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「そこらで黒煙が上がるから、どこにいるかはすぐわかる」色んな意味で忘れがたきマシン・スピリット ホンダ 201C【推し車】

F2からステップアップした、記念すべきF1復帰第1号マシン

ホンダコレクションホールに展示されている、スピリット ホンダ 201C

1980年から4輪レースにも復帰、第2期F1に向けた腕試しとしてヨーロッパF2、全日本F2(1981年から)に参戦し、初期の不振をジャッドの協力で克服すると「台風の目」となって活躍したホンダですが、1983年にいよいよF1へ復帰、「第2期ホンダF1」が始まります。

エンジンサプライヤーとして参戦したホンダエンジンを積む最初のマシンとなったのがスピリット ホンダ201Cで、シャシーもエンジンもF2をベースにした「戦闘力よりまず参戦実績」というマシン。

よい成績は残せず、山積みになった問題もウィリアムズへの独占供給となって以降となりましたが、その後の快進撃へ至る最初の一歩として記憶されています。

ホンダ出資の「スピリット」チーム発足

F2マシン「201」からF1マシン「201C」になったとはいえ、「見るからに無骨で、そこらの鉄工所で曲げたような箱」でしかないサイドポンツーンなど、見るからに速そうではない

ヨーロッパF2ではまずラルトチームにエンジンを供給して「ラルト ホンダRH6」で参戦、熟成が進むんだ1981年以降は初優勝などよい結果も出せるようになりましたが、あくまで本命は1968年を最後に休止(第1期ホンダF1)していたF1への復帰です。

第1期途中のRA300からローラと組んだ「ホンドーラ」体制となってからの好成績もあり、餅は餅屋とばかりにマシン本体(シャシー)はシャシーコンストラクターに任せ、エンジンサプライヤーとしての参戦を目指すホンダ。

ただし最初からいきなり有力チームと交渉するのではなく、イギリスでシャシーコンストラクター「マーチ」のワークスチームへ所属していたゴードン・コパックとジョン・ウィッカムを引き抜き、ホンダの出資で「スピリット・レーシング」を設立します。

同チームはラルトに次ぐ第2のホンダF2チームとして1982年からスピリット ホンダ201でヨーロッパF2へ参戦、後にF1でも活躍するティエリー・ブーツェンのドライブで3勝を挙げるなど、新興チームとしてはよい成績を残します。

ただし「本題はあくまでF1」というわけで、F2に参戦しながら、スピリット201へF1用エンジンを積み、テストを繰り返しました。

復帰初のF1マシン、スピリット201Cと難題だったエンジン

どうしようもないダメエンジンだったRA163Eだが、スピリットからウィリアムズへ早々に乗り換えた事で、あまり引っ張らずに済んだ

1982年シーズン中からテストした、第2期初のホンダF1エンジン「RA163E」ですが、当時のF1はルノーが1977年から始めた1.5リッターターボエンジンの性能が安定し、他のエンジンサプライヤーも3リッター自然吸気から乗り換えようとしていた時期です。

ホンダも3リッター自然吸気か、ターボエンジンか、はたまたV6かV10かとアレコレ検討しますが、結局はF2で実績を残している2リッターV6自然吸気エンジン、RA260Eの1.5リッター化で決まったものの、これがストロークダウンによる超ショートストローク型。

燃焼室の形状や容量も不足しており、ブースト(過給)が立ち上がる高回転域では気持ちよく吹け上がるも低速ではマフラーから黒煙を吹き出してグズり、ボボボ…ブァッ、カーン!と、トルク変動の激しい典型的な「超どっかんターボ」です。

なんでも、テスト走行中にはピットから見えない位置でも「そこらで黒煙が上がるから、マシンがどこにいるかはすぐわかった」というレベルでした。

搭載するスピリット201Cも、名前の通りF2用マシンをF1規定に合わせたキャリーオーバーで、シャシーもエンジンもF2用を無理やりF1向けに仕上げた急造マシンは、どうも洗練されておらずお世辞にも速そうな見た目ではありません。

それでも、1983年4月にブランズハッチ(イギリス)で開催されたノンタイトル戦、「1983レース・オブ・チャンピオンズ」でF1マシンスピリット201Cはデビューし、フリー走行では出走13台中3番手だったと言われますが、予選はまたエンジンがグズり12番手スタート。

決勝でもエンジントラブルによりたった4周でレースを終えるというほろ苦いデビューでした…RA163Eはどっかんターボなだけでなく、パワーを上げると熱に絶えきれずピストンが溶けるという、厄介な欠陥まであったのです。

公式戦はわずか6戦で終わった「スピリット ホンダ」

ブーストさえかかれば無敵のパワーを絞り出すように思えた超どっかんターボに苦労させられたスピリットだが、1984年型マシンの101ではハートエンジンを積み、資金不足に苦しみながら健闘した

その後もパワーと信頼性の両立に努め、1983年半ばにはどうにか600馬力出るのがわかったので、とにもかくにもF1公式戦へ参戦。

ステファン・ヨハンソンのドライブで第9戦イギリスGPへ参戦しますが5周でリタイヤ、結局第14戦ヨーロッパGPまでの6戦で完走扱い3回、最上位は第12戦オランダGPの7位でしかなく、最終戦南アフリカGPはなんと走れませんでした。

というのも、ホンダが本腰入れて参戦すべく見つけてきた強豪チーム、ウィリアムズが「独占供給」を望んで南アフリカGPからRA163Eを積み参戦、「F1続けたいから、2番目でいいから供給して」とすがるスピリットは、無情にもホンダから袖にされてしまったのです。

そのため、F1マシンとしてのスピリット201Cはたった6戦でオシマイ。

ホンダも引き抜いてチーム作らせておき、都合が悪くなればアッサリとハシゴを外すのもあんまりだと思ったのかハートエンジンを買い与え、それを積んだスピリット101で翌年もスピリットはF1に参戦できた…と言われています(ただし資金不足で1985年途中に撤退)。

もっとも、スピリットレーシングとしても新興チームとしてF1へ参戦するため、ホンダをアテにしたという「持ちつ持たれつ」のドライな関係と割り切っていましたから、特にそれで「痴情のもつれによる慰謝料だなんだの争い」には発展せず、円満解消だったそうで。

実際、信頼性が低いRA163E、というよりバッサリ言い捨てれば「どうしようもないダメエンジンっぷり」を厳しく指摘してもらい、全面新設計のRA165Eへ至るにはウィリアムズのような「新興でも上昇志向の強いプロフェッショナル」の力を必要としていました。

ヘタに人情を絡ませ、スピリットと心中していたら第2期ホンダF1の成功はなかったかもしれない…と思えば、「スピリットよ、キミの犠牲はムダにならなかったぞ!」という事になるのでしょうか。

冷酷なビジネスライクと思うか、そういう決断ができるチームじゃなきゃ、F1なんて勝てないと思うかは読者の皆さん次第という事で…。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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