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伝説のF1マシン『クーパー T53 クライマックス』がホンダに選ばれた理由【推し車】

輸入した1台のF1マシンから始まるホンダのフォーミュラカー

ホンダコレクションホールに展示されている、クーパーT53コベントリー

2021年で第4期参戦を終了、参戦と撤退を繰り返すホンダF1ですが、2040年に新車を全てBEV(バッテリーの電気のみで走る電気自動車)とFCV(燃料電池車)にするのに、また復帰する可能性についてはさておき、F1でもっとも歴史ある日本メーカーなのは確か。

それだけに、もてぎのホンダコレクションホールには歴代のホンダF1に係わったり、F1以外のフォーミュラカーも数多く展示してあり、もっとも古いクーパーT53クライマックスは、それら全ての原点と言えます。

2輪やるならマン島へ、4輪やるならF1へ

輸入したのは1960年のF1で走った2,500cc版だという説があったものの、レストアを経て1,500cc版と判明したようで、1961年からのF1新規格に合わせたプライベーター用、通称T53Pと思われる

時代が進むごとに「普通の企業」となってしまっているものの、かつてはアレコレ言われながらもオリジナリティとチャレンジングスピリッツ、そして天邪鬼っぷりでは最強の国産車メーカーだったと自他ともに認める存在だった「ホンダ」。

戦後すぐに自転車用補助エンジンメーカーとして立ち上がり、2輪車メーカーとなった当時はまだ数多かったライバルとのシェア争いでもっとも苦しい頃に「マン島TTレースで世界一になる」と宣言し、有言実行。

一方で将来の目標としていた四輪車参入は、国の横槍で新規参入どころか勝手に合併を推進されてメーカー数を絞られる可能性が出てきて、こりゃ大変とドタバタしながらも軽トラT360と小型スポーツカーS500を発売しますが、最後発で量販車種もありません。

1967年に軽乗用車N360で大成功するまで、「ハッキリ言っていつ潰れてもおかしくない」というホンダの4輪車事業でしたが、そんな時だからと社内的には叱咤激励、対外的にもホンダスピリッツここにありと宣言したのが1964年1月のことです。

実際の計画は1962年5月あたりに動き出したようですが、当時のホンダでも創業者の本田 宗一郎氏が「F1に出るぞ!」と言い出したところで、誰もF1がどんなものか知りません。

インターネットで検索すれば手軽に情報が出てくる現代と異なり、海外からの外電や書籍、在留邦人からの伝聞で伝わる以上の情報もないため、まずは「F1ってどういうクルマなんだ?」から始めなければいけませんでした。

クーパーの2年連続タイトルを支えたF1マシン、T53

2012年にイモラサーキットのヒストリックカーレースで走ったクーパーT53 
©Dan74/stock.adobe.com

実際の輸入時期やその経緯には諸説あるものの、ホンダF1の計画開始時にはすでに本田技術研究所にあったF1マシン、「クーパーT53クライマックス」が、計画初期の教材となりました。

このマシンは後に「ミニ・クーパー」でも有名となるジョン・ニュートン・クーパーと、その父チャールズ・ニュートン・クーパーによるクーパー・カー・カンパニーがF1参戦用に作ったフォーミュラカー。

第2次世界大戦の終結直後だった1946年、ボクスホールとフォードのディーラーを経営するかたわらでレーシングカー製作に乗り出し、リアミッドシップレイアウトの「クーパー500」が完成。

ミッドシップにしたのは、バイク用エンジンをチェーン駆動するのに都合がいいという単純な理由だったと言われますが、もちろん重心近くへのエンジン搭載で素晴らしいコーナリング性能を発揮し、わずか500ccでハイパワーのFRレーサーと遜色ない性能を発揮します。

これでミッドシップレーサーに自信を得たクーパーは、F3を席巻するとF2やインディ500、F1でもミッドシップ旋風を巻き起こし、1959年にT51、1960年にT53を駆ったジャック・ブラバムにより、2年連続でドライバーとコンストラクターズのWタイトルを獲得。

この時のT53は2.5リッター直4のコベントリー・クライマックスFPFエンジンでしたが、翌1961年からF1規定は1,500ccに変更、クーパー自身は新型のT55で参戦するものの、プライベーターからの求めに応じて1,500cc版のT53(通称T53P)も販売しました。

ホンダミュージアムに所蔵されているのは、この1961年製T53Pとみられています。

なぜホンダはT53を選んだのか?

1964年頃には既に役目を終え本田技術研究所で放置されていたというT53だが、荒川テストコースや鈴鹿サーキットでもテスト走行が行われたのだろう

T53が選ばれた理由にも諸説ありますが、クーパーは自社でエンジン開発まで行わない小規模のバックヤード・ビルダーであり、既に名門と言われていたフェラーリや、アルファロメオ、マセラティなどの老舗と違い、ミッドシップを積極的に使える柔軟性がありました。

また、1,500cc版では2,500cc版と同系統のコベントリー・クライアックスFPF Mk.IIですが、他のエンジンも搭載可能な融通の効く設計であり、まずはエンジンをチームへ供給するエンジンコンストラクターとして参戦を目論むホンダにとって、格好のテストベッドです。

実際、開発したF1エンジンをT53に積んでテストしようという案もありましたが、ホンダが開発していたV12エンジン横置きに対し、直4エンジン縦置きのT53では大改造が必要となるためあまり意味がなく、実際のテストベッドとしては新規にRA270が作られます。

結局は「F1マシンとはこういうものなのだ」という実感を、エンジニアリングと実走によるドライビングの両面で得るのに留まったT53ですが、輸入した初期にはウェーバーキャブレターの調整不良でマトモにエンジンを動かすのにも苦労したようです。

そこへたまたま、「あの(2輪で名高い)ホンダがF1に参戦するらしい」という噂を聞きつけたジャック・ブラバムが本田技術研究所を訪問したもので、コベントリーエンジンなら手慣れているはずと調整を依頼すると、すぐマトモに動いた、という逸話も残っています。

京浜キャブ4連装のDOHC360ccエンジンを積んだ軽トラ、T360を1963年に平然と市販したホンダでも、F1用エンジンに関しては案外おっかなびっくり、手を焼いたというスタートでした(※)。

(※前所有者のキャブレターセッティングが適切ではなかったのが原因だったらしく、コベントリーそのものは当時のレース用として定評あるエンジンでした)

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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