り抜いています。

そのクライマックスとなったのは、1971年のジュネーブショーでカウンタックLP500プロティーポ発表から50周年を記念した「カウンタックLPI800-4」で、アヴェンタドールをベースに、カウンタック風のデザインを施したセルフリメイク。

カウンタックの開発コードLP112にちなんだ112台が限定販売され、波乱万丈のロングセラー、カウンタックの歴史へ新たな1ページを加えました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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