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“空冷へのこだわり”が果たして本当に「ホンダらしさ」なのだろうか?今あらためて考えたい誇り高き失敗作、ホンダ 1300【推し車】
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水冷への大転換でシビックへの足がかりに
しかし、高性能エンジンに見合ったデザインと足回りを持つクーペの発売(1970年2月)、それに合わせてセダンも進化し、イージードライブ可能なAT車の追加(同3月)で販売はいくぶん持ち直し、3年ちょっとで10万台以上を売ったのです。
それほど失敗作とは思えぬ販売実績ですが、初代シビック(1972年)の企画が始まった頃には月産1万台、つまり3年売っていれば30万台は生産していたであろう工場の稼働率は目を覆うばかりで、視察したシビック開発チームが青ざめた、とまで言われています。
「思ったより売れずに生産ラインもスカスカ」では、ホンダ自身でも「挫折」と表現したほどの失敗だったのはやむをえず、ホンダはシビック以前のN360後継車、初代ライフ(1971年)では既に水冷エンジンへと方針を大転換していました。
DDACエンジンを大改良してでも使えれば何とかしたかもしれませんが、熱問題への対応、何より燃焼制御が難しく、空冷と言うより「半油冷」でどうにかなるようなエンジンを安価な小型乗用車で採用し続けても、スペース効率のいい新型車は作れません。
そうした「教訓」と、無理に何でも(F1用エンジンですら)空冷で推し進めようとした、「本田宗一郎氏の技術者としての限界と、新世代の技術者へと世代交代による新たなホンダの船出」による初代シビックの大成功こそが、ホンダ 1300最大の功績になりました。
もっとも、同クラス車では間違いなく最強、足回りの熟成も進んでいたホンダ 1300の廃止(水冷化されたホンダ 145として1972~1974年まで継続)は、「ホンダらしいセダン/クーペが出た」と喜んでいた、当時のホンダ党を大いに嘆かせた…とも伝えられています。
ホンダなら平凡な水冷SOHCエンジンのFRの車でも、「ホンダらしいセダン/クーペを作れたのでは?」と思ってしまいますが、「他社にないものを作ろうとして、ちょっと頑張りすぎた」のが、かえってホンダらしいエピソードかもしれません。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...