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1981年の栄光から快進撃へ!決死のヨーロッパF2・ホンダの軌跡とラルト RH-6-84【推し車】

第2期ホンダF1の腕試しとなったヨーロッパF2

ホンダコレクションホールに展示されているラルト ホンダRH6-84

1960年代、2輪での大きな実績を引っ提げ突如F1へ参戦したホンダですが、途中からローラにシャシー開発を頼ったとはいえ強力なエンジンで見事に2勝を挙げたものの、市販車やその排ガス規制対策へ注力すべく1968年に撤退。

それらが一段落した1980年代に今度はエンジンコンストラクターとして復帰する「第2期ホンダF1が始まるわけですが、その手始めとなったヨーロッパF2選手権への参戦では、第1期でも大きな役割を果たしたブラバムとの縁が重要になりました。

ホンダは1960年代にもエンジンコンストラクターとして参戦したF2への復帰にあたり、1966年にホンダエンジンで破竹の勝利を挙げたブラバムBT18を作ったエンジニア、ロン・トーラナック率いる「ラルト」と組んだのです。

ホンダF1の第1期と第2期をつなぐ、ブラバムとの縁

1983年後半から1984年前半にかけ12連勝をあげ、旧式化していたBMWの2リッター直4エンジンが中心だったヨーロッパF2選手権末期の勝者となった

第1期ホンダF1のプロジェクト初期、新たに自分のチームを立ち上げたジャック・ブラバムもロータスと並ぶエンジン供給候補のひとつでしたが、エンジンテストベッド的なRA270を経て、1964年にオールホンダ体制のRA271でF1へ参戦して以降も関係は続きました。

ブラバムはまず、F1と掛け持ち参戦していたヨーロッパのF2レースへエンジンコンストラクターとしてホンダを引き込み、そのエンジンを積むブラバムBT18で1966年に13戦12勝という、恐るべき実績を残したのです。

その後、ホンダは1968年いっぱいで参戦休止(第1期ホンダF1)、ブラバムも1970年にドライバー兼チームオーナーを引退。

BT18など初期のブラバムチーム用マシンを作ったエンジニアのロン・トーラナックも1972年、後にコンコルド協定(1982年)を経てF1を興行面から取り仕切ったバーニー・エクレストンへチームを売却、それぞれ別な道を歩みますが、F1との縁は切れません。

ホンダは初代シビック(1972年)の成功と環境対策エンジンCVCCで世界的メーカーへと躍進、モータースポーツへ復帰するタイミングを狙っていましたし、ブラバムはジョン・ジャッドと1971年にエンジンコンストラクター「ジャッド」を設立します。

トーラナックもジャック・ブラバムなきブラバムチームに魅力を感じなくなっただけで、レースに関心を失ったわけではなく、1974年にシャシー・コンストラクターの「ラルト」を設立、最初の製品であるRT1はレーシングカーのベストセラーになりました。

そんなわけで、ホンダが1980年代にF1への復帰を決め、その腕試し的な意味でヨーロッパF2選手権への参戦を決めた時、ブラバムやトーラナックが関わったのは当たり前だったと言えます。

ジャッドのアドバイスまで結果が出なかったホンダの復活劇

F2用のRA260E系エンジンは、ターボチャージャー装着&1.5リッター化で初期の第2期ホンダF1用R163Eエンジンのベースにもなった

1978年、年頭の記者会見でホンダはレース活動の再開を宣言し、まず2輪で1979年に世界GPへ復帰すると、翌年にはトーラナック率いる「ラルト」のワークスチームへエンジンを供給するエンジンコンストラクターとして、ヨーロッパF2選手権へ参戦します。

それに先立ち、1973年に本田 博俊氏(ホンダ創業者・本田 宗一郎の長男)がホンダ系のレース会社「無限」(現・M-TEC)を設立、そこへ1960年代のホンダF1、F2に関わった川本 信彦氏の斡旋で若手の市田 勝己氏が出向し、エンジンの図面を描いていました。

1978年に正式なプロジェクトへ昇格、F2用エンジン「RA260E」が完成、BMWやハートの2リッター直4エンジン全盛期だったヨーロッパF2に1980年から参戦しますが、若手時代のナイジェル・マンセルなどを起用したラルト ホンダRH6-80の成績はパッとしません。

川本氏と市田氏の作ったRA260Eは頑丈で壊れず、パワーも出ていましたが、これはどうしたものかと悩んだ後で川本氏が「他の血も入れよう」とラルトのトーラナックへ相談、ブラバムのコネもあったのか、ジャッドへアドバイスを求めました。

するとジョン・ジャッド氏らジャッドのエンジニアはいきなりRA260Eのシリンダーヘッドに穴を開けて加工を始め、唖然としている市田氏らが見ている前でベンチにかけるとパワーダウン、しかしいざマシンへ載せて走るとドライバーからは「素晴らしい」と大絶賛です。

要するにRA260Eはピークパワーこそ優れていたものの、肝心のドライバビリティに欠けていた「カタログスペックだけで実際の戦闘力がない、理屈優先エンジン」だったらしく、それを見た川本氏や市田氏らは、エンジンを全面的にやり直しました。

1981年の勝利と1983年からの快進撃、そしてF2の終焉

ツインリンクもてぎで開催される「Honda Racing THANKS DAY」で動態保存された勇姿を魅せるラルトRH6-84(2006年)

全面的な設計変更、特にヘッドカバーや燃焼室の形状を見直したRA261Eを積むラルト ホンダRH6-81は1981年開幕戦でマイク・サックウェルのドライブでホンダのF2復帰初勝利を挙げると、ジェフ・リースが第7戦から3勝する大活躍。

1982年にはホンダの出資で、後のF1復帰チームでもある「スピリット・レーシング」を設立、ジャッドの助力でラルトに続く2チーム供給体制(日本からもマーチ ホンダ822でスポット参戦)になり、スピリットのティエリー・ブーツェン(後にF1でも活躍)が3勝。

1983年にはスピリットのF1進出で再びラルト単独供給となり、ラルトRH6-83でジョナサン・パーマーとマイク・サップウェルがドライバーズランキング1-2を決めます。

1984年にはパーマーに代わってロベルト・モレノ(後にF1でも活躍)が加入、サップェルとともに1983年後半から、RH6-84に切り替わった1984年前半まで通算で12連勝、1984年だけでも9勝をあげ、文句なしの「F2最強エンジンコンストラクター」となりました。

しかし、その頃のF2はF3→F2→F1というステップアップのレールから外れ始めており、F3からF2を飛ばしてF1参戦にいたるドライバーが出てきたことや、「F3のようにF1の前座でやるほど軽くは扱えず、さりとて単独開催ではF1ほど集客できない」という状況。

メーカー、観客、主催者とあらゆる面で魅力を失いつつあり、BMWが1984年限りで撤退すると、一般チームへのエンジン市販をしていなかったホンダだけではF2が成立しなくなります。

その結果、F2は1984年で一旦終了(2009-2012年、そして2017年以降にFIA F2選手権として復活)、3リッターF1エンジンの傑作「フォード・コスワースDFV」を再利用できる国際F3000選手権へ移行。

ホンダも1986年からジャッドと共同開発した3リッターV8エンジン「MF308」で国際F3000のエンジンコンストラクターとなりました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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