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突然生まれ消えていった国産車初の「小さな高級車」スズキ フロンテ800【推し車】

1960年代に突然生まれ、消えていったスズキ初の小型車

ビレットグリルにメッキバンパーと、800cc級とは思えない立派なフロントマスクのフロンテ800

1983年に初代カルタスを発売するまで「軽自動車専業メーカー」のイメージが強かったスズキですが、実は1960年代に1台だけ、「フロンテ800」という小型車を発売した事がありました。

同時期にちょっと流行った手頃な価格の800cc級セダンでしたが、他メーカーとは事情が異なりあくまで「小型車も作れる」と証明するためだけに発売され、必要がなくなれば後継車も発売することなく、サッと手を引くというある意味でスズキらしい1台です。

今作っておかないと、小型車に参入できなくなるかも?

横から見るとリアが少々薄っぺらい感じもするが、トーションバーでの車高調整次第で雰囲気はだいぶ変わりそう

まだ「全日本自動車ショー」と呼ばれていた頃の東京モーターショー(現・ジャパンモビリティショー)では、1962年に小型車のちょっとした出展ラッシュがありました。

マツダからは後にファミリアとなる「マツダ1000」、ホンダからは後にS500となる「スポーツ500」、ダイハツからは後のコンパーノ、「コンパクトライトバン」といった具合で、スズキも「4ドアセダン」という素っ気ない名前そのままの小型車を出展します。

これらはいずれも、それまで乗用車は軽自動車のみ、あるいはこれから軽自動車で参入しようとしていたメーカーばかりですが、いずれも目的はただひとつ、「駆け込みで小型車メーカーとして実績を作る」。

なんでそんな話になったかといえば、当時は第2次世界大戦からの戦後復興期が終わろうとしており、1960年には国際経済社会へ復帰するための貿易自由化が既定方針となって、自動車も1965年10月から完成車の輸入が自由化される、と決まった事に始まります。

しかし、「国産乗用車はまだ生産規模も小さく技術的に未熟、価格競争力もないため、自由化したら生き残れない」と危惧した通産省(現・経済産業省)は、国産車メーカーの合併を促進し、数社の大メーカーのみ残して競争力をつけさせよう、と目論みました。

今からメーカーを減らそうという時に新規参入などもってのほか、ならば早々に参入し、既得権益を主張してしまえばいい、と考えた軽自動車メーカー数社が、揃って小型車への参入をアピールしたのは当然のことでした。

フロンテ800、発表!

もっと色気のあるフェンダーミラーへ交換してみたくなったり、細部のデザインに注文をつけたくなるが、素材としてはなかなか

実際、1962年に小型車を発表できるほど体力のあったメーカーは、いずれも現在まで生き残っており、それ以外の軽自動車メーカーで残ったのはスバル(富士重工)くらい、他はコニー(愛知機械工業)のように撤退したので、通産省も目もあながち節穴ではありません。

ただし、戦後参入組で二輪から始まり、初代「スズライト」(1955年)で軽自動車にもいちはやく参入したとはいえ、大ヒットしたスバル360の陰で軽乗用車がパッとしなかったスズキは、正直ギリギリの線でした。

最初発表した「4ドアセダン」も車名どころかスペックなど一切の説明がなく、展示名と見た目で4ドアセダンとわかるほかは、どうも700cc級4サイクルエンジンを積んだFF(前輪駆動)車らしい、と推測されるのみ。

この社内名称「HAX(HUX、とも)」と呼ばれる試作車はあくまで習作だったようで、翌1963年のショーには改めて「フロンテ800」を発表、水冷2サイクル直列3気筒785ccエンジンをフロントに積み、前輪を駆動するFF2ドアセダンになっていました。

フロンテ800と前年に展示した「4ドアセダン」とは、リアウィンドウが似ていてFF車であるという以外に共通点はなく、前年の展示は実走可能な試作車かハリボテかはさておき、小型車メーカーとしてのアピール用に、ショーモデルを急遽仕立てただけのようです。

立派に完成したフロンテ800は完成度も高く、何より車名もスペックもちゃんと公開されており、いよいよスズキも本腰に入ったかと思わせましたが、発売されないまま1964年のショーに再展示されて「来春発売予定!」と発表しました。

フロンテ800、ようやく発売!しかし…

車内も軽自動車メーカーとは思えない立派な仕上がりで、スズキなりに高級感を追い求めたと考えられる

しかしフロンテ800の発売は生産体制が整わないため遅れに遅れ、1965年12月にようやく発売されたものの、その頃には通産省が自動車を含む特定産業の保護を目論んだ「特定産業振興臨時措置法案」が、国会で未成立のまま終わっていました。

つまりどういう事かというと、「急いで小型車を発売する必要など、どこにもなくなっていた」わけです。

同様に駆け込みで四輪車へ参入したホンダ同様、とんだ空騒ぎで終わったのはもう明らかでしたが、せっかくここまで作ったし、また同じような話が出ても困ると思ったのか、スローペースながらも一応発売した、という事かもしれません。

そのため発表から発売まで2年以上かかっても問題とされず、発売後も販売は低調、一応はフロントシートをベンチシートからセパレートへ、さらにリクライニングシートの「デラックス」を追加しますが、2,717台を生産し、2,612台を販売して終わりました。

一応は1.1リッターへ拡大し、セダンに加えてワゴンやバンもラインナップした「スズキ版初代カローラ」のような後継車も開発していたようですが、何しろ小型車をいつまでも続ける理由がありません。

それより、1967年に発売してホンダN360と激しい販売合戦、パワー競争になだれこんでいた2代目フロンテ(LC10)の改良と販売拡大に全力を投じる必要があり、まずは軽自動車メーカーとしての足場固めが最優先で、小型車の継続どころではありませんでした。

考えようによっては、元祖「小さな高級車」?

テールは溶接の継ぎ目がハッキリとわかるのが残念なのを除けば、シンプルで好印象とも言える

最後になりましたが、フロンテ800はどのようなクルマだったのでしょうか。

ロイトLP400をベースにした初代スズライト同様、西ドイツ(当時)のDKW車を参考にほぼそのままスズキ仕様に仕立てましたから、FF車ゆえにセンタートンネルがなくて車内は広く、リアデフが不要で四輪独立懸架など、進歩的な設計だったのは当たり前。

国産車で初めて曲面ガラスを使ったサイドウィンドウや、あくまで自社デザインながらヨーロッパ車風のデザインも近代的でしたが、実はそれら全てが問題だらけです。

FFレイアウトはスズライトからスズキも採用していたとはいえ、当時の技術では信頼性や耐久性があまりにも低く、燃費が悪くて将来的な排ガス規制に耐えない2サイクルエンジンはDKWでもやめようとしていました。

あくまで実績づくりだけなので、凝ったデザインを量産する機械的な生産ラインなど作らず、職人の手作業で細々と作る高コスト体質ゆえ、ライバルと同等、あるいは少し割高な価格設定でしたが、それでも売るほど赤字だったのではないでしょうか。

したがって1966年にもっと安くて立派な初代サニーや初代カローラが登場すると、もはや存在意義はなく、1969年には生産終了、また軽自動車専業メーカーへ戻ってしまいました。

役所やメーカーの都合に翻弄されつつ生まれ、わずかばかり生産して消えたフロンテ800ですが、それだけに採算度外視な部分があり、考えようによってはちょっとした「小さな高級車」だったと言えるかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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