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不死鳥の如きロータリー復活劇「フェニックス計画」第1号、初代マツダ コスモAP【推し車】
マツダとロータリーにとって重要な役割を果たしたコスモAP
1973年、第1次オイルショックによる原油価格の高騰、それにより燃費の悪いガス食い車としてロータリーエンジンは糾弾され、大手メーカーは次々に開発中止、既に実用車にすら搭載して大々的に売り出していたマツダは窮地に立たされました。
その後、1978年にサバンナRX-7でピュアスポーツ用としてロータリーを復権させ、1980年にはFFハッチバックの5代目ファミリアで深刻な経営危機から脱したマツダですが、その間に重要な役割を果たしたのが、コスモスポーツの名を受け継いだ「コスモAP」です。
初代と異なりレシプロエンジン車も設定しましたが、排ガス浄化装置の最新型REAPS5を搭載、低燃費化に成功した13Bおよび12Aロータリーも搭載、高出力な環境対策車としての面目を保ち、マツダロータリーを次世代につなげる重要な役割を果たしました。
一度は消えかけたマツダロータリーの灯
アメリカで1970年に改正された大気浄化法、通称「マスキー法」は、その厳しさからアメリカの自動車メーカーのみならず対米輸出していた各国のメーカーをも震え上がらせ、実現困難とすら言われました。
結果的には大幅に緩和されて施行されたものの、アメリカ以上に大気汚染問題が深刻化していた日本ではほぼそのまま、日本版マスキー法と言われる「昭和53年排出ガス規制」へ至る厳しい規制が段階的に施行されます。
それに先立ち、初期のマスキー法へ対応すべくホンダが副燃焼室方式のCVCCを開発しクリアしたのと並び、マツダもロータリーエンジンへ「REAPS」と呼ばれる排ガス浄化装置を採用し、いち早くマスキー法をクリアしました。
しかし、REAPSはNOx(窒素酸化物)が少ない反面、排出量が多かったHC(炭化水素)をサーマルリアクターへ燃焼させるために燃調を濃くする必要があって、もとから高出力発揮時の燃費は褒められたものでなかったロータリーエンジンの燃費がさらに悪化。
そこで第1次オイルショック(1973年)の影響で1974年からガソリン価格が高騰し、「排ガスはクリーンでも燃費の悪い」REAPS仕様ロータリーは非難され、実用車にまで広くロータリーを搭載していたマツダは極度の販売不振に陥り、深刻な経営危機を迎えます。
マツダが意地を見せた「フェニックス計画」第1号、コスモAP
しかし、マツダにはここまでロータリーを進化させてきた自負から、その存続は社会的責任であり、ユーザーへの信義に関わることだという想いもあって、ロータリーの燃費40%改善を目標とした5カ年計画、「フェニックス計画」を1974年に始動します。
排ガスがクリーンなサーマルリアクター方式そのものは間違いではなく、問題は燃調が濃くて燃費が悪い事なので、燃調が薄い希薄燃焼でもサーマルリアクターでのHC浄化ができるように改善した改良型REAPS、「REAPS5」を開発。
さらに対応が遅れていたレシプロエンジン用にもサーマルリアクター方式の排ガス浄化装置を開発し、こちらは「CHAPS」と名付けました。
これらはさらに改良を加えつつ既存のマツダ車に搭載されていき、最終的にはピュアスポーツの初代サバンナRX-7への搭載や、サーマルリアクター方式から触媒方式に移り、昭和53年排ガス規制にも対応しますが、まずは目先のイメージ回復が急務です。
それには既存車とは別のまっさらな新型車が好ましく、高出力で低燃費、環境に優しい2ドア高級スペシャリティカーとして開発されたのが、コスモAPでした。
マツダ復活の旗印となったヒット作
1975年に発売されたコスモAPは、12Aおよび13Bロータリーと1.8リッター直4レシプロエンジン(後に触媒式の2リッター直4へ更新)を搭載、REAPS5によってロータリーは従来比40%もの燃費改善に成功しており、「高出力、低燃費」を両立。
もちろん排ガスがクリーンなのは言うまでもなく、他社に先駆け昭和51年排ガス規制を達成、アンチ・ポリューション(公害対策)を意味する「AP」を冠しています。
コスモスポーツが「いかにもロータリー専用車」な平べったいデザインだったのに対し、レシプロエンジンも搭載する高級車として分厚いボンネットと重厚感あるフロントマスクを持ち、細い2本のセンターピラーで小さい窓を囲む斬新なデザインのファストバッククーペ。
さらにイメージカラーとされた「サンライズレッド」のボディカラーは鮮烈な印象を与え、半年足らずで累計販売台数が2万台を超えるヒット作となりました。
1977年にはランドウトップと呼ばれるハーフレザートップのノッチバッククーペ版「コスモL」(Lは「ランドウトップ」の頭文字)を発売、1979年にはコスモAP、コスモLともにマイナーチェンジで異形角型2灯式ヘッドライトとなり、1981年まで販売されます。
あくまで高級クーペのため販売台数の割合は少なかったものの、このままではロータリーもろとも沈みかねなかったマツダを浮上させるキッカケとなり、その後の不死鳥のごとき華麗な復活劇へと結びつける、重要な尖兵となったのです。
なお、コスモAP/コスモLは「コスモスポーツ」から通算して2代目とする見方もありますが、この記事ではマツダ公式「マツダの名車たち コスモ(1975年~)」が、コスモスポーツとは別の「初代コスモ」としているのに従いました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...