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「だまって俺について来い」名神高速10万km連続走行テストで大成功!トヨタ3代目コロナ【推し車】

国産車屈指の販売合戦「BC戦争」で当初ドタバタだったトヨタ

スラントノーズに刃のようなフロントグリルから「バリカンコロナ」と呼ばれた3代目コロナ

1960年代前半のトヨタはまだまだ世界的大メーカーにはほど遠く、極東の果ての小さな弧状列島でシェアNo.1を目指すべく、日産と激しいシェア争いに明け暮れていました。

中でももっとも長く激しく熱い戦いとなったのが「BC戦争」と呼ばれる日産 ブルーバード(B)とトヨタ コロナ(C)の販売競争です。

当初は問題だらけだったトヨタの開発・生産体制のおかげで圧倒的優勢だったブルーバードですが、何度も失敗を重ねてもメゲずに挑戦し続けたコロナが初めて勝利したのは、3代目T40系の発売数ヶ月後(1965年1月)。

しかしその勝利は、その後もヒット作を繰り出すブルーバードに対して長く苦しい戦いを続け、そしてやがては圧倒していく歴史の序盤に過ぎませんでした。

今回は、記念すべき初勝利を上げ、トヨタ博物館に展示されている3代目T40系コロナ4ドアセダンの画像を交えつつ、当時のBC戦争や、何かズレていていたトヨタのクルマづくりを振り返ります。

ダットサンの前ではお呼びでない?こりゃまた失礼いたしました〜!な初代コロナ

短命で終わったマスターを切った貼ったでドアも流用、旧式のS型サイドバルブエンジンではお呼びでなく、ダットサン210に敗れた初代コロナ

戦前からバスやトラックのほか、大型乗用車も作って軍にも供給していた日本の大メーカーといえばトヨタと日産ですが、日産にはもうひとつ、1930年代に手に入れた「ダットサン」ブランドで生産・販売する小型乗用車や小型トラックがありました。

小型車におけるライバルは、三井財閥系の「オオタ」(高速機関工業)が優れた小型車を開発していましたが、軍に食い込んで資材割当で有利だった鮎川財閥(日産コンツェルン)系のダットサンが圧倒的シェアで勝利します。

戦後も再建がままならず没落したオオタを尻目にダットサンはいち早く復興、DA/DBシリーズで小型タクシー需要もつかむと、「1にソロバン、2に電話、3にトラック、ダットサン♪」と歌われた栄光を再び取り戻しました。

そのダットサン(日産)の栄光へ挑んだのが戦後のトヨタで、SA型(1947年)に始まる1リッター級乗用車やトラック改造タクシーはそれなりに好評で、1955年に発売した初代クラウンで大メーカーへの足がかりをつかみます。

しかし同年、日産がダットサンDBの後継として発売した「ダットサン110」に小型タクシーのシェアを奪われたトヨタは、クラウンの保険として開発、短期間販売したタクシー専用車「マスター」を無理やり縮めて旧式エンジンを載せた初代「コロナ」を1957年に発売。

しかし保守的設計に旧式エンジン、マスターを無理やり短縮したズングリムックリなデザインで「ダルマ」と呼ばれたコロナは安いだけが取り柄で、日産が3ヶ月後に新型OHVエンジンを搭載した「ダットサン210」を発売するや、全く売れなくなりました(※)。

戦前からの名門ブランド「ダットサン」を擁し、盤石の体制で迎撃に成功した日産、再起を期すトヨタという構図で、このあたりが「BC戦争」の始まりです。

(※この後も1961年の初代パブリカで「安いだけのクルマが売れない」を繰り返すなど、この頃のトヨタは乗用車づくりがヘタでした)

2代目はダットサンの反撃で撃沈、ハイ!それま~で~ヨ~♪

日本初のティザーキャンペーンとも言われる大胆な広告を打った2代目コロナだが、デザインは褒められても品質と耐久性に難があって初代310ブルーバードに敗れた

短期間の泥縄で作った初代コロナがダットサンに惨敗、何とかしようと新型OHVエンジンP型を載せたトヨタですが、デザインも構造も古臭くては勝負にならず、1960年に発売した2代目コロナが本格的な反撃となりました。

今回はP型エンジンを除けばデザインから何から新設計でしたが、カンチレバー式の新型サスペンションや、気合を入れすぎて生産品質に難のあったボディに耐久性がないとタクシー業界から総スカンを喰らいます。

まさに植木 等「ハイ それまでヨ」2番のごとく、新型車のつもりが「見てくればかりのポンコツ」で、ガタンと止まって「ハイ、それま〜で〜ヨ〜♪」では話にならず、タクシー会社から「フザケヤガッテ、コノヤロー!」と怒られたトヨタは真っ青。

しかも日産は前年にダットサン210の後継、初代「ダットサン ブルーバード」を発売、これがまた非常によいデザインで完成度も高い小型4ドアセダンでしたから、2代目コロナが慌てて改良しても時既に遅し、反撃は大失敗でした。

1963年に参戦してクラウンやパブリカともどもクラス優勝した「第1回日本グランプリ」の成果も、翌年の第2回グランプリでは新型のプリンス スカイライン1500(2代目)に惨敗して帳消し。

さらに、初代クラウンに続いて試みた対米輸出(海外名:ティアラ)も、日本ですら通用しないクルマがアメリカで売れるはずもなく、コロナは初代、2代目と立て続けに「失敗作」で終わったのです。

だまって俺について来い、とばかり世界に転じた3代目が大成功!

フロントバンパーからフロントマスク左右を通り、肩口をテールまで矢のように通した「アローライン」のスピード感と、そのイメージを裏切らない高性能と耐久性の両立を実現した3代目コロナは、歴代初のヒットとなった

クラウンこそ好調とはいえ、本来なら販売の主力であるべきコロナはダットサン110/210/初代ブルーバードに惨敗、初の大衆車パブリカもマツダ ファミリア(いずれも初代)に惨敗では、トヨタの量販乗用車メーカーとしての立場もそろそろ怪しいところ。

そこで一種の開き直りというか根本的に考えを改め、「ダットサンと国内でチマチマとタクシー争いをしている場合じゃない!(※連敗しましたが)輸出でバンバン儲けないと意味がないのだから、国際基準のクルマを作ろう!」と、思い切った方向転換を図りました。

やはり人間、負けた後の反省ばかりしていても後手後手に回ってロクな事にならず、時には「そのうちなんとか、な〜るだろぉ♪ by 植木 等」とばかり、無責任と言われようと過ぎた事は忘れる太い神経も必要です。

幸か不幸か、トヨタには「アメリカのフリーウェイに持っていったら、クラウンもティアラ(コロナ)もパワー、耐久性が全然不足で、てんでダメ」という失敗体験だけは豊富でしたし、1963年に栗東IC – 尼崎IC間が部分開通した名神高速など日本は高速道路時代へ突入。

タクシー業界の言う事をチマチマ聞いているより、世界中(特に北米)で通用する国際基準のクルマを作れば自動的に日本でも通用するクルマになり、高速道路だってバンバン走れるでナイノ?!

3代目コロナは繊細だけど的外れだったクルマづくりから面舵一杯全速前進、ハナから頑丈で信頼性の高い高品質なクルマを作ることにして、デザインはフロントバンパーから持ち上がったキャラクターラインがテールまで矢のように走る「アローライン」を採用。

ユーザーから親しまれたのは、スラントノーズとフロントグリルのパターンから名付けられた「バリカンコロナ」の愛称でしたが、ともかく3代目にしてようやくユーザーに愛されるクルマになって、1964年9月の発売から4ヶ月でブルーバードに初勝利!

さらに対米輸出も、性能や耐久性が満足できるレベルへ達したのはもちろん、当時のアメリカでは数少なかった「オートマも選べる小型輸入車」というのがウケ、世界へ羽ばたくことに成功します。

2代続けてコケたコロナの逆転出世作となった3代目ですが、ようやくブルーバードと対等のスタートラインに立ったにすぎず、2ドアハートトップや高性能版トヨタ1600GTの追加に始まり、モデルチェンジを繰り返しながら長く続くBC戦争はここからが本番でした。

いざ名神高速へ!10万km連続走行テスト

3台揃っているので出発時?名神高速で10万km連続高速走行に挑む3代目コロナ

世界に目を向け、高速道路での長距離巡航でも抜群の耐久性を発揮した3代目コロナを象徴するエピソードが、発売直後に行われた、西宮IC~一宮ICまで部分開通区間の延伸から間もない名神高速での「10万km連続走行テスト」です。

当時の高速道路は交通量が少なく、路肩に駐車して景色を楽しんだり、高速で走り抜けるクルマを眺める「観光客」が続出するなど、交通ルールがあっても実際はテキトーな時代でしたから、コロナのテストも開通前の道路ではなく、一般車がいる中を普通に走ります。

1964年9月14日にスタートした3台のコロナは、途中で1台が一般のトラックにぶつけられてリタイヤしたものの、残り2台は11月までかけて58日間で276往復して10万kmを完走!

開通当初はオーバーヒートなど多数の故障車を出し、国産車では普通に走り切るだけでも容易でなかった高速道路で問題なく通用することをアピールするのに大成功しました。

当時のトヨタはトヨタ2000GTでも長時間のスピードトライアルで世界記録を出したり、モータースポーツでも耐久レースに力を入れており、「高性能と耐久性の両立」を世の中に示していた時代です。

まだ通信手段も限られた当時、地球のどこかで開催された過酷なレースやラリーより、日本国内でこうしたアピールをしたのは非常に効果的で、3代目コロナもその波へうまく乗りました。

「2代目ブルーバード(410)がピニンファリーナの尻下がりデザインで失速したのが幸いした」とも言われますが、仮にそれがなくとも方向性の大転換と効果的な宣伝によって、ヒットする運命だったでしょう。

それは「分かっちゃいるけど、やめられねぇ」とばかり、初代と2代目のコロナで大失敗を繰り返したトヨタが、ようやくクルマづくりを理解した瞬間だったかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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