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「日本の絶頂期は、ホンダF1の絶頂期」バブル時代に咆哮を上げた自然吸気V10・マクラーレン ホンダ MP4/5【推し車】

日本の絶頂期は、ホンダF1の絶頂期でもあった

「Honda Racing THANKS DAY 2016」の特別走行リハーサルでストフェル・バンドーンがステアリングを握る、マクラーレン ホンダMP4/6

参戦、撤退、また参戦を繰り返しているホンダF1ですが、その全盛期と言えば第2期、それもマクラーレン・ホンダとして参戦した1988年から1992年というファンは多いでしょう。

奇しくもこの頃、日本本国もバブル景気に沸き返り、経済面ではアメリカを買い取るような勢い、そしてF1も日本のホンダがNo.1で1988年から1991年まで4連覇、「日本人で良かった」と思える、あらゆる意味での絶頂期でした。

しかし1991年、実態は砂上の楼閣に過ぎなかったバブル景気は崩壊し、RVブームに有効な手駒を持たなかったホンダは販売低迷に苦しみ、カリスマ創業者だった本田 宗一郎もこの世を去ると、情熱を失ったかのようにF1から撤退したのです。

いよいよ日本でも知らない人はいなくなった「F1」

「Honda Racing THANKS DAY 2017」で編隊を組むMP4/4(前)とMP4/6(後)、MP4/6はドライバー後方の大開口インテークなど、ターボ時代のF1とはかなり異なるマシンだとわかる

1988年シーズン、既に翌年からターボ禁止、3.5リッターまでの自然吸気エンジンへと変わる新ルールが決まっていたF1において、1.5リッターターボ時代の集大成と力を入れたマクラーレン・ホンダMP4/4は16戦15勝という、空前の成果を上げました。

翌1989年、新ルール下の3.5リッターV10エンジンRA109Eを積むマクラーレン・ホンダMP4/5も、エンジン頼みで旧態依然としたシャシーやサスペンション設計、それを補うほどの決定的なパワーや信頼性まではなかったものの、なお16戦10勝を上げています。

「ホンダのF1イメージ」が広く浸透したのは、この頃からでしょうか…もちろん第1期や第2期初期からの根強いファンはいましたし、1987年からフジテレビが全戦中継していて知名度も上がってはいました。

ウィリアムズ・ホンダ時代の1986年からホンダエンジンを積むF1マシンは速く、日本人ドライバー中島 悟の活躍や、マクラーレン時代には「音速の貴公子」、天才アイルトン・セナと「教授」、F1職人アラン・プロストも時代を彩ったのです。

レイトンハウスなど日本企業のF1進出も加速していましたが、その頂点に立つのが「マクラーレン・ホンダ」であり、ホンダエンジンは空前のバブル景気に浮かれ踊る日本人のナショナリズムを刺激する、象徴的存在でもありました。

クルマ好きのみならずとも、「F1といえばホンダ、ホンダといえばF1」が当時の常識だったのです。

新ルール下でV10の咆哮を上げたマクラーレンMP4/5

ホンダコレクションホールに展示されている、1989年のF1タイトルを獲得したMP4/5プロスト車

さて、新ルール初年度の1989年でも圧倒的強さを誇ったホンダですが、それには他のエンジンサプライヤーや、独自のエンジンにこだわるフェラーリに対しても圧倒的なアドバンテージを誇る、ホンダの3.5リッターV10自然吸気エンジンが大きな役割を果たしました。

シャシーやサスペンションは古臭くとも、新技術をバンバン投入してくるライバルがトラブルに苦しんでいるうちは、「信頼性の高いシャシーにパワフルなエンジンの組み合わせが強い」というものです。

神格化されたイメージとは裏腹にムラっ気が強く、優勝かリタイヤを繰り返すセナに対し、セナがリタイヤすれば自身が優勝、マシントラブルでも着実に完走してポイントを稼ぐプロスト、両ドライバーの関係悪化は目に余ったものの、チームはとにかく勝ったのです。

ついに堪忍袋の緒が切れたプロストがフェラーリへ移籍、後釜のゲルハルト・ベルガーもその穴を埋められなかった1990年でさえも、改良型のMP4/5Bはセナが6勝し、期待に応えて見せました。

その頃の日本では、1989年12月29日に日経平均株価が3万8,957円44銭の史上最高値を記録、1990年はその頃の勢いこそなかったものの、まだまだ好景気は続くと信じられており、ホンダF1の栄光もまた続くと思われていたのですが。

「時代遅れ」となりつつ奮闘したMP4/6とMP4/7

第2期ホンダF1最後のマシンとして1992年シーズンを戦った、マクラーレン ホンダMP4/7 ©Dan74/stock.adobe.com

1991年、ホンダはついに第1期F1でのホンダRA301以来となるV12エンジンEA121Eを投入、V10エンジンRA101Eもティレルへ供給して2チーム体制となりますが、この年から「ホンダエンジン頼り」のツケが回ります。

他チームが電子制御スロットルやセミオートマ、アクティブサスといった新技術を次第にモノにし始めたのに対し、マクラーレンMP4/6はシャシーもミッションもサスペンションも旧態依然としており、ティレル020に至ってはホンダエンジンを完全にもて余しました。

この年、頭角を表したのはかつてホンダエンジンで2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得、その後は苦労したもののルノーエンジンと各種電子制御デバイスの熟成で、本来の実力を発揮し始めたウィリアムズ。

対するマクラーレンは結局のところホンダの新型V12エンジンが頼りで、ウィリアムズがまだ信頼性に悩んでいるうちこそ勝てたものの、克服されてしまえば「セナとベルガーが必死で路面へ押し付けるMP4/6を、ホンダエンジンで無理やり走らせている」に過ぎません。

緒戦のアドバンテージと、後半投入した軽量シャシーでどうにかセナ7勝、ベルガー1勝を上げてコンストラクターズタイトル4連覇、セナも2年連続、3度目のドライバーズタイトルを獲得したのが、マクラーレン・ホンダの限界。

翌1992年も緒戦にMP4/6B、それ以降は新設計のMP4/7で奮闘するマクラーレン・ホンダですが、もはやエンジンだけでなく、あらゆる面からのトータルバランスで勝負するようになっていたF1では通用しなくなっていました。

本田 宗一郎は世を去り、ホンダもF1を去った

大きく立てられたMP4/5のリアウイングは、「マルボロ」(タバコ)の宣伝にはなったものの、新技術の集大成となるF1では当時すでに時代遅れとなりつつあり、あえて古臭いからこその信頼性で最後の黄金期を戦った。

さらにこの頃、ホンダは苦境にあえいでいました。

第一線から離れて久しいとはいえ、「ホンダの魂」も同然だった創業者、本田 宗一郎 氏が1991年8月5日にこの世を去り、そしてホンダ自身も、ブームとなっていたRVの手駒がなく、バブル崩壊後の販売不振に何ら手を打てなかったのです。

バブル崩壊で国内史上での販売が壊滅したホンダは、1994年に初代シビックすら上回る空前の大ヒットとなった初代オデッセイを発売するまで、国内市場の売れ筋から完全に取り残されるどん底にありました。

さらに世界的にも販売不振となっており、もはやF1どころではなくなり、1992年シーズンを最後に第2期ホンダF1を終了、日本と第2期ホンダF1はほぼ同時期に絶頂に達し、そしてほぼ同時期に果てて力尽きたのです。

なお、ホンダのエンジン技術は無限に引き継がれ、その後のF1では無限エンジンがホンダの代わりに走り続けました。

ホンダが「RVで儲けた金でF1参戦」などとアレコレ言われつつ、第3期F1として復帰するのには2000年を待たねばなりません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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