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時代の移ろいと共に消えた「コニー」とは?航空から軽自動車へ、愛知機械工業の個性派軽トラ【推し車】
目次
昔はこんなメーカーあったっけ…今回は「愛知機械工業」
日本の主要な自動車メーカーが今の顔ぶれになるのはおおむね1970年頃、2大メーカーだったトヨタや日産が体力不足のメーカーを傘下に置いたり吸収合併して今に至るわけですが、つまり1960年代までは中堅どころのメーカーがまだ結構残っていました。
それらは自動車メーカーとしての存在をやめたがゆえに、多くの場合は現在まで不動・実動問わず現存車種が極端に少なく見る機会がないとはいえ、生産/販売の規模こそ小さいながら個性的なクルマづくりをしており、今から見ればちょっと面白い存在です。
今回はそんな「1960年代までは現存した自動車メーカー」の中から、「ヂャイアント」や「コニー」ブランドでオート3輪や4輪商用車を手掛けており、現在は日産子会社の愛知機械工業を紹介しましょう。
愛知機械工業もまた、航空機産業からの転換組
第2次世界大戦で最後まで戦った敗戦国として、戦後しばらく航空機開発が禁止された日本やドイツ、勝ちはしたものの国内経済がボロボロだったイギリスでは、戦後の航空機産業で「ヒコーキからクルマへ」という流れがありました。
ヒコーキづくりで培った技術をうまく活かし、クルマを作ればさぞかし素晴らしいものができるに違いない──いや作らねばならない、食うためには──というわけですが、戦後に自動車産業へ進出した愛知機械工業もそのひとつ。
かつては三菱重厚や中島飛行機といった一流どころには及ばないものの、「愛知航空機」というれっきとしたヒコーキのメーカーで、得意分野はゲタ履きと言われた各種のフロート(浮舟)つき水上機や、小型の攻撃機、爆撃機など海軍向けの機種。
熟練パイロットによる凄まじい命中率で連合軍の艦船を沈めまくった名機、「九九式艦上爆撃機や、高性能の艦上攻撃機「流星」、潜水空母とも呼ばれた大型潜水艦から発進できる特殊水上攻撃機「晴嵐」など、名の売れたヒコーキもたくさん作ったものです。
しかし戦後の航空機開発禁止、軍需禁止となれば民需で飛行機以外を作るしかなくなり、目をつけたのがオート三輪。
戦時中の協力工場から戦前に作っていたオート三輪の製造権を譲り受けると、ブランドもそのまま「ヂャイアント号」として1947年に発売、いち早くフルキャビン化や丸ハンドル化を成し遂げた、ちょっと先進的な高級オート三輪メーカーとして鳴らしたのです。
トヨエースで食えなくなって軽自動車メーカーへ転身
しかし多くのオート三輪メーカーがそうだったように、トヨタから安い四輪小型トラック、トヨペット・ライトトラックSKB(後のトヨエース)が1954年に発売されると、小回りは効くものの走行安定性や居住性で劣るオート三輪はアッという間に斜陽産業へ。
それで愛知航空機改め「愛知機械工業」も1950年代半ばから右肩下がりで業績が悪化していきますが、今さら4輪トラックを作るにしても、トヨタや戦前からの老舗ダットサン(日産)へ対抗するには企業規模が小さすぎ、開発力や販売力でとても叶いません。
そこでさらに軽自動車メーカーへ転身、まずはつなぎで軽三輪トラックAA27型「チャイアント・コニー」を開発、戦前からの「ヂャイアント」ブランドから、公募した新ブランド名「コニー」へと転換する流れも進めました。
1959年に発売したAA27は、ちゃんとドアもあるフルキャビン、丸ハンドルと先進的な設計で、同時期のライバル、ダイハツ ミゼットMPシリーズやマツダ K360、三菱 レオがいずれも丸目2灯ヘッドライトなのに対し丸目1灯で、「一つ目小僧」とも呼ばれたそうです。
フラットツインの軽4輪商用車「コニー」を売るも日産傘下へ
しかし軽オート三輪のAA27はあくまで過渡期の存在。
本命は同じ1959年に発売された、軽4輪商用トラックのAF3型「ヂャイアント・コニー360」で、短いボンネットを持つものの強制空冷2気筒OHVエンジンを座席下に搭載するという、オート三輪をそのまま四輪化したような軽トラック。
続けてリアエンジンの軽商用バンであるAF6型「コニーコーチ」(1962年)、超小型ピックアップトラックAF8型「コニー・グッピー」(1961年)、AF3型の正常進化版AF7型「コニー360」(1962年)で、軽商用車メーカーの中堅どころへ収まります。
もちろん、同時期のマツダやダイハツ、三菱のように軽4輪乗用車へ進出したいという願いもあり、試作車を作っては自動車ショーへも積極的に出展しますが、結局実現しておらず、コニー360の小型車版コニー600も短期間のみの販売。
もともと販売力の弱さで小型トラック市場から叩き出されたのに、軽自動車でも古株のマツダやダイハツに負けるのが目に見えていて、メインバンクからうまく融資が受けられないどころか、大メーカーの傘下企業となる以外に生き残る道はない、と諭されたようです。
それで1965年には事実上日産の傘下入り、独自車種も同年発売したフルキャブオーバー型で荷室/荷台が広い軽商用車AF11型「コニーワイド」が最後で、トヨタ傘下入りしたダイハツのようにいつかは復活を…と続けた軽乗用車の試作も、販売に結びつきませんでした。
販売店は「日産コニー店」と名を変え、独自車種の販売が終了した1970年には「日産チェリー店」と改名し、コニーの名は自動車業界から消え去ってしまいます。
強制空冷フラットツイン(水平対向2気筒)エンジンをミッドシップかリアに積む低重心設計は個性的でしたが、いずれ1970年代に環境対策で行き詰まったであろうことを考えれば、独立を放棄して正解だったかもしれません。
なお、その後の愛知機械工業は「サニートラック」や「バネット」など日産車の委託生産を経て、現在はトランスミッションなど日産系の部品メーカーとなっています。
それでも「かつての自動車メーカー」の名残は、社内有志による復元(レストア)クラブの活動として公開されていて興味深く、皆さんも興味があればぜひ、覗いてみてください。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...