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クルマ好きにブッ刺さった《FRライトウェイト・オープンスポーツ》世界を震撼させたユーノス ロードスター【推し車】
目次
忘れられていただけで、実は多くのユーザーが待っていた
バブル時代に開発され、発売前には「昔のロータス エランの真似」と陰口を叩かれ、当のロータスは同じGMグループ(当時)であるいすゞのエンジンを積んだFFの新型「エラン」を発売しようとしていた頃、そのクルマは世に出ました。
その名は、ユーノス ロードスター。
「トヨタに追いつくなら今が最後のチャンスだ」と、当時のマツダが大博打を打った販売網拡充策、5チャンネル体制の一翼を担うユーノス店の看板車種だったことから、当初はロードスターという車名より「ユーノス」と呼ばれていました。
時代遅れの遺物と思われていたFRライトウェイト・オープンスポーツは、実はその誕生を待ち焦がれていたユーザーから熱烈な歓迎を受ける大ヒット作となり、世界中の自動車メーカーを慌てさせたのです。
売っていないのは、誰も欲しがらない証明にはならない
1960年代には世界中で販売されており、日本でもダットサン フェアレディやホンダSシリーズを筆頭に、車種ラインナップに欠かせなかった、小型軽量のライトウェイト・オープンスポーツ。
しかし、1970年代のオイルショックで省燃費対策、さらにマスキー法で過酷な排ガス規制対策を迫られた当時の自動車メーカーは、いずれも新たなスポーツカー開発どころではなくなります。
既存のスポーツカーは多くが排ガス規制対策でパワーダウンを強いられ、レスポンスも最悪なエンジンで形ばかりとなり、パワー不足を補う大排気量化で燃費は悪化、車両価格とガソリン代の高騰によるダブルパンチを受けて気息奄々。
さらに1980年代にかけて時代は効率化を求め、最小限のサイズで最大限のスペース効率を追求可能なフロントエンジン・前輪駆動のFF車へと移行していき、しぶとく生き残った一部のスポーツカーを除けば、後輪駆動など大型車や高級車、商用車だけになっていきます。
しかし、「だからといって、後輪駆動のライトウェイト・オープンスポーツを誰も欲しがらない理由にはならない」とばかり、その復活に情熱をかけるメーカーが、東洋の小国にひとつだけありました。
広島のマツダでコンピューターを駆使した車体設計を得意とするエンジニアのひとり、貴島 孝雄氏が立ち上がったのは、1980年代半ばのことです。
「発売されたらぜひ買いたい!」と絶賛された試作ボディ
しかし、悪夢のような1970年代をかろうじて乗り切ったとはいえ、中小メーカーのひとつに過ぎないマツダには、ロータリースポーツのRX-7のほかにもう1車種、FRスポーツを作っても採算が取れるかの確信がありませんでした。
そこで1987年4月、主要市場のアメリカへプラスチック製の実物大モデルを持ち込み、220人のユーザーへグループインタビューを敢行したところ、57人が「発売されたらぜひ買いたい」と回答したのに力を得て、開発は加速します。
開発当時、広島県三次市にあるマツダのテストコース、「三次自動車試験場」では貴島氏がロードスターの試作車のステアリングを握って精力的に走り込む姿が見られました。
ある時など、他にテスト中の試作車をさっそうと追い抜き、かと思うとしばらく先でガードレールに刺さっていた、という逸話が残るほど実戦的な走行試験が行われていましたが、デザインが好評でも肝心の走りがイマイチでは駄作に終わりますから当然です。
ロードスターにとって幸いな事には、開発主管である貴島氏が会社の上層部から作れと言われたクルマではなく、自ら作りたい、乗って走りたいクルマを作りたいという情熱の果てに存在した事で、よく言えばユーザー目線、言い方を変えれば趣味丸出しの開発体制でした。
「人馬一体」にパワーはいらない
「趣味丸出し」の開発が行われて幸いだったのは、メーカー間で意地を張るようなスペック争いに巻き込まれずに済んだ、という面もあります。
1980年頃を境に、日本版マスキー法と言われた昭和53年排出ガス規制をクリアした日本の自動車メーカーは、電子制御による燃焼制御や理想的な理論空燃比で最大の効果を発揮する三元触媒の実用化もあってパワー競争を始めていました。
ターボとDOHCどちらが有利か、という論争の果てにDOHCターボが実用化され、軽自動車にまで積まれるようになって、普通車なら280馬力、軽自動車なら64馬力と自主規制が始まろうとしていた時代なので、スポーツカーならモアパワーが当然と思いがちです。
しかし、開発中のロードスターに選ばれた搭載エンジンは、電子制御インジェクションのDOHCでこそあれ、ファミリアからの転用でわずか120馬力と、実用エンジンそのものの平凡なスペックでしかないB6-ZE。
後に1.8リッター130馬力のBP-ZEに変更されたとはいえ、2代目NBロードスターで復活、3代目NCで2リッター化するも、4代目NDの日本およびヨーロッパ仕様では再び1.5リッターへダウンサイジングされたように、必ずしもパワーは必要とされません。
むしろピークパワーよりアルミボンネットなど軽さを追求した軽量ボディと、4輪ダブルウィッシュボーン独立懸架による軽快な走りが求められましたが、B6-ZE自体も気持ちよい吹け上がりや排気音のチューニングが行われ、その完成度を高めました。
よーいドン!からの加速競争や、長い直線で最高速勝負をするクルマならともかく、ドライバーの意思通りにヒラヒラと舞うように走る、人馬一体のスポーツカーには過剰なパワーなど無用なのです。
クルマ好きが飢えていたFRライトウェイト・オープンスポーツ
1989年にまずはアメリカで、次いで日本本国でもロードスターが発売された時、日本では1987年に生産を終えたAE86カローラレビン/スプリンタートレノを最後に、1.6リッター級の小型FRスポーツが絶滅していました。
ましてやオープンスポーツとなると、1970年にダットサン フェアレディ2000(SR311)やホンダ S800が生産終了して以来、FFハッチバック車のカブリオレ版やマツダ自身によるRX-7カブリオレ(FC3C)があったとはいえ、小型FRオープンスポーツは皆無です。
日本での発売前には、「昔ロータスが売っていたエランの真似」とも言われましたが、実は「現代の技術で蘇ったエランのようなスポーツカー」に飢えていたユーザーは多く、発売されるや日米のみならず、世界中で大ヒットとなります。
純粋な2シーターのピュアスポーツは、もちろん家族で乗ることなどできずファミリーカーとしての実用性は皆無、たいした荷物が積めるわけでもなくスペース効率は最悪で、ただ最大2名が乗れて気持ちよく走れるだけ。
しかしその割り切りこそ、絶えて久しくユーザーが待ち望んでいたスポーツカーであったことに間違いなかったのです。
美しいデザインが一役買ったのも確かですが、基本的には気持ちよく走りたいと思った時に応えられるクルマだった事が、最大のヒット要因でしょう。
世界中の自動車メーカーは慌て、そしてついていけなかった
これに慌てたのが、「そんな古臭いクルマに需要などあるのか?」と首を傾げていた世界中の自動車メーカーで、BMW Z3、ポルシェ ボクスターなどを筆頭に、トヨタ MR-S、本家本元ロータスはエリーゼ、オペルすらロータスと共同でスピードスターを作ります。
後輪駆動だけでなくFF車でもフィアット バルケッタがありましたし、ホンダもS2000を発売、バブル時代の軽スポーツABC(AZ-1、ビート、カプチーノ)もあり、国内外の自動車メーカーが1990年代から2000年代にかけ、ロードスター的なクルマを続々発売しました。
そして、そのほとんどが一時の盛り上がりだけで消えていき、地道に続けているのはポルシェ ボクスターや、ダイハツ コペンなど限られた一部のメーカーだけです。
オープンカー以外の小排気量FRスポーツという意味では、トヨタが1.5リッターのS-FRを発表したものの結局市販を断念したように、ロードスターと二分、あるいは打倒して奪うほどの市場はなかったものと考えられます。
そうなると最初に発売して熱狂的なファンを獲得していたロードスター(海外名MX-5、またはMX-5ミアータ)のひとり勝ちですが、5チャンネル体制崩壊により「ユーノス」ブランド消滅、マツダ自体も存続の危機にさらされる中、よく続けてきたものです。
ただ「情熱を燃やす」だけではなく、「他の何をガマンしてでも、走る楽しさだけは忘れられない!」と、燃やした情熱の火を絶やさないのが肝心で、ロータリーエンジンもそうですが、これぞマツダの得意技!なのかもしれません。
2回も潰れかけては不死鳥のように復活したことといい、マツダのようにしぶといメーカーでなければ、FRライトウェイト・オープンスポーツなど、そうそう作り続けられないのでしょう。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...