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社員がコッソリ作り…怒られると思ったら社長が「まさかのGOサイン」初代日産シルビアとは【推し車】
目次
歴代シルビアとは別格の「工芸品」、初代シルビア
絶えず復活が待望される日産のFRスポーツクーペ「シルビア」ですが、その始まりは1960年代にありました。
ただし初代CSP311シルビアは「クローズドボディのFRスポーツクーペ」という以外、2代目S10以降発展していき7代目S15で終わるシルビアとは、何の関係もありません。
まだ日本車が戦後ヨチヨチ歩きの時代から、とにかく形だけでもとダットサン・スポーツDC-3を作ってしまうくらいスポーツカーに寛容だった日産ですが、初代シルビアは中でも日産車内の上層部にも秘密な極秘プロジェクト…つまり社員が勝手に作ったクルマです。
それだけに理想がテンコ盛り、発売してみたらセドリックよりよほど高いのでほとんど売れないレア車になってしまいますが、それだけにむしろ芸術性の高い工芸品のような魅力を今も放っています。
ヤマハも関わった秘密のクルマ
1963年3月、日産社内で1人のデザイナーがスポーツカーのスケッチを描いていました。
後に初代シルビアとなるそのスポーツカーは、リトラクタブルヘッドライトを装備したファストバックの2ドアクーペで、市販された丸目4灯ヘッドライトのノッチバック2ドアクーペとは異なったものの、基本的なデザインは既に仕上がっています。
初代シルビアに関わったとして世界的デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツが時々話題にのぼりますが、彼が日産のアドバイザーとして来日したのはその2ヶ月後で、シルビアにはほとんど関与しておらず、むしろA550X(※)絡みの仕事が多かったとか。
(※通称「日産2000GT」とも言われる、トヨタと提携以前のヤマハと共同開発していた、幻のスポーツカー)
そもそも日産社内デザイナーによるスケッチ自体、正式なプロジェクトとして始まったものではないどころか、上層部にもナイショで勝手にスポーツカーを作ってしまおうという、当時の日本にまだ残されていた、大らかなエピソードのひとつでした。
A550Xの話がちょっと出たように、当時の日産は提携関係にあったヤマハへ極秘のスポーツカー開発からフェアレディの幌まで大小さまざまな仕事を委託しており、例のスポーツカーのスケッチも何をどうやったのか、ヤマハが実車の製作を担当します。
急いだのは1963年10月の「第10回全日本自動車ショー」(翌年東京モーターショーとなり、現在はジャパンモビリティショー)に間に合わせるためで、出展予定車として社内に発表された時、予定にないクルマが混ざっているのを見た日産上層部は面食らったそうです。
ミケロッティのコンテッサ900スプリントに憧れて
そもそもなぜ、こんなクルマを勝手に作ったかといえば、前年の1962年に日野がジョバンニ・ミケロッティへデザインを委託し、トリノショーで発表された「コンテッサ900スプリント」の美しさに件のデザイナーたちが驚き、大いに刺激を受けたことに始まります。
「俺たちも来年のショーで負けないくらい美しいクルマを出展するぞ!」と意気込んだものの、当時の日産は既にオープンスポーツのダットサン フェアレディ1500(SP310)をラインナップしていました。
まだマイカー元年(1966年)も迎えていない当時、日産のようにお硬い大企業で2台もスポーツカーを売るのは無謀な話と考えたか、あるいは企画が却下されたのかは不明ですが、コッソリ開発されたスポーツカーを目にした上層部も、ただ怒ったわけではありません。
当時はコンセプトカーという概念が薄かったようで、売る気のないクルマを出展するのはまかりならん、出展するなら生産計画を出せ!と怒鳴ったのは当時の川又社長で、一通り怒られはしたものの、何しろ社長が生産計画を出せというのです。
これで初代シルビアは正式なプロジェクトへ昇格し、さすがに目前のショーへ展示するのは認められなかったものの、翌1964年の東京モーターショーで「ダットサンスポーツ1500」として発表されました。
手間暇かけただけの美しさが魅力の「クリスプカット」
先に書いたように、あくまで「美しいデザイン」を目指したゆえに性能までこだわりはなかったようで、ダットサンスポーツ1500のベースはフェアレディ1500で、単純に言えばラダーフレーム上のボディを載せ替えただけです。
1965年4月に発売された、市販型の初代「シルビア」では翌月発売のフェアレディ1600(SP311)がベースとなり、ちょっと先行して発売する形になりましたが基本は変わりません。
セドリックなどに積む1.9〜2リッター級のH型をベースに、1.6リッターへ排気量ダウンしたショートストロークエンジンR型を積み、SUツインキャブを組んで90馬力。
基本的にはトラック由来のラダーフレーム車なので重く、足回りもチープなのを強力なエンジン任せで乗りこなすというスパルタンな面はフェアレディそのままで、独立トランクを持つノッチバックのクローズドクーペですが、2+2ではなく2シーターなのも同じです。
初代シルビアはスポーツカーとして云々、スペックが云々という次元のクルマではなく、「美しい芸術的なデザインが公道を走っている」というところに最大の意義があり、カットされた宝石のような「クリスプカット」と呼ばれるデザインは秀逸でした。
最大の特徴は開口部を除けばほとんど継ぎ目がないことで、パネルを組み上げて継ぎ目を消すという、プラモデルを作るモデラーならお馴染みの手作業を実車で1台1台行うのですから大変です。
プロトタイプを作ったヤマハは既に提携解消していたため、ボディ製作は神奈川県平塚市の架装メーカー、殿崎製作所(現「トノックス」)へ委託されましたが、販売価格は120万円ほどと、当時の日産最高級車、セドリック・スペシャル6(115万円)より高価になりました。
そのため約3年で生産台数はわずか554台に留まりますが、価格を考えればそれしか売れなかったというよりむしろ、「価格もデザインも宝石みたいな高級クーペが、当時よくそんなに売れたものだ」と思えます。
そのスポーツカー、ダットサンにあらず
ショーモデルではダットサンスポーツ1500として展示され、実際ダットサンフェアレディがベースですから、「ダットサン シルビア」で市販してもよさそうですが、これには上層部から物言いが出ました。
すなわち、これほど美しく高級なボディはあくまで大衆車ブランドのダットサンに馴染まない、セドリックなどと同じように日産ブランドで出したまえ、というわけで、「ニッサン シルビア」として販売されたようです(※)。
(※ただし、オーストラリアへ輸出された時など、海外では「ニッサン」ブランドの知名度がない時代のため、「ダットサン1600クーペ」を名乗っています)
ボディが違うだけでフェアレディよりだいぶ格上に見られたわけですが、セドリックより高価なダットサンがあるのも妙な話なので、それで正解でした。
なお、CSP311という型式からもわかる通り、SP311フェアレディ1600のクローズドクーペ版とも言える初代シルビアですが、オープンボディの「シルビアコンバーチブル」も確認されています。
試作に終わったのか、単にラダーフレーム式でオープン化が容易(ダイハツ コンパーノスパイダーが好例)だからと改造された特装車かは不明ですが、もし後者であればなんとも贅沢な話で、現存していればトヨタ2000GTボンドカー仕様並の価値がありそうです。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...