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【ミハエル・シューマッハ 事故後の現在は】F1皇帝の栄光と愛車や悲劇の記録
目次
ミハエル・シューマッハ 皇帝と呼ばれたF1レーサー
ミハエル・シューマッハは、最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な記録を塗り替える戦績を残したF1レーサーです。
特に日本では、ドライビングテクニックの正確無比さから、「ターミネーター」、「サイボーグ」などのニックネームで知られていました。
これらのニックネームには、もちろん第一にはシューマッハのドライビングテクニックに対する賞賛がこめられています。
その一方で、シューマッハの冷徹なまでに勝利を追求する姿勢への批判や揶揄が含まれているようにも思えます。
史上最高の戦績を残したF1レーサー、ミハエル・シューマッハの栄光と愛車、そして悲劇の事故後の現在についてご紹介します。
ミハエル・シューマッハとは
ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオン
ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher) 1969年1月3日生まれのドイツ人です。
ドイツ人としては初めてF1ドライバーズチャンピオンとなり、6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハも、ウィリアムズなどに所属し、6勝を挙げた元F1ドライバーでした。
最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な記録を更新するという華々しい戦績を誇る、名レーサーです。
シューマッハとはどんな人物か
姓を縮めたシューミー(Schumi)、ミハエルの英語読みのマイケルという愛称の他に、その冷徹で正確無比のドライビングから「サイボーグ」、日本では「ターミネーター」と呼ばれた時期もあります。
また、フジテレビのF1中継番組が、当時フェラーリに在籍していたシューマッハに、フェラーリのイメージカラーをかけて「赤い皇帝」という異名をつけました。
これらのニックネームが示すように、シューマッハは戦績やテクニックを賞賛される傍ら、無謀すぎるドライビングや強引な現役復帰で物議をかもし、多くの批判を受けていました。シューマッハには、どこかアンチヒーローの印象がつきまとっていました。
シューマッハ F1への道のり
【シューマッハ F1への道のり】 レースとの出会いはわずか4歳
ケルン近郊のフュルト・ヘルミュールハイムで、煉瓦職人の子として生まれたシューマッハは、4歳のとき父に贈られた「原動機付きペダルカー」に夢中になります。
やがて“愛車”で路上を走るミハエルが電柱に衝突したことを機に、心配した父はミハエルをカート場に連れて行きます。
こうして、ミハエル・シューマッハは、レースの世界に出会いました。その後、父がカート場の管理人とレンタルカート屋の職につき、母はカート場の軽食スタンドで働くようになり、ミハエルはますますカートの世界へと踏みこんでいきます。
【シューマッハ F1への道のり】カートレース時代
ご存じのようにモータースポーツはお金のかかるスポーツです。カートレースと言えど、例外ではありません。
シューマッハの家庭は息子にカートレースをさせるほどに裕福ではなく、使い古しのタイヤを拾って使ったこともあったそうです。
そのような環境でもシューマッハがレースを続けることができたのは、恩師ユルゲン・ディルク(後のファンクラブ会長)の支援や、充分とは言えない装備もハンデとならないほどのシューマッハ自身の才能と不屈の闘志があったからと言えるでしょう。
1983年(14歳) | ドイツ国内のカートライセンス取得 |
1984年(15歳) | ドイツ・ジュニア・カートチャンピオン |
1985年(16歳) | ドイツ・ジュニア・カートチャンピオン |
1987年(18歳) | カートチャンピオン(ドイツ) |
カートチャンピオン(ヨーロッパ) |
【シューマッハ F1への道のり】F3000レース時代
中学卒業後、シューマッハはレースを続けるために自動車販売店に入社し、整備士の資格を取得します。
1988年(19歳)でジュニアフォーミュラに昇格したシューマッハは、WTSレーシングのオーナー、ウィリー・ウェーバーの目に留まり、マネージメント契約を結び、本格的にレーサーの道を歩み始めました。
F3デビュー後も着実に勝利を重ね、国際レースでも連続優勝して頭角を現します。
1989年(20歳) | ドイツF3 | 3位(2勝、チャンピオンと1ポイント差) |
1990年(21歳) | ドイツF3 | チャンピオン(5勝) |
マカオGP | ||
インターF3リーグ(富士) |
その結果、メルセデス・ベンツが若手育成のために立ち上げたメルセデス・ジュニアチームに選出され、1990年に世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC)、1991年にスポーツカー世界選手権 (SWC) に出場することになります。
1990年(21歳) | ドライバーズ選手権5位 | メキシコ優勝 |
1991年(22歳) | ドライバーズ選手権9位 | ル・マン24時間5位、オートポリス優勝 |
全日本F3000第6戦・菅生 | 2位 |
ミハエル・シューマッハ F1の舞台へ
1991年 F1初参戦 ジョーダン所属
シューマッハは、刑事事件を起こしたジョーダンチームのドライバー、ベルトラン・ガショーの代役として、第11戦ベルギーGPに同チームからF1に初参戦します。
F1デビュー戦ながら、難コースとして定評のあるスパ・フランコルシャンで予選7位を獲得、決勝では0周リタイアに終わったものの大型ルーキーとして注目され、シューマッハのベネトン加入が決定しました。
これに対してジョーダン訴訟を起こしますが、最終的にロベルト・モレノとシューマッハのトレードで移籍が成立します。
この騒動が国際自動車連盟(FIA)の契約承認委員会 (Contracts Recognition Board,CRB) 設立につながります。
駆け出しの時代から騒動の引き金になるというのは、シューマッハのずば抜けた才能のなせる業とも思えます。
1992~1995年 ベネトン所属
移籍後初のイタリアGP5位で初ポイントを獲得、続く第2戦も6位入賞と活躍を続けますが、第15戦日本GP予選では大クラッシュを起こします。
この後も何事もなくレースを続けていますが、実は脊椎の数箇所を損傷していたことが数年後の検査で判明しました。
1992年(23歳)ランキング3位、1993年(24歳)ランキング4位とキャリアを重ね、1994年にシューマッハはF1ドライバーの頂点に到達します。
1994年(25歳) | ブラジルGP | 優勝 |
パシフィックGP | 優勝 | |
サンマリノGP | 優勝 | |
モナコGP | 優勝(ポールポジション) | |
スペインGP | 2位 | |
カナダGP | 優勝 | |
フランスGP | 優勝 | |
ハンガリーGP | 優勝 | |
ヨーロッパGP | 優勝 | |
ヨーロッパGP | 優勝 | |
ドライバーズチャンピオン | ||
1995年(26歳) | シーズン17戦中9勝 | |
ドライバーズチャンピオン | 2年連続 | |
シーズン最多勝記録 |
1994年、開幕戦ブラジルGPを制した勢いで、破竹の開幕4連勝を達成したシューマッハは、前半8戦中6勝して、ランキング2位のデイモン・ヒルに37ポイントの大差をつけました。
その年のチャンピオン最有力候補と目されていたアイルトン・セナは第3戦サンマリノGPで事故死を遂げました。
シューマッハが後半戦では多くのペナルティを受け、タイトル争いはシューマッハの1ポイントリードで最終戦オーストラリアGPまでもつれこみ、シューマッハは辛くもドライバーズタイトルを獲得します。
そして、翌1995年もシーズン17戦中9勝を挙げ、シーズン最多勝記録(1992年マンセル)に並び、2年連続のドライバーズチャンピオンに輝きます。
栄光と批判が交錯した1994年、1995年
2年連続でドライバーズタイトル、シーズン最多勝記録を手にした1994年、1995年、シューマッハにとって輝かしい年であると共に、暗い影を落とした年でもあります。
イギリスGP失格と2レース出場停止の痛手
1994年のイギリスGPでは、ピットインを指示する黒旗に従わず、25,000ドルの罰金が課され、さらにFIAの世界モータースポーツ評議会により、イギリスGPの失格と続く2レースの出場停止、ベネトンチームに対する50万ドルの罰金を課されました。
ベネトンの不服申し立てにより、聴聞会までの3レース(ドイツGP、ハンガリーGP、ベルギーGP)への参戦が認められますが、ベルギーGPでは1位でゴールしたものの、スキッドブロックの規定違反による失格という結果に終わりました。
その後の聴聞会の裁定により、イギリスGPの失格と2レースの出場停止が適用されました。タイトル争いがもつれこんだ最終戦オーストラリアGPは両者が接触し、共にリタイアという結果に終わり、シューマッハは初のドライバーズタイトルを手にします。
因縁のライバル?
この接触がシューマッハの故意によるものではないかという声があがり、物議を醸しました。
イギリスGPの36週目、先行していたシューマッハがインサイドを突いたヒルのラインにアウト側から被せ、コーナリング中に両者が接触しました。ヒルの左前輪に乗り上げたシューマッハのマシンは浮き上がってタイヤバリアに激突、リタイアとなります。
しかし、ヒルのマシンも接触の影響で左フロントタイヤがパンク、左フロントサスペンションのアッパーアームも破損したためリタイアという結果になります。
1995年にも、イギリスGP、イタリアGPの2回に渡ってヒルとの接触で両者リタイアという結果になっています。
ベルギーGPでも優勝したものの、ヒルへのブロックに対して執行猶予付き出場停止処分を受けています。
シューマッハにとって、ヒルはまさに因縁のライバルだったのですね。
シューマッハの時代 フェラーリ所属
1996年 フェラーリ移籍
1996年、前年シーズン半ばでベネトンとの契約更新をしないことを表明していたシューマッハは、長くタイトルから遠ざかっていた名門フェラーリに、カーナンバー「1」を引っ下げて移籍します。
信頼性に欠けるマシンに苦しみ、チャンピオンシップに絡むことはできませんでしたが、フェラーリにとって8年ぶりとなる、移籍当初に目標として掲げた3回の優勝を果たします。
1997年(28歳) ドライバーズランキング抹消
ベネトンから移籍したロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)の力で、戦略のレベルアップとマシン開発を進めた結果、シーズン5勝をあげ、2位のヴィルヌーヴを1ポイントリードして最終戦ヨーロッパGPに臨みます。
タイトルがかかるこのレースで、タイトルを競うヴィルヌーヴと接触、コース外にはじき出されてリタイアとなり、ヴィルヌーブに逆転されてタイトルを逃します。
この時のブロックをFIAはシューマッハの重大な過失と判定、1997年のチャンピオンシップからシューマッハを除外、ドライバーズランキング2位も抹消されるという不名誉な結果となりました。
1998年(29歳)2年連続タイトルを逃す
フェラーリの「王座奪回」を賭けた1998年は、マシン性能やチームとパートナー(エディ・アーバイン)のバックアップにより、シューマッハは順調にポイントを上げ、首位のハッキネンと熾烈な争いを展開します、、
しかし、第15戦ルクセンブルクGP、最終戦日本GPと連続してハッキネンに逆転優勝を許し、2年連続最終戦でタイトルを逃します。
1999年(30歳)キャリア初の負傷欠場からサポートへ
リードしてシーズン第6戦カナダGPでリタイアし、ハッキネンから8ポイントのビハインドとなって、第8戦イギリスGPを迎えました。
スタートで出遅れていたたシューマッハは、ストウ・コーナーへのアプローチで減速できず、コース外のタイヤバリアに突っこみます。モノコック内部に足を強打、右足の脛骨と腓骨の骨折により、シューマッハのキャリア初めての負傷欠場となりました。
後に、フェラーリは事故原因を「リアブレーキキャリパーのトラブル」と発表していますが、ブラックボックスの記録では、衝突時の速度は107km/h、マシンには瞬間的に50Gが懸かっていたそうです。
シューマッハ自身も「(今自分が)生きていられるのは幸運」と語ったほどの大事故でした。
6レース欠場した第15戦マレーシアGPから、シューマッハは「セカンド(ナンバー2)ドライバー」として復帰し、自身の代役としてドライバーズタイトルを競うことになったアーバインをサポートします。
アーバインのタイトル獲得はなりませんでしたが、1983年以来となる、フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得には貢献しました。
2000年(31歳)チャンピオンシップ奪還
開幕3連勝を含めて8戦5勝のハイペースでポイントリードを築くも、第9戦以降3連続リタイアを喫し、ハッキネンとの熾烈なタイトル争いとなります。
第16戦日本GPでのマッチレースを制して、シューマッハ自身としては3度目、フェラーリ在籍ドライバーとしては実に21年ぶりのドライバーズタイトルを獲得しました。
イタリアGPで41勝目を挙げ、セナの勝利数に並びます。
円熟を迎えたシューマッハ
2001年の開幕戦の共同記者会見でシューマッハは、GPドライバーとして自身が成長することはないと語り、今後の勝利は自分自身の成長ではなく、フェラーリの進化、成長を意味すると発言しています。
ドライバーとして円熟期を迎えたシューマッハは、2001年、2002年と圧倒的な強さを見せます。
特に2002年は一度のリタイアもなく、全レースで表彰台に登るという快挙を成し遂げ、7戦を残してチャンピオンを決定しています。
2001年(32歳) | F1最多ポイント | 798.5ポイント |
最多ファステストラップ | 41回 | |
最多勝記録 | 51勝 | |
ドライバーズチャンピオン | 4回目 | |
カナダGP 兄弟1-2 | 1位:弟ラルフ、2位:兄ミハエル | |
2002年(33歳) | ドライバーズチャンピオン | 5回目 |
シーズン最多勝記録 | 17戦中優勝11回 | |
2003年(34歳) | ドライバーズチャンピオン | 6回目、4年連続 |
通算1,000ポイント獲得 | F1史上初 | |
2004年(35歳) | ドライバーズチャンピオン | 7回目、5年連続 |
シーズン最多勝記録 | 全18戦中13勝 | |
鈴鹿GP 兄弟1-2 | 1位:兄ミハエル、2位:弟ラルフ |
引退へ
シューマッハ36歳となった2005年は、新レギュレーション対応のマシンとタイヤがうまく機能せず、苦戦の年となりました。
優勝はおろか表彰台にも上がれないレースが続き、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPでの1勝のみに終わり、チャンピオンの座をアロンソに明け渡します。
2006年には、開幕戦バーレーンGPはポール・トゥ・ウィンのシーズン初優勝を飾ります。
シーズン終盤に向け、前年王者アロンソとのポイントを詰めていた第15戦イタリアGP後、の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明しました。
続く第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、F1における最後の勝利(91勝目)となりました。
F1復帰と2度目の引退
2007年~2009年 F1引退後
引退後はアドバイザー立場でフェラーリのF1に関わる他、ヨーロッパGPのプレゼンターや母国ドイツのフランクフルトモーターショーなどにスに登場し、注目を集めました。
スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗ったことを機に2輪レースに対する興味を持ち、2008年3月にイタリアのマイナーレースでデビュー(4位入賞)を果たします。
同年5月にもドイツ国内のスーパーバイク選手権に参戦、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わりました。
2007年11月、12月にテストドライバーとして、約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握り、2日連続でトップタイムをマークして関係者を驚かせました。
その後も、テストドライバーとしてたびたびF2008に乗っていました。2007年のシーズンオフにはカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たしています。
2009年には、ハンガリーGP公式予選走行中に負傷したフェリペ・マッサに代わってヨーロッパGPからF1に復帰すると発表されますが、バイクレースで転倒した際の負傷のために、ドクターストップが掛かり復帰を断念しました。
2010年~2012年 F1復帰 メルセデス所属
2009年12月23日、シューマッハがメルセデスと3年契約を結び、メルセデス・グランプリからF1に復帰することが発表されました。
2010年の開幕戦から不振が続き、「シューマッハは解雇されるべき」と言う声が各所からあがります。しかし、シューマッハ自身は折れることなく、自らを信じて走り続けていました。
第16戦日本GP決勝でようやく非凡な走りが見られ、復活の兆しを見せましたが、続くレースでも結果は残せず、シューマッハのF1におけるキャリア初の未勝利及び未表彰台に終わります。72ポイント、ランキング9位という、周囲の期待を裏切る結果となりました。
2011年、2012年もめぼしいレースはなく、時折、シューマッハらしい走りが垣間見えるものの、表彰台に上がることはありませんでした。
凡ミスによる接触やミスモチベーションの低下をもらす発言などでファンを失望させる場面もありました。
やがて、シリーズ終盤の第15戦日本GPで、2012年末をもって2度目の引退をすると発表しました。2度目の引退レースとなった最終戦ブラジルGPで、7位入賞を果たし、最後を飾りました。
ミハエル・シューマッハを襲ったスキー事故
事故の詳細
2013年12月29日、フランス・グルノーブルのメリベル・リゾートをスキーを楽しんでいたシューマッハは、ゲレンデ外を滑走中に転倒、岩に頭部を強打します。
その時のスピードは時速20km程度だったと言われていますが、着けていたヘルメットが割れるほどの衝撃だったそうです。
緊急搬送された地元の病院で検査したところ、脳挫傷と脳浮腫などが発見されました。シューマッハは、脳外科の専門チームが待つグルノーブル大学付属病院に搬送されます。
シューマッハは2度に渡る手術を経て、危機的な状況を脱し、回復を待つための人工的なこん睡状態に置かれることになります。
こうした処置は、術後の状態が安定する2~3週間程度が一般的であり、シューマッハの場合も容態が安定するまでとされていました。
事故からほぼ1ヶ月後の2014年1月30日、シューマッハの主治医から、昏睡状態から覚醒させるという発表がありました。
3月には自力で呼吸できるようになり、4月にはようやく意識を回復し、会話に反応できるようになったという朗報が届きました。
その後、6月15日にリハビリのためスイスのローザンヌ大学病院に転院、同年11月19日にようやくジュネーブの自宅に戻ることができたと報じられました。
シューマッハ事故後 現在の容態
現在、シューマッハはジュネーブの自宅で静養とリバビリを続けているとされています。シューマッハのプライバシーは家族の意向で厳重に守られ、現在の容態などの続報が報道されることはありません。
2016年11月にベネトン、フェラーリで、シューマッハとチームを組んだロス・ブラウンが、シューマッハの容態について「憶測が飛び交っているがほとんどは間違い」とコメントしています。
これもシューマッハの家族の心情やプライバシーを尊重して、心無い報道を抑止する意図があっての言葉だと思われます。
現在は、実業家でもあるコリーナ夫人と2人の子供たちが闘病するシューマッハを支えています。最先端の治療に必要な費用を捻出するため、ノルウェーの豪邸や自家用ジェット、シューマッハの愛車フェラーリF2000などを売却したという報道もありました。
ミハエル・シューマッハの愛車
サーキットではF1マシンを手足のように操っていたシューマッハは、プライベートではどんな車を乗っていたのでしょう。シューマッハの愛車をご紹介します。
フェラーリ カリフォルニア
フェラーリ カリフォルニアは、フェラーリ初のクーペ・カブリオレ2プラス2シートのモデルとして、2008年に発表されました。
乗車定員 | 4名 |
エンジン | 3,855 cc V8 DOHC (ツインターボ搭載) |
駆動方式 | FR |
最高出力 | 560 PS/7,500 rpm |
最大トルク | 755 Nm/4,750 rpm |
変速機 | 7速 + リバース F1 (パドル・シフト) DCT方式 |
車両サイズ | 全長/4,570 mm、全幅/1,910 mm、全高/1,322 mm |
車両重量 | 1,625 kg (乾燥時) |
最高速度 | 316 km/h |
フェラーリ エンツォ・フェラーリ
エンツォフェラーリ(Enzo Ferrari )はフェラーリ創業55周年を記念して製造、販売されました。 F40、F50に続く記念碑的な限定生産車種です。
デザイン | 奥山清行 |
乗車定員 | 2名 |
エンジン | Tipo F140B型 5,998cc V型12気筒DOHC VVT |
駆動方式 | MR |
最高出力 | 485kW(660PS)/7,800rpm |
最大トルク | 657Nm(67kgfm)/5,500rpm |
変速機 | 6速セミAT(F1マチック) |
車両サイズ | 全長/4,702mm、全幅/2,035mm、全高/1,147mm |
車両重量 | 1,255kg(乾燥重量) 1,365kg |
サスペンション | 前後:ダブルウィッシュボーン |
ブガッティ EB110SS
EB110GTは、1991年、ブガッティの創立者エットーレ・ブガッティの生誕110年を記念して発表されました。車名はエットーレ・ブガッティのイニシャルEBと生誕110年に由来しています。
乗車定員 | 2名 |
エンジン | 3.5L V12 クワッドターボ |
駆動方式 | 4WD(エンジンはミッド縦置) |
最高出力 | 560PS/8,000rpm(GT) 611PS/8,000rpm(SS) |
最大トルク | 657Nm(67kgfm)/5,500rpm |
変速機 | 6速MT |
車両サイズ | 全長/4,400mm、全幅/1,960mm、/全高/1,125mm |
車両重量 | 1,620kg(GT) 1,570kg(SS) |
0-100km/h加速 | 3.46秒(GT) 3.26秒(SS) |
最高速度 | 342km/h(GT) 355km/h(SS) |
ハーレーVRSCファミリー
シューマッハは大変なバイク好きとしても知られています。
ハーレー・ダビッドソンは、フェラーリレッドのシューマッハ仕様の特別モデルを発売したことがあります。シューマッハが、4度目のドライバーズタイトルを獲得した時の勝利数にちなんで、51台限定で生産されました。
シューマッハの愛車である、ハーレーVRSCファミリーは、ハーレーダビッドソン唯一の水冷DOHCエンジン搭載車として登場したバイクです。
エンジン | Revolution型 1,131cm3 水冷4ストローク DOHC4バルブV型2気筒 |
最大トルク | 10.2kg・m / 7,000rpm |
シューマッハの回復を祈っています
F1レーサー ミハエル・シューマッハについてまとめました。
同時期に活躍し、悲劇的な事故死を遂げたアイルトン・セナと比較すると、シューマッハには常に賞賛と批判が合い混ざった視線が向けられてきたように思います。
個人的には、精密機械に例えられるスタイルと勝利のためなら手段を選ばない姿勢の裏側には、シューマッハの不器用さが隠されているように思えて、もっとも好きなレーサーです。
批判を浴びた強引な現役復帰も、シューマッハという人はサーキット以外に生きる場所を見つけられない人なのだろうと思い、心から応援しました。
あの事故から3年、ひとりのファンとしてシューマッハの回復を祈っています。
- 執筆者プロフィール
- MOBY編集部
- 新型車予想や車選びのお役立ち記事、車や免許にまつわる豆知識、カーライフの困りごとを解決する方法など、自動車に関する様々な情報を発信。普段クルマは乗るだけ・使うだけのユーザーや、あまりクルマに興味が...