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伝説のスポーツカー「最後で最高のRX-7」が示したマツダスピリット【推し車】

「RX-7なんて3代同じ」という人もいるが、実はスゴイこと

マツダミュージアムに展示されている3代目「アンフィニRX-7」

「リトラクタブルライトの3ドアファストバッククーペ、フロントミッドシップ、最後は3ナンバーボディになってワイドトレッドだけどホイールベースはほとんど一緒、デザインや足回り、エンジンはそりゃ違うけど、RX-7なんて3代とも同じようなもんでしょ?」

身もフタもない言い方をする人にかかってはこんな評価を受ける事もありますが、実はコレってスゴイことなんです。

マツダって2012年の初代CX-5や3代目アテンザに始まる通称「第6世代」からはコンセプトが各モデル一貫するようになり、誤解を恐れずにに言えば「どれに乗ってもマツダ、外から見てもマツダ」になりましたが、それ以前はバラバラでした。

特に1990年代まではモデルチェンジすると先代からガラリ変えなきゃダメという妙なこだわりがあったらしく、1978年に発売された初代SA22Cから、2002年に生産を終える3代目FD3Sまで「同じ」コンセプトを貫いたマツダ車なんてRX-7くらいなものです。

それだけ純粋、純血のスポーツカーなんて国産車ではほとんどなく、ロータリーそのものは次のRX-8(2013年販売終了)で終わり、後は発電用でしか残らないと思いますが、RX-7が続けたFRピュアスポーツの志は、今もロードスターで生きていると思います。

開発スタートは早すぎず遅すぎない最高のタイミング

走りに特化したピュアスポーツということは、このデザインひとつとっても疑いなく信じられる

3代目FD3S型RX-7の開発スタートは1986年秋、2代目FC3S発売からわずか1年後でしたが、スタート時期がそのタイミングだったのは、ある意味幸運だったかもしれません。

その前年、1985年9月には先進5カ国の財務大臣・中央銀行総裁会議によって、詳細は省くものの円高ドル安の進行を容認する「プラザ合意」を発表。

これで日本は主要市場であるアメリカで、極端な貿易黒字解消のため各種日本製品の価格引き上げ要因となり、日本車もそれまでの「安くてよく走るクルマ」から、「高価格高品質路線」への質的転換を要求されるという、歴史的な出来事でした。

おかげでその時期に発売されたスポーツカー、マツダなら2代目サバンナRX-7(FC3S)や日産の3代目フェアレディZ(Z31)はモデル途中で価格に見合った高級スペシャリティカー路線も要求されますが、基本コンセプトから急に転換できず苦労した頃です。

その後に計画がスタートしたFD3Sは最初から高品質・高性能路線でイケましたし、もう少し後だったならば、その後のバブル景気の調子の良さに乗った高級スペシャリティカー的な要素まで求められ、縮小版ユーノスコスモやMX-6ロータリー版になったかもしれません。

また、それらの隙間で生み出された「もう1つのFRスポーツ」、ロードスター(初代NA型)が存在したことで、2代目に存在したようなRX-7カブリオレ(FC3C)も作らず済みました。

2代目よりピュアな「最後で最高のRX-7」

フロントのリトラクタブルヘッドライトとともに、3ドアファストバッククーペというスタイルも初代SA22Cから不変だった

開発に当たっては、バブル崩壊後に経営悪化の根源とされる販売5チャンネル体制で販売するため、急増する車種の開発に追われたマツダ社内とは隔絶されたようで、1988年に各部署横断型の開発タスクフォースチームを結成、最高のピュアスポーツ開発体制を組みます。

大掛かりな部分では、2代目後期に205馬力まで向上していた13Bターボをさらに255馬力へパワーアップ、さらに旧海軍の名機で軽量化にこだわった「零式艦上戦闘機」と無駄をゼロにするという意味の「ゼロ作戦」を発動、パワーウェイトレシオは5kg/psを切ります。

流線型というより、流面形の究極版といえる曲面を多用したデザインは空力効果も抜群だったほか、当時話題になっていたステルス戦闘機になぞらえ、「レーダー式オービスに対してもっともステルス性を発揮するのでは?」とまで言われました。

開発ターゲットはポルシェ(時期的に944ターボでしょうか)でしたが、それ以前に勝たねばなるまいと意識したのはホンダの初代NSX。

とにかく軽さにこだわりたい開発陣は、ボディまでオールアルミのNSXを横目に自らはサスペンションなど部分的なアルミ化で妥協したものの、「半分の価格でNSXより速ければいい」と筑波サーキットのラップタイムに挑んで勝利し、溜飲を下げました。

一応は5チャネル体制に組み込まれ、新ブランド「アンフィニ店」専売で1991年10月にアンフィニRX-7として発売、フラッグシップこそ3ローターの20Bを積むユーノス コスモ(1990年)へ譲ったものの、歴代マツダロータリー最強としてデビューしたのです。

13Bターボのまま280馬力自主規制値へ到達、そして終焉

空力のみならず、実に色気のあるテールデザインは何にも似ておらず、デビューから32年たった今でも古さを感じさせない

しかし、FD3Sの発売時点で既に、マツダはバブル崩壊による泥沼へズッポリと首までハマっていました。

販売チャネルを増やすため車種を急増させる一方、それぞれにバラバラな個性を持たせるためギリギリまで凝った開発体制と、生産現場の混乱による品質低下はバブル真っ只中なら許されて販売台数増加につながりましたが、バブルが崩壊すると、もう見向きもされません。

FD3S販売翌年の1992年には、販売計画の失敗で在庫を抱えたマツダは「全社員3万人へ8年96回ローンまで準備して販売促進を始めた」と報道される有様で、誰も買ってくれないから社員へ買わせるしかないという断末魔に陥っていました。

そんな中でRX-7とロードスターが生き残れたのは奇跡のようにも感じますが、あまりに象徴的意味合いが強すぎ、なくす事もできなかっただけかもしれません。

それどころか、1994年に実質的にフォード傘下入り(正式には1997年)する中でも地道な改良が続けられ、1996年にはMT車が265馬力へと出力向上、1999年にはついに280馬力の自主規制値へと到達しました。

日産のRB26DETT、トヨタの2JZ-GTEなど大排気量レシプロターボはもとより、三菱やスバルの2リッターターボより遅い実現でしたが、2ローターの13Bターボでもライバルへ遜色ない動力性能を手に入れたのです。

軽量ゆえにパワーウェイトレシオも抜群で、動力性能と旋回性能の双方が優れており、高速コースからジムカーナのような激しい加減速と旋回を繰り返すコースまでステージを選ばぬ活躍で長きにわたり活躍しますが、排ガス規制もあって2002年に生産を終えます。

1978年に自然吸気仕様12Aロータリーから、FD3S末期の280馬力版13Bロータリーまで発展させつつ、ライバルのようにGT路線や実用車の高性能版ではなく、常にピュアスポーツとして3代に渡って発展できたのは、当時はRX-7くらいなものでした。

いくら頑張ってもレシプロエンジン並の低燃費は困難で、ハイブリッド化による重量増とも相容れないロータリースポーツは今後も新型車の登場は絶望的と思われ、発電用エンジンが唯一の活路と思いますが、形ばかりのロータリースポーツを作るよりいいかもしれません。

ただひたすら速く──ピュアスポーツとして”純粋”なまま、2ドアロータリーロケットはFD3Sでその歴史を閉じ、伝説となるのにふさわしいクルマなのですから。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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