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伝説のF1レーサー アイルトン・セナの死因は?事故の真相や名言、「セナ足」についても

天才F1レーサー「アイルトン・セナ」の生涯(1960年~1994年)

アイルトン・セナの生い立ち

マクラーレンホンダV10エンジン
パイロット、アイルトン・セナ pic.twitter.com/Q90EjC89ek— ウメちゃん。ABSラジオリスナー (@november62161) 2017年2月24日

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)は、1960年ブラジル・サンパウロで農場や整備工場を営む家庭の長男として誕生しました。

家庭は裕福で、4歳の時には、父お手製のカートがプレゼントされるなど、幼少期から車に触れる機会に恵まれていたようです。8歳の時には、父のジープをいとも簡単に運転してしまうなど、天性のカーセンスを感じさせる逸話が残っています。

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アイルトン・セナ「カートレース・ジュニアフォーミュラー時代」

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アイルトン・セナの車への情熱はその後も輝きを増し、13歳からはカートレースの虜となります。

17歳では、南米カート選手権のチャンピオンに登りつめ、次なるステップを見据えイギリスへと渡る決意を固めます。

アイルトン・セナ21歳の時には、フォーミュラーフォード1600に参戦し、ここでも非凡な才能を発揮させ優勝を果たしました。

この後、家族の反対で、一時ブラジルに帰国しますが、レースへの情熱が捨てきれず、再度イギリスへ戻ることとなります。そして、22歳でフォーミュラーフォード2000へ参戦し、ここでも チャンピオン の座を射止めることとなりました。

アイルトン・セナ「F3時代」

On this day in 1982, Ayrton Senna won on his F3 debut. pic.twitter.com/c98GbsbARf— WTF1 (@wtf1official) 2014年11月11日

23歳になったアイルトン・セナは、F1への登竜門となるF3に参戦します。誰もが皆、F1へのステップとしてしのぎを削るこの階級で、アイルトン・セナは開幕から9連勝を果たします。

初めてF3参戦したその年は、なんと20戦中12勝、年間チャンピオンの栄光を手に入れました。

数ある有望ドライバーの中でも、その才能は抜きんでていて、F3在籍一年で、カーレースの最高峰F1へと駆け抜けていくのです。

アイルトン・セナ「F1・トールマン時代」

Ayrton Senna – Toleman Hart pic.twitter.com/KAusrT0vBz— Formula1 Geek (@FormulaOneGeek) 2017年2月19日

24歳で、レースに関わる誰もが夢とするF1に参戦したアイルトン・セナ、数あるオファーの中から彼が選択したチームは、決して有力ではなかった「トールマン」でした。

誰もが意外に感じたこのトールマン入りは、当時アイルトン・セナ獲得の最有力とされた「ブラバム」のファースト・ドライバー「ネルソン・ピケ」がセナ入りを嫌がったことが原因とされています。

トールマンでは、非力マシーンにも関わらず、雨のモナコGPで、後の永遠のライバル「アラン・プロスト」を一周毎に追い詰める激走を見せました。

アイルトン・セナ「F1・ロータス時代」

Ayrton Senna – Lotus Honda 1987 pic.twitter.com/vTqKnJzmEw— Ayrton & Bruno Senna (@AyrtonBruno12) 2017年3月1日

25歳となったアイルトン・セナは、F1の名門チーム「ロータス」入りを果たします。

ロータスでは、2戦目のポルトガルGPで、自身初となるPP(ポールポジション)をつかみ、優勝を獲得します。

激しい雨というコンディションの中、3位以下を全て周回遅れとしたこのポルトガルGPの激走で、彼は「レイン・マスター」という称号を不動のものとするのです。

また、27歳の時には、ロータスのエンジンが念願の「ホンダ・エンジン」となり、「中嶋悟」がチームメイトとなりました。日本GPでは、2位フィニッシュを果たし、ホンダ・エンジンに初となる母国での表彰台という栄誉をもたらしたのです。

アイルトン・セナ「F1・マクラーレン時代」

Monaco 92 : Ayrton Senna
You can feel the speed @ayrtonsenna @McLarenF1 pic.twitter.com/JQvLumOmHA— ZivKnollF1 (@zivknoll) 2017年2月5日

28歳で、マクラーレンに移籍したアイルトン・セナは、因縁のライバル「アラン・プロスト」とチームメイトとなります。

赤と白ツートンカラーのシャーシには、ホンダ・エンジンが搭載され、当時の日本のF1ファンの間では、日の丸カラーのシャーシで、アイルトン・セナが奏でるホンダ・サウンドが聞けると、感動を呼んだものです。

しかし、天才ドライバー2人のライバル対決は熾烈をきわめ、2人の成績よりも深刻化していきます。

ついにプロストはフェラーリに移籍し、アイルトン・セナは2年連続チャンピョンに輝くこととなりました。

また、31歳では、それまで一度も達成できずにいた母国ブラジルGPで初優勝を果たし、ゴールした後号泣したアイルトン・セナの姿は、ファンの人々に感動をもたらしました。

アイルトン・セナ「F1・ウィリアムズ時代」

Ayrton Senna – Williams Renault 1994 – Pacific pic.twitter.com/4NuPafZewR— Ayrton & Bruno Senna (@AyrtonBruno12) 2017年2月28日

F1が、よりいっそうハイテク化の波にさらされ、本田総一郎氏の死去に伴いホンダがF1撤退を発表する中、34歳のアイルトン・セナはウィリアムズに移籍します。

当初、これでアイルトン・セナの常勝は決定的だと評されますが、あまりのハイテク化に歯止めがかけられるルール変更が実施され、アイルトン・セナの前には暗雲が立ち込めます。

ルール変更は、前年のF1覇者ウィリアムズのマシン設定を不安定なものとしてしまい、アイルトン・セナは、開幕から2戦とも途中リタイアとなってしまうのです。

そして、運命の第3戦サンマリノGP、レース途中でアイルトン・セナは突然ファンの前から姿を消してしまいました。

アイルトン・セナの性格は?どんな素顔だったのか

©AHMAD FAIZAL YAHYA/stock.adobe.com

アイルトン・セナの性格は「神経質で内向的」との見方をされるケースが多かったようですが、内には熱い闘志を秘めており、数々のライバルと激しいトップ争いを演じていました。

同年代にF1で活躍したアラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルなどのドライバーチーム時代のチームメイトでもあり、三重県・鈴鹿サーキットで開催された日本GPではチャンピオン争いを巡ってクラッシュを引き起こすなど、ファンへの印象を強く残しているでしょう。

しかし、熱い闘志だけでなく、ライバル以外のチームメイトや同郷の後輩など、ドライバーたちと良好な関係を築いていました。

マクラーレンチームに所属していた後期のチームメイトだったゲルハルト・ベルガーとは、“ホンダエンジン黄金期”をいっしょに築き上げます。

同じブラジル出身のドライバー、マウリシオ・グージェルミンとルーベンス・バリチェロも大切な後輩として扱っており、ルーベンス・バリチェロが1994年F1第3戦サンマリノGPでクラッシュを起こした際、入院先まで訪れ、意識が回復するまで付き添ったというエピソードがあったそうです。

亡くなるまでのキャリア後半では、F1でも新人から若手にあたるドライバーにもアドバイスや提言を行い、セナ亡きあとに7度のF1チャンピオンを獲得したドイツ人ドライバー、ミハエル・シューマッハにも影響を与えたとされています。

アイルトン・セナの最大の武器「セナ足」とは?

Ayrton Senna – McLaren Honda 1988 pic.twitter.com/IJkfm9gcsq— AutoSports Art (@AutoSportsArt) 2017年3月1日

現在のF1レースで使用される車は、最先端の電子デバイスが搭載され、ドライバーがアクセルを踏みすぎてもホイルスピンにつながらないように自動制御してくれるTCS(トラクション・コントロール)が許されています。

しかし、アイルトン・セナがF1に参戦していた1980年後半から1990年には、TCSは許可されておらず、アクセルのコントロールは、ドライバー自らが足でコントロールする必要がありました。

アイルトン・セナは、この足さばきがまさに神がかっていて、グリップだけでなく、細かくアクセルを足でオン・オフすることで、コーナリングのエンジン回数を保ったり、車の向きを保ったり、トルク落ちを防いだりすることができたのです。

いつしか、このアイルトン・セナにしか行うことができない足さばきは、「セナ足」と呼ばれ、「レインマスター」「音速の貴公子」とともに、天才F1カーレーサー「アイルトン・セナ」への称号となっていったのです。

アイルトン・セナの事故と死因の真相

Un video inédito sobre la muerte de Ayrton Senna conmueve a la Fórmula 1 https://t.co/jjWKiRSd7C pic.twitter.com/gmsF0rBckt— MÁS Deportes (@MASdeportesLA) 2017年2月21日

事故の真相で有力視されているのは?

現在に到るまで、事故の真相・原因は確定されておらず、短すぎるアイルトン・セナの生涯とも相まって、諸説が語られます。

その中でも一番有力だと言われているのは、ステアリング・シャフトのトラブルによるものだというものです。

事故当時、アイルトン・セナが乗っていた「ウィリアムズFW16」は、FW14を母体としたマシンでした。FW14は、その当時のウィリアムズのファースト・ドライバー「ナイジェル・マンセル」に合わせ作られていたのです。

アイルトン・セナのスタイルに作り替え?

ナイジェル・マンセルは、F1ドライバーの中でもパワフルなドライビングが特徴で、ステアリングには非常に小さいものを好んで使用していました。ウィリアムズFW16のモノコックの設計も、これを引き継ぐ形で行われていたのです。

しかし、アイルトン・セナは逆に、ステアリングには大きいものを好んでいたため、FW16に望むものを付けると、ステアリングの位置を下にずらさなければなりません。

ずらすと、今度は、アイルトン・セナの膝がステアリング・シャフトに当たってしまう不都合が生じます。そこで、シャフトを切断し、膝が当たってしまう部分のみ細いパイプを通し、元のシャフトと溶接する方法がとられたのです。

幾重にも重なった事故の原因

当日のサンマリノGPは、最初の事故の影響で、セーフティーカーが導入されていて、路面は事故車両の破片が残っており、非常に危険なコンディションとなっていました。

しかし、それ以前の2戦ともリタイア続きだったアイルトン・セナは、その2戦とも優勝をさらったミハエル・シューマッハの前を危険を顧みず走行し、超高速コーナー「タンブレロ」にさしかかります。

バンピーな路面、超高速コーナー、そして作り変えられたステアリング・シャフト、原因が幾つも重なった結果、ステアリング・シャフトは折れ、走行不可能となります。

アイルトン・セナは、必死にシフトダウンしようとしますが、間に合わず、無残にも車はコンクリートウォールに激突してしまいました。

アイルトン・セナの死因

サンマリノGPが開催された「イモラ・サーキット」のコンクリートウォールに激突したアイルトン・セナの死因は、右フロントホイールが衝撃で頭部を直撃した結果だと言われています。

すぐさま、ドクターヘリでマジョーレ病院と運ばれますが、脳死状態となり、レースから約4時間後に残念ながら、この世から去ってしまいました。

孤高の天才F1カーレーサー「アイルトン・セナ」享年34歳の突然の不幸は、全世界に報じられ、世界中のファンが悲しみにくれたのです。

アイルトン・セナの死因はサスペンションがヘルメットに…

1994年5月1日、イタリア・イモラにある「イモラ・サーキット」で開催されたF1第3戦サンマリノGP、アイルトン・セナはレース中のクラッシュで命を落とします。

レーススタートから7周目、イモラ・サーキットの第1コーナーにあたる“タンブレロ”で、アイルトン・セナがドライブするマシンは真っ直ぐコースサイドにあるコンクリートバリアへ衝突。当時残されたデータによると、コーナーへの進入速度は300km/hを超えていたとされています。

衝突後、マシンはフロント部分をはじめ大破し、回転後に停止。アイルトン・セナの身体は動く気配がなく、医療スタッフが事故現場に駆けつけてようやくマシンから身体を引き出し、現場での救護作業が行われました。

懸命の救護も空しく、医療用ヘリコプターにて病院に運ばれます。そして、午後6時40分にアイルトン・セナの死亡が告げられました。

アイルトン・セナの死を決定付けたのは、マシンへ装着されていたサスペンションでした。

事故後に開催された1994年F1第4戦モナコGP。記者会見でアイルトン・セナの死因が発表されます。国際レベルで開催されているモータースポーツ競技の統括機関である「FIA」(国際自動車連盟)の会長を務めていたマックス・モズレーにより、「フロントサスペンションが脳に突き刺さったため」と明らかになりました。

クラッシュが発生した際、右フロントホイールがマシンのコクピット内に侵入して、アイルトン・セナのヘルメットに当たったとされています。加えて、ホイールと繋がっていたサスペンションがヘルメットを貫通して頭部の損傷を引き起こしたほか、サスペンションの破片が目を保護するバイザー部分を破り、右目付近に達したとされています。

これらの要素のうち、いずれかが該当してもアイルトン・セナは死に至っていたとされており、クラッシュにより吹き飛んだサスペンションが明暗を分けたのです。

アイルトン・セナの事故はなぜ起きた?マシンに何が?

1994年F1サンマリノGPにてアイルトン・セナが犠牲となった事故は、発生から30年近く経つ今でも事故の原因や真相が明確ではなく、結論を出すのが困難な状況です。

マシントラブルやレースウィークに発生した他のドライバーによるクラッシュ、その他外的な要素が、アイルトン・セナに影響を与えたのではないかと、裁判所の見解や専門家による議論がなされています。

アイルトン・セナの死後、事故の原因に挙げられているのは次の5点です。

  • マシン側のトラブル
  • ドライビング中のミス
  • 装着していたタイヤのパンク
  • セーフティカーの性能の違い
  • 精神的なストレス

上記の中で、今現在でも語られる機会が多いのは「マシン側のトラブル」と「精神的なストレス」の2点。

アイルトン・セナが操っていたマシン「ウイリアムズFW16」にトラブルがあったのでは、との見方が挙げられています。

FIAにより、1994年シーズンからF1に参戦するチームに対し、マシンへの“ハイテク装備”搭載を禁止するよう通達がされていました。前年度の1993年シーズンまで、電子制御で性能を変化できる「アクティブサスペンション」をはじめとした先進機能を搭載していたウイリアムズチームでしたが、ハイテク装備の搭載禁止に伴い、完全新設計の新車となるFW16をレースへ投入することとなります。

FW16は、アイルトン・セナでなければまともにドライブできないとも語られるほど“ピーキー”な性格となっていたそうです。

そのほか、サンマリノGPのレースウィーク最中に、「ステアリングコラム」の位置を改善する作業が行われた点も、事故後の裁判で問われたポイントとなりました。改善作業を行った結果、事故が発生する前にステアリングコラムが破損したのではと、諸説挙げられていたポイントで有力視されていたほどです。

実際、サンマリノGPのレースウィーク最中に、ステアリングコラムの位置をアイルトン・セナにフィットするよう改善作業が行われていたと、裁判にてウイリアムズチーム側が代理人により認めています。

ただ、FW16を設計したデザイナーのエイドリアン・ニューウェイ氏によると、マシンの設計自体に不十分な点があったとも述べられています。アクティブサスペンションが禁止された影響で、走行中の車高変化に対応できる柔軟性が足りなかったとも考えられているようです。

マシン側のトラブルが考えられた一方で、「精神的なストレス」も事故に繋がった原因ではないかとも考えられています。

同じサンマリノGP、金曜日の練習走行中にセナと同じくブラジル出身で、当時は期待の若手だったルーベンス・バリチェロ(ジョーダンチーム)がクラッシュ。命に別条はありませんでしたが、鼻を骨折する怪我を負いました。

そして、土曜日の予選、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテックチーム)が走行中にマシンのフロントウイングが脱落したことが原因でクラッシュ。帰らぬ人となってしまったのです。アイルトン・セナはコースオフィシャルの車で事故現場まで駆けつけ、状況を目の当たりにしています。

母国ブラジルの後輩であるルーベンス・バリチェロのクラッシュ、新人ドライバーだったローランド・ラッツェンバーガーの死が重なり、セナへ精神的なストレスを与えたのではないかとの見方もされていますが、本人亡き今では、原因と断言できないのが実情です。

アイルトン・セナが残した名言とは?

Pense e Reflita – Chegar Lá – Ayrton Senna https://t.co/C1pRAoU5m3 pic.twitter.com/gwlsKHxuIa— eduardo donizete (@eduardod2) 2017年2月26日

アイルトン・セナの名言【その1】

重要なのは、勝つこと。それ以外は、全て結果でしかない。

アイルトン・セナの名言【その2】

パフォーマンス、コミットメント、努力、渾身さに関しては中間なんて存在しない。 やり遂げるか、やらないかのどちらかだけだ。

アイルトン・セナの名言【その3】

もし、何かで大成功したかったら、完全に専念し、自分の限界を追求し、ベストを尽くさないといけない。

アイルトン・セナの名言【その4】

あなたが誰であろうとも、どんなに地位が低かろうとも、常に全力で、渾身的に取り組み、全てに愛を込め、神への感謝の心を持てば、いつかはきっと、たどり着けるから。

アイルトン・セナの名言【その5】

もし、死が自分をこの世から連れ去ろうとするなら、カーブの途中で力の限りに連れ去って欲しい。

音速で逝ってしまった天才「アイルトン・セナ」

アイルトン・セナは、地位も名誉もお金も手に入れた天才でありながら、いつもその表情は憂いを含んで、少し哀しげに見えました。

34歳という若さで、まさに人生を音速で駆け抜けるように逝ってしまってから、早いもので20年あまりが過ぎてしまいました。

今では、諍(いさか)いや争いのない世界で、早世の天才F1カーレーサー「アイルトン・セナ」は、憧れだったホンダ・オーナー「本田宗一郎」氏とゆっくりエンジン談義をしているのかも知れません。

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執筆者プロフィール
長谷川 優人
長谷川 優人
1990年生まれ。30代突入と同時期にライター業を開始。日常系アニメと車好き。現在所有はワゴンR(MH95S)。アニメ作品の聖地巡礼などで、各地へドライブに出かける。

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