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ついに現れた“ホンドーラ”の本命「RA301」!第1期ホンダF1最強マシンが未勝利に終わった理由【推し車】
目次
第1期最強のはずが、現地と本国の対立に翻弄されたF1マシン
4輪車市場への参入とほぼ同時に始まった第1期ホンダF1プロジェクトは、1964年のRA271に始まり1965年にRA272で初優勝、1967年には通称「ホンドーラ」ことローラ・ホンダ体制で急造されたRA300で2勝目を挙げ、1968年にRA301を投入します。
当時ヨーロッパで現場指揮をとっていた中村 良夫氏、エースドライバーのジョン・サーティースは念願の軽量化を果たしたRA301でシリーズタイトルすら狙えると自信を深めていたものの、そこに本国のホンダ本社から「RA302」なる悲劇の空冷マシンが…。
結果的に好成績を残せなかった第1期ホンダF1の集大成、RA301とはどんなマシンだったのでしょうか。
ついに現れた「ホンドーラ」の本命、軽量熟成したRA301
1968年5月、ハラマサーキットで開催されたスペインGP。
1964年にRA271で参戦してから5シーズン目となるホンダF1チームは、前年から加入したエースドライバー、ジョン・サーティースのコネでイギリスのシャシーコンストラクター「ローラ」とタッグを組み、ニューマシンRA301での初参戦を迎えていました。
1966年から投入したRA273まで重量超過に悩まされ続けたうえ、F1用エンジン規定の3リッター化を機に頭角を表した傑作、フォード・コスワースDFVに歴戦チームの軽量シャシーの組み合わせが威力を発揮すると、独自のシャシー開発能力に限界を感じたホンダ。
1967年途中からローラにシャシー開発を依頼したRA300は急造ながらもイタリアGPで優勝しており、「ホンドーラ」と言われたローラ・ホンダ体制下で腰を据えて開発された軽量シャシーによるRA301はついにRA273より120kgも軽い530kgまでシェイプアップ!
最低重量(500kg)にはまだ余裕があったものの、前年までのRA273Eをベースにしたとはいえ、V6×2から直6×2へと構造変更、常識的なバンク内側吸気・外側排気で吸排気系統もスマートにまとまり、同時に軽量化も果たしたRA300Eエンジンは440馬力を発揮します。
シリーズタイトルすら決して届かない夢ではなかったはずだが
これなら、ロータスのみならずマトラやマクラーレンなどに拡大したコスワースDFV勢にも十分戦える、うまくすればシリーズタイトルすら…と夢を膨らませても不思議ではありません。
しかし、スペインGPでは74周目、モナコGPでは16周目にギアボックストラブルで、ベグイーGPでは11周目にサスペンショントラブルで、オランダGPではなんとオルタネーターのローターが脱落と、トラブル続きで完走すらできず、信頼性に疑問が持たれます。
そうこうしているうちに日本本国のホンダ本社が、「独自のマシンを作って送るからそれを後継にしろ」と言ってきて、なんとも妙な雲行きになってしまいました。
本田宗一郎の暴走?!RA302によるオールホンダ再び
実は1968年シーズンのホンダF1は、プロジェクト当初から深く関わる中村 良夫氏が率い、ジョン・サーティースとともにローラがあるイギリスに腰を据えたヨーロッパ現地部隊と、カリスマ創業者の本田 宗一郎が陣頭指揮をとる日本本国部隊に分断されていました。
ローラ・ホンダ体制のヨーロッパ部隊が進めていた水冷V12エンジンの「RA301」が本命と思いきや、ホンダ本社で本田 宗一郎が作らせていたのは、自然空冷V8エンジンをホンダ独自シャシーに載せた「RA302」。
それだけならRA273から急造のRA300へシーズン途中で切り替えた1967年の前例もあって、RA302の方が軽量(最低重量ピッタリの500kg)で左右分割可能可能なミッドウイング採用など空力面でも新しく、サーティースのテスト走行でも素性は悪くありません。
ただし当時の本田 宗一郎は2輪や軽4輪のN360で自然空冷に自信を深め、「水冷だってどうせラジエーターに風当てて冷やすんだから、空冷の方が効率的だ!」と言い放ち、空冷エンジンの限界を知る技術者はウンザリしていた頃です。
果たしてRA302のエンジン開発はサジを投げた担当者(※)が出社拒否するほど難航しましたが、それであきらめる宗一郎ではなく、最終的には現地へ丸投げする形でヨーロッパへ送ってしまいます。
(※後にホンダの社長も勤めた久米 是志氏)
中村 良夫氏率いる現地部隊は未完成ならまだしも、完成する見込みない、グランプリへの出走などトンデモないRA302を前に唖然として本戦を走らせない意向でしたが、7月のフランスGPでなぜかジョー・シュレッサーのドライブでRA302がエントリーされてまた唖然!
激怒した中村氏は、一緒に日本から派遣されてきたエンジニアと、ホンダフランスにRA302を任せ、ヨーロッパ現地部隊はサーティースが駆るRA301に専念しますが、シュレッサーに「オーバーヒート確実だから飛ばすな」とアドバイスは忘れませんでした。
RA301とRA302の明暗を分けた「ルーアンの悲劇」
オーバーヒートどころではなかったRA302
フランスGPはスタート直後から雨に見舞われたものの、いよいよ熟成進んだサーティースのRA301は予選こそ7位だったものの決勝序盤は4位といい位置につけます。
しかしシュレッサーのRA302は3周目、中村氏からのアドバイス通りにペースを抑えていたにも関わらず突如コントロールを失ってクラッシュし爆発炎上、軽量化のためマグネシウム合金を多用したボディはあっという間に焼け落ち、シュレッサーは帰らぬ人となりました。
「ルーアンの悲劇」と後世まで語り継がれるホンダF1最悪の日でしたが、続行されたレースでシュレッサーはキッチリ仕事を成し遂げ、フェラーリのジャッキー・イクスに次ぐ2位でフィニッシュ。
RA301は最高の結果を残したが…
これでRA301の方向性が間違っていなかったこと、RA302は根本的なところから理屈を無視したワケのわからないマシンであり、出走したこと自体間違っていたと証明されたものの全ては後の祭り、第1期ホンダF1における拭えない汚点となりました。
驚いたことに、悲報を聞いた本田 宗一郎はなおも意気軒昂、空冷が悪かったのではないとRA302の開発を続行させます。
再び担当者は出社拒否して旅に出てしまいますし、改良型RA302を送られたヨーロッパでも一応イタリアGPのプラクティス(フリー走行)で走らせたものの、「それなりに走る。エンジンがオーバーヒートするまでは」では、予選や決勝を走ることもなく終わりました。
本田 宗一郎の空冷信奉による暴走は、最終的に市販車のホンダ1300(1969年)が大失敗、初代ライフや初代シビックが水冷エンジンで大成功する陰で、「技術者・本田 宗一郎の失脚」(社長業への専念)という結果をもたらします。
しかし、もっともワリを食ったのは引き続きホンダF1の主力として走り続けたRA301でした。
空力など改良を続けるも、結局未勝利に終わったRA301
フランスGPでサーティースが2位表彰台、RA302とは対象的に結果を残したRA301は、次戦イギリスGPでハイマウントのリアウイングを装着、支柱の強度不足で34周目にウイングがモゲるトラブルはあったものの5位入賞。
ドイツGPはアクシデントでリタイア、イタリアGPでは決勝こそクラッシュでリタイアしたものの予選トップでポールポジションを獲得、カナダGPを経てアメリカGPでは3位表彰台。
最終戦メキシコGPではサーティースこそリタイヤしたものの、自身のマシンを壊してホンダからスペアのRA301を借りたヤキム・ボニエが5位入賞と、ハマればなかなかの好成績。
前述のリアウイングのほか、メキシコGPではノーズフィン装着など空力を改善します。
結果的にはシリーズチャンピオンを狙うどころかコンストラクターズ6位、サーティースのドライバーズランキングも8位に沈んでしまい、「RA302なんて作らずRA301に注力していれば、あるいは…」と悔やまれる結果だけが残りました。
結局ホンダは本業の市販車で販売不振対策や排ガス規制対策に忙しいため、としてF1参戦を(撤退ではなく)「一時休止」と表明、本領発揮は第2期に持ち越され、RA301は期待の大きさとは裏腹に「無冠の最強マシン」と呼ばれることとなります。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...