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「あの神風タクシーにも採用」世界で評価される日本車の原点になった名車《日野ルノー4CV》【推し車】

日本の戦後復興期を支えた日野製ルノー車

フロントグリルは日野のオリジナルで、幾度かの変更を経てメッキ枠に横線というデザインになった(画像は1962年式のPA62型)

戦後の日本が自動車大国へと成長するにあたって、各メーカーがその初期にとりえた方針は2パターンあり、1つが「各国の車を参考にしつつ、コピーもしくは自社開発」と、2つ目は「海外メーカーの車を作らせてもらい、技術を蓄積する」です。

1パターン目の代表格がトヨタやプリンスで、2パターン目は戦前に乗用車の経験があるものの、あえて技術導入を狙った日産(英BMCのオースチン車を生産)と、戦後に新しく乗用車への参入を図った三菱(米カイザー車)、いすゞ(英ヒルマン車)、そして日野(仏ルノー車)。

フランスのルノーから750cc級小型車4CVの製造・販売権を取得し、1953年から1963年までと、約10年の長きにわたって販売、主に小型タクシーとして戦後復興期を支えました。

ナチスドイツの占領下で密かに開発された4CV

基本的には第2次世界大戦中に開発、1946年に発売された当時のまま1960年代前半まで販売できた名車

第2次世界大戦中、敗北してから連合軍に解放されるまでナチスドイツの占領下にあったフランスでは、ドイツの戦争遂行用を除く工業製品の開発・生産は厳しく制限されていましたが、不屈のフランス企業は戦後を見据えた独自開発を裏で密かに進めていました。

自動車メーカーのルノーもそのひとつで、750cc級エンジンをリアに搭載、後輪を駆動するRR(リアエンジン・リアドライブ)レイアウトで四輪独立懸架、軽量なフルモノコックボディの小型4ドアセダンを開発します。

モノコックボディと4ドアなこと以外は、戦後に生産が本格化したドイツのフォルクスワーゲン タイプ1(旧「ビートル」)と似たようなクルマで、戦後の1946年、再建のため国有化されたルノー公団が「4CV」として発売。

発表当初の評価は芳しくなかったようですが、とにかく安い国産の新車だからと購入したユーザーによって、「軽くてよく走るいいクルマ」という口コミが伝わり、後継の「4(キャトル)」が発売される1961年まで、約15年も生産されました。

なぜ日野は4CVを選んだのか

フロントグリルだけでなく、形状以外は日野オリジナルのエンブレムに「Hino」の文字が踊る

販売台数が100万台に達する「ミリオンセラー」となったルノー 4CVを、なぜ日本の日野ヂーゼル工業、後の日野自動車(1959年社名変更)が日本で生産・販売したのでしょうか。

1952年、通産省(現在の経産省)が海外メーカーと国産車メーカー2~3社の提携を認め、輸入部品を組み立てる「ノックダウン生産」から、国産化率100%での「ライセンス生産」へ移行する過程で、開発・生産技術を習得させることになりました。

当時、既に東日本重工(旧三菱重工系)がアメリカのカイザー=フレイザーと提携、同社の「ヘンリーJ」をノックダウン生産していましたが、新たに2~3社ということで、日産、いすゞとともに、日野も名乗りを上げたのです。

日産はイギリスのBMCからオースチン A40サマーセット(後にA50ケンブリッジ)、いすゞもイギリスのルーツグループからヒルマンミンクスPH10(後にPH110)を生産・販売する提携を結びましたが、いずれも当時の日本では少々大きいFRの1.2~1.3L級セダン。

競合を避けたい日野は経済的な小型車を希望し、来日したルノーの交渉団が世界中でノックダウン生産を進めているベストセラーの小型車、4CVはまさにドンピシャ!

エンジンと駆動系がコンパクトに収まるRRレイアウトなら、地形が険しい日本の急な上り坂でも駆動輪へ十分なトラクションがかかり、小さいボディでも車内スペースは十分、軽量フルモノコック構造なら、燃費のいい750cc級小排気量エンジンでも動力性能は十分です。

つまりルノー 4CVとは「日本で走るために生まれたようなクルマ」でしたが、第2次世界大戦後も世界中で植民地を維持したフランスにしてみれば、「そりゃどこでも困らないクルマじゃないとね」という事だったのかもしれません。

日野オリジナルの部分も増え、神風タクシーの代名詞にも

内装は簡素だが、それゆえ車内は案外広そうに見える

1953年に日野でノックダウン生産を始めた4CVは、段階的に各部品の国産化率を高め、5年後の1958年には完全国産化を達成しました。

しかし、まだ高度経済成長期の前で所得が低く、マイカーなど高嶺の花だった日本の庶民へ売れるわけもなく、需要のほとんどは小型タクシーです。

このジャンルで国産車といえば、シャシーもエンジンも戦前型設計、デザインだけはアメ車風にしたダットサン DB系が高いシェアを誇っており、1953年に4CVが発売された時点では25馬力の直4サイドバルブ860ccエンジンを積み、4ドア化されたDB-5が販売中です。

それに対し、4CVは21馬力と最高出力は劣るものの、ロングストロークの直4OHV748ccエンジンはダットサンより600ccも低回転で最大トルク(5.0kgf・mでほぼ同等)に達し、330kgも軽い560kgの軽量ボディ(初期型)で100km/hまで引っ張りますから、勝負ありました。

原設計そのままだった初期型こそ、フロントがダブルウィッシュボーン、リアがスイングアクスルの4輪独立懸架サスペンションボディ剛性不足に起因するトラブルで不評だったものの、国産化率が上がり、日野で独自に補強するようになると改善。

しかも補強して重量増加してもまだ軽かったため、よりパワフルな新設計988ccOHVエンジンを積むダットサン210が登場するまで、小型タクシーは4CVの天下でした。

折しも朝鮮戦争(1950年~1953年)による特需で戦後復興が急速に進んでいた日本では、稼ぎ時を逃すまいとしたタクシーが猛烈なスピードで走り回り、特に高性能の4CVは「神風タクシー」と呼ばれる危険なタクシーの代名詞にもなります。

単に高性能なだけでなく、当時の道交法では制限速度が10km/h低くなるのを回避するため、前後バンパー取付部に鋼板を追加して全長を伸ばす(1960年の道交法改正で元に戻る)、後席の居住性改善のためリクライニング角度を寝かせるなど、独自改良も施しました。

年々安くなってロングセラーに、そしてコンテッサへ

突き出したテールにエンジンを搭載、車内スペースを最大限に広く取ったほか、トラクション性能もよかった

1957年になると、初代トヨペット コロナやダットサン210といった1,000cc級の国産小型タクシーも少しずつシェアを増やしていきますが、初期開発コストがかかっておらず、ヒット作となったため量産効果で年々価格が下がる4CVは売れ続けました。

フランス本国での生産が終わり、日野でも初のオリジナル乗用車「コンテッサ900」が発売された1961年を過ぎ、それでも継続販売された4CVは、1963年にようやく生産終了。

ルノーから移転された技術で開発したコンテッサ900も、4CVの高評価から小型タクシーとしてよく使われ、コンテッサ1300(1964年)へと発展しますが、業界再編で1966年にトヨタ傘下となった日野は乗用車から撤退、バス/トラック専業となって現在に至っています。

乗用車メーカーとしては、1967年のコンテッサ1300生産終了までわずか14年のみだった日野ですが、レース好きの社風でコンテッサなどがレースで活躍、今もレンジャーがダカールラリーのカミオン部門へ出場しているのは、4CVの高性能が原点かもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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