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「トヨタ、日産の鼻を明かせ!」完成度が低いまま世に出てしまったホンダ1300【推し車】
目次
「失敗作」だけで切り捨てるには惜しいクルマ
一般的に、ホンダ1300は「パワフルでも重たすぎる空冷エンジンを積み、速かったけど操縦性は最悪でユーザーに嫌われたクルマ」と考えられています。
結果として自慢のDDAC(一体構造2重壁空冷方式)エンジンは一代きりになりましたし、生産末期にはラインを流れるホンダ1300の少なさに設計陣が真っ青になり、反面教師として初代シビックが生まれたのもまた事実です。
しかし、3年ちょっとの生産期間で10万台以上を販売したことや、1970年にクーペやAT車が追加された頃から操縦性も劇的に改善されたこと、そしてホンダが小型車の知見や生産技術を飛躍的に発展させたという事実もあり、ただの失敗作とも言い切れません。
ホンダ1300以前のホンダ小型車
四輪車への参入にあたり、後から通産省(現・経済産業省)に余計な横槍を入れられないよう、軽トラのT360と小型車のスポーツカーS500、2本立てで始まったホンダですが、その後はどんな小型車を作っていたのでしょうか。
軽自動車のエンジン排気量を上げた小型車版T500やN600E(他に輸出用N400)、S500発展型S600/800、S600/800用エンジンをデチューンして積んだライトバンのL700/800とピックアップトラックのP700/800が、ホンダ1300以前に発売された小型車の全てです。
もう1台、L800をベースに2ドアハードトップとした「N800」も東京モーターショー1965へ展示し、ホンダ初の本格的な小型乗用車になる可能性もありましたが、こちらは時期尚早と市販化を見送っています。
しかし、1967年に発売した軽乗用車N360が、それまでの定番車スバル360を蹴落とす大ヒット作になると状況は一変、ホンダの乗用車を求めるユーザーが販売店に殺到し、ライバルメーカーも「ホンダは次に何をやるのか?」と、戦々恐々とするのでした。
トヨタ、日産の鼻を明かせ!
N360発売から半年後の1967年9月、ついに本田 宗一郎氏を先頭とするホンダの開発部隊が動き出します。
常日頃から「真似をするな!」が口癖の宗一郎氏、今回の目標も「やるからには先を行くトヨタ、日産の鼻をあかすクルマでなくてはならない」と意気軒高で、ワンランク小型のエンジンで性能と経済性を重視し、十分な競争力を備える」としました。
そのために必要としたのが空冷エンジンで、N360で自信を得ていたのか、「水冷エンジンだってラジエーターで水を冷やすんだから、最初から空気で冷やせばいいし、水漏れの心配もない。」というのが、宗一郎氏の持論です。
ただし騒音や振動に目をつぶったN360と異なり、騒音は水冷エンジン並に留めるよう指示が出され、画期的なDDAC(一体構造2重壁空冷方式)エンジンの開発へと突き進みます。
この開発が難題で、軽自動車ならいざしらず、小型車用で小排気量な割にパワフルにすると熱量がハンパなく、苦心してどうにか冷やして当時の1.3リッターレシプロエンジンでは破格の115馬力(4連キャブレター仕様)を実現しますが、とにかく重くてかさばりました。
もっと問題なのは、宗一郎氏がスパナをぶん投げ、怒鳴り散らしていた二輪開発時代と同じノリで開発から生産まで細かく口を出したことで、少しでもいい製品を作ろうと思えば内容に間違いはなかったものの、現場は大混乱に陥ります。
しまいには生産ラインを止めて生産中のクルマをバラし、設計変更した部品へ組み替える騒ぎになって発売延期になりました。
もちろん「発売してから少しずつ直せば…」と言うのは簡単ですが、後発の新参メーカーもいいところなホンダにそんな余裕があるはずもなく、とにかく少しでも問題のある製品を、そのまま売るわけにはいかない、という宗一郎氏の気迫が、理屈を上回ったのです。
完成度が低いまま世に出てしまったホンダ1300
しかし実を言うと、そんな宗一郎氏こそ細かい事にこだわりすぎて本質を全く見失っていたようです。
あるいは、当時N360に突きつけられた「欠陥車」という非難(結果的には言いがかりに近く、むしろ非難した側が恐喝などで訴えられて実刑判決を受けた「ユーザーユニオン事件」)への対応もあったため、重大な時期に見落としたあったのかもしれません。
1969年6月、まずは4ドアセダンから発売されたホンダ1300ですが、DDACエンジンは静粛性に優れパワフルだったものの、水冷よりよほど複雑で重くなり、前後重量配分が極端なノーズヘビーだったのに対し、足回りやタイヤの性能がついていかなかったのです。
そのため、「確かに速いが極端なアンダーステアで曲がらず操縦性は劣悪、あまりにマニアックすぎてファミリーカーとしては不適」などという評価が後年まで伝わっています。
ただし販売面では月販3,000台程度と初めての本格乗用車にしては悪くない数字で、翌年にクーペやAT車が追加されると5,000台を超えるほどだったので、ユーザーも「ホンダの小型乗用車」に期待していたようです。
ただ、それだけに不評も一気に広まってしまい、結果的にはホンダ1300の寿命を縮めることになりました。
クーペで劇的に改善されるも、時すでに遅し!
もちろんホンダも市場からの悪評を放置せず、1970年2月に追加された2ドアクーペ版、「クーペ7」(シングルキャブレター95馬力)と、「クーペ9」(4連キャブレター110馬力)では、いくらクーペとはいえ同じホンダ1300とは思えぬほど劇的に改善されます。
エンジンのセッティング変更で最高出力は5馬力ほど下がる代わりに燃費は改善、固めた足回りもしっかり熟成され、操縦性も良くなっていたのです。
居住性も良かったクーペ、それに同年3月に追加されたAT車で拡販に大きく貢献しますが、一方でそれがホンダ1300にとってのピークだったようで、1970年も半ばを過ぎると勢いを失い、マイナーチェンジでテコ入れしても販売不振を止められなくなります。
さらに悪いことには、アメリカで1970年に制定された「マスキー法」で課される排ガス規制は、細かい燃焼制御が可能な水冷エンジンでないと達成困難、つまり空冷エンジンなど作り続けても、無駄になってしまいました。
広まる悪評、未来がないどころか、早急に切り捨てねばならない空冷エンジンの二重苦に陥ったホンダ1300はわずか3年少々で生産終了、水冷エンジン化したホンダ145も性能はともかくデザインがそのままではイメージが悪く、2年足らずとさらに短命で終わります。
最後まで空冷エンジンにこだわりたかった本田 宗一郎氏も、致命的な部分で技術的センスが欠けていることを最後には認めざるを得なくなり、新型軽乗用車「ライフ」(初代)へ水冷エンジン採用を認めたのを契機に、技術者としては引退しました。
初期の熟成不足が本当に惜しまれる1台
現在、ホンダコレクションホールには白いホンダ1300クーペ9Sが展示されていますが、丸目4灯ヘッドライトと鼻を突き出したようでダイナミックなフロントマスク、FF車でありながらボリュームがあるリアフェンダー周りなど、「色気」にあふれています。
1974年生まれの筆者が物心ついた頃には、ホンダ1300など全く見かけず、解体車の看板代わりに置かれていた妙にカッコイイ廃車が今思えば1300クーペだったなというくらいで、現役当時に近い姿を見るのは初めてです。
4ドアセダン版も含め、劣悪な操縦性の元凶となっていた足回りさえ最初からシャンとしていれば、排ガス規制で空冷エンジン版の早期販売終了は避けられなかったにせよ、水冷エンジン版145も含めもう少し売れて、後々まで普通に見るクルマだったかもしれません。
ただ、この失敗がないと初代シビックが生まれなかった可能性を考えれば、ホンダにとっても自動車の歴史そのものにとっても、ホンダ1300は「いい勉強になったクルマ」ということなのでしょうか。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...