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「マツダ車に乗ればめちゃモテた」デザイン◎ラリーでも大活躍した5代目ファミリアとは【推し車】
目次
あのファミリアにだって、素晴らしいモテ期があった!
かつては戦前からオート3輪の名門、戦後は4輪車へ参入してから2度にわたり経営戦略を大きく誤り、壊滅的な打撃をこうむったにも関わらず、そのたびに救世主的なクルマの登場で危機を脱した、「日本一のうっかりさんだけども、しぶとい自動車メーカー」、マツダ。
ロータリーエンジンへ傾倒しすぎてオイルショック後の省燃費対策に乗り遅れた1970年代の深刻な経営危機から、劇的な急成長を遂げる(そしてバブル時代にまた失敗する)キッカケになったのが、歴代初のFF車である5代目BD型ファミリアでした。
特にハッチバック版はルーフキャリアに固定したサーフボードでドレスアップした「陸(おか)サーファー」仕様がよく似合って社会現象となり、赤いボディカラーのXGグレードが大ヒット、当時不動の国民車的存在だったカローラを通算8回にわたり抜き去ったのです。
ロータリーに酔い潰れた1970年代マツダ、復活への険しい道のり
1970年代、従来からの高性能とサーマルリアクター方式による排ガス規制対策成功により、「未来のエンジン」と呼ばれたロータリーエンジンをすっかり過信していたマツダですが、オイルショックによるガソリン価格の高騰で、ドン底に突き落とされました。
主要市場の北米では「マッスルカーのV8エンジンにも劣る燃費」と叩かれ、慌ててレシプロ(ピストン)エンジンへ切り替えようにもロータリーへ傾倒しすぎており、ライバルに大きく出遅れます(軽自動車に至っては自社製エンジンを廃止)。
レシプロエンジンのイメージが薄いマツダ車は、ロータリーそのままの「燃費が悪いメーカー」というレッテルをなかなか剥がせず、作っても売れない在庫車が工場の裏山へ大量に放置されたと言われており、存続の危機にさらされたのです。
幸い、メインバンクからの経営介入を受け入れ、フォードとの資本提携に成功して最悪の事態を脱し、フォードへの部品や小型車の供給、RX-7によるスポーツ路線でロータリー復権、4代目ファミリアがヨーロッパでヒットするなど、立ち直りのキッカケを得ます。
しかし、本格的な回復には世界的潮流であり、車内のスペース効率を飛躍的に高める、小型車のFF化がなんとしても必要でした。
ヨーロッパでの好調をヒントにした5代目ファミリア
4代目のハッチバック車が、旧態依然としたFR車にも関わらず、開口部の広さや荷物の積み下ろしなど使い勝手の良さ、2BOXスタイルのエクステリアデザインと、落ち着いたインテリアで、ヨーロッパを中心に好評だったファミリア。
5代目でマツダ初のFF車となるにあたって、先行していたホンダ シビックやフォルクスワーゲン ゴルフを参考にしつつ、それらを上回るハッチバック車を作るのは、至上命題でした。
そこで、シビック以上の切れ味を持つハンドリングを目指し、4輪ストラット独立懸架のリアサスに、コーナリング時の横Gで外輪側をトーインにする事で、機械的操舵機構を介さずナチュラルに操縦安定性を向上できる仕組みの「SSサスペンション」を採用。
リビングのような快適性と使い勝手の両立を図るため、左右二分割式で、前に畳めば荷室拡大、後ろへの独立リクライニングも可能なリヤシートを採用しています。
操る楽しさ、快適性、使い勝手の良さを高い次元で融合するのは、その後も現在まで、コンパクトカーからSUV(そしてかつてのミニバン)へ至るまでマツダ車の大きな特徴となっており、かつてのロータリーパワーで力任せのマツダ車とは、完全に決別しました。
アメリカ映画が生んだ陸サーファー必須のナンパ車へ
エクステリアデザインも、1980年時点では非常に斬新なフラッシュサーフェス化を、クサビ型のウェッジシェイプと併せ全面的に採用、まだ1970年代までの古さが目立つデザインのライバル車に比べ、平滑でスマートなデザインは時代の違いを感じさせるのに十分です。
そこでちょうどよくブームとなっていたのが、日本では1979年4月に公開されて大ヒットしたアメリカのサーフィン映画、「ビッグ・ウェンズデー」の影響を受けた、アメリカ西海岸風サーファールック。
当時は「とりあえず、それっぽいカッコして目立つ車にサーフボードを載せれば、ナンパの成功率アップ!」という単純な時代です。
夏を前にした1980年6月に発売、当時の最先端デザインに鮮烈な赤のボディカラー(サンライズレッド)、豪華装備な最上級グレード「XG」のファミリアへルーフキャリアを取り付けてサーフボードを載せ、サーファールックをまとめばナンパの準備はOK!
もちろん本当にサーフィンをする必要はなく、「だったら波じゃなく何に乗るの」という疑問を棚に上げた「陸(おか)サーファー」がナンパスポットへあふれる、社会現象となりました。
今の目線では「ファミリアでナンパとかダサくない?」と考えてしまいそうですが、そういう時代もあったということです。
デートカーの常として、SSサスペンションによる走りがどうのという話はあまり関係なくなってしまいましたが、一応国際ラリーのグループAで活躍し、後のファミリア4WDターボへつなぐ程度の役割は果たしています。
当時の世界最速で累計生産100万台突破!
動機が不純であれ、ウマイこと流行の波に乗ってしまえばこっちのもの、月間販売台数ランキングトップの常連だったカローラを8度にわたって追い落とし、発売から2年3ヶ月で生産累計100万台(つまり平均月産3万7千台以上)というマツダ始まって以来の記録を樹立。
これはマツダ最短どころか、それまで世界最短だったGMのシボレー サイテーションの29ヶ月を抜く当時の世界新記録であり、「あのマツダが見事な復活を遂げた!」と世間を驚かせ、トヨタはカローラFX、日産もサニーハッチバックで追随する騒ぎとなりました。
1980-1981年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーも受賞し、5代目BFファミリアによって完全復活を遂げたマツダは、続くカペラ(4代目GC・1982年)のFF化も成功させ、バブル時代へと右肩上がりに突き進んでいったのです。
流行の最先端を走った、ファミリア黄金時代
その後の5代目ファミリアは、デビュー直後に追加した4ドアサルーンもマイナーチェンジ(1983年)にハッチバックと同じフロントマスクへ変更。
ターボ車やファミリア誕生20周年記念車「スポルト」、女性仕様車「シャトレ」(いずれも1983年)を追加、1984年には全席レカロシート化やピレリP6タイヤ採用など、大ヒットを祝うかのように豪勢な特別仕様車「スポルト・ヨーロッパ」を発売。
1985年にモデルチェンジした6代目も、日本初のフルタイム4WDを採用したDOHCターボエンジン搭載の4WD車でWRCへ挑むなど、バブル時代の7代目まで順調な進化を遂げました。
バブル崩壊による再度の景気悪化とモデルチェンジ失敗、コストダウンにイメージダウンと、アクセラへ取って代わられる最後の方は散々だったファミリアですが、5代目BDファミリアの頃は、まぎれもない「日本で流行の最先端を走るクルマ」だったのです。
ああまさに栄枯盛衰。
- 最新「ファミリア」中古車情報
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本日の在庫数 19台 平均価格 155万円 支払総額 20~617万円
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...