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本田 宗一郎に引退を決断させた《初代ホンダ ライフ》とはどんな車だった?【推し車】
目次
ホンダの転機となる重要な一歩を踏んだ、初代ホンダ ライフ
1970年頃のホンダは、空冷エンジンにこだわったホンダ1300の大失敗と、後に加わる環境対策型のCVCCを含む水冷エンジンを積んだ初代シビックの大成功で、現在に至る世界的自動車メーカーへの道が開けた…というエピソードがよく知られています。
カリスマ創業者の本田 宗一郎氏が技術者として引退を決めたのも、ホンダ1300やF1マシンのRA302が悲劇的な結果に終わったためと言われる事が多いのですが、いずれのエピソードでも、直接の引き金となったクルマは、たいていチラっと名前が出るだけです。
環境対策に有利な水冷エンジンへの転換を本田 宗一郎氏に認めさせ、初代シビックの原型とも言えた初代ホンダ ライフは、ホンダが軽乗用車から一時撤退する末期の短期間で終わったクルマとはいえ、もっと高く評価されるべきでしょう。
メーカー本位から、ユーザー目線のクルマづくりへ
1967年に発売するや、ホンダを当時の軽No.1メーカーへ引き上げる原動力となったN360は、20馬力程度だった他社の軽自動車に対し31馬力と圧倒した動力性能と、BMCミニ(1959年)を徹底して研究、「和製ミニ」を目指したFFレイアウトで大成功!
それまでの人気車種だったスバル360や初代マツダ キャロルを蹴落とし、スズキ フロンテをはじめとするライバルがリッター100馬力に達する36馬力オーバーの高性能エンジン搭載車をリリースする軽パワーウォーズを巻き起こしました。
ただ、N360は「メーカーがユーザーに良かれと作ったクルマがたまたま支持された例」で、快適性や安全性では褒められない面も多く、特に多発した事故はホンダ自身の責任も問われ、結果的に主張が認められたとはいえ、欠陥車扱いで裁判まで起こされます。
その反省から、N360のモデルチェンジではユーザー目線で要望も積極的に取り入れたクルマづくりへと転換し、「広い生活空間を持ったまろやかなフィーリングファミリーカー」をコンセプトとして、1971年5月に発売されたのが初代ライフです。
超ロングホイールベースと4ドア車の設定
基本的にはN360と同じく、後にM・M思想(マン・マキシマム、メカ・ミニマム)と呼ばれるメカ部分の圧縮と車内空間の極大化を図った2BOXスタイルのFF車です。
しかしホイールベースはN360より80mmも伸ばし、拡大されたキャビンの室内長は日産 チェリーなど小型車に匹敵、新たに設定された4ドア車は、前年まで生産していた初代マツダ キャロルの4ドア車よりドアの大きさも車内空間も大幅に上回っていました。
寸法が限られた軽自動車の4ドア車に、小型車と遜色ない、場合によっては上回る実用性を持たせたのは、現在でも人気のN-BOXなどでも考え方は同じで、スズキやダイハツも数年遅れで4ドア車を投入する先駆けとなります。
通常の「ライフ」では独立トランク式ですが、後から投入した「ライフワゴン」と「ライフライトバン」ではボディ後部を延長してガバっと大きく開くテールゲートを設け、派生車種の「ライフステップバン」は約20年後に大ヒットする軽トールワゴンの原型でした。
豪快な空冷エンジンは滑らかな静粛性の水冷エンジンへ
N360ではとにかくパワー重視で騒音や振動には目をつぶったエンジンですが、カムシャフトをチェーン駆動からコッグドベルト駆動に改めてバランサーシャフトも追加し、何より空冷から水冷になって、その後の排ガス規制対策にも配慮されていました。
エンジンのFFレイアウトも、ミニと同じくミッションの上にエンジンが載る2階建てのイシゴニス式から、エンジンとミッションの直列横置き配置で重心を低くできるジアコーサ式に変更、サスペンションもしなやかな方向にチューニングされた「まろやか路線」。
ホットモデルはツインキャブで36馬力と活発さを維持したものの、どちらかといえば低~中回転の実用域を重視した、誰にでも運転しやすいトルク特性となっており、気合を入れてぶっ飛ばすN360とは対極的に、ファミリーカーとしての要素が重視されています。
こうした路線転換は、クルマ好きにウケるマニアックな方向性より、万人ウケするマイカー時代到来に合わせたものと言えて、カローラやサニーに憧れ、さりとてパブリカやチェリーでもまだ高いというユーザーにも、ファミリーカーを提供できました。
本田 宗一郎による歴史的決断は、ライフ開発時だった
しかし、もっとも変わったのはメーカーとしてのホンダより、開発の前線に立っていたカリスマ創業者、本田 宗一郎氏でした。
フランスGPで爆発炎上したRA302がジョー・シュレッサーとともに非業の最期を遂げ、ホンダ1300が初期の期待と裏腹に急激な販売不振に悩まされてなお、「水冷でも冷却液を空気で冷やすんだから、空冷の方が効率で勝る」という自説を曲げなかった宗一郎氏。
ライフの開発が始まってなお、水冷エンジン採用に首を縦に振りませんでしたが、「オヤジ(宗一郎)は物理を基本的に理解していない」と嘆く若い研究者たちに泣きつかれ、ホンダを二人三脚で育てた名番頭、藤澤 武夫氏がこう迫りました。
本田さん、あなたは社長として残りますか。それとも技術屋としてHondaに残りますか
ホンダ公式 語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット 「Honda1300発表」水冷解禁の転機、研究員集会・熱海会談 より
自らの技術者としての限界を認め、社長として残る決断を下した宗一郎氏は、「このままでは排出ガス対応も間に合いません!」と何度目かの直談判で食い下がった技術者へ、ついに水冷エンジンを許可しました。
勝手にしろよ。その代わり、水のメンテナンスだけはちゃんとしろよ
ホンダ公式 語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット 「Honda1300発表」水冷解禁の転機、研究員集会・熱海会談 より
これは初代シビックのエピソードとして語られることもありますが、実際はその原型としてシビックの要素を凝縮、先行していた初代ライフ開発時に起きた出来事で、研究員の熱意と藤澤氏の説得、宗一郎氏の決断によって、ホンダは救われました。
ライフ自体は、品質アップによる高価格化で小型車への優位性を失いつつあった軽自動車市場の衰退と、シビックの大ヒットによる生産集中で、ホンダが軽乗用車からの撤退を決めたため3年半足らずの短期間で終わっています。
しかし、残された開発ノウハウやコンセプト、そして何より水冷エンジンによってシビック以降のホンダの大成功、大躍進につながる、とても重要な役割を果たしました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...