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《N-ONEが今も継承》日本軽自動車初の爆発的ヒット!「和製ミニ」ホンダ N360とは【推し車】
目次
N-ONEが今も受け継ぐ「ホンダと軽自動車の近代的原点」
令和になった今でも、時おり街を走るNコロ、「ホンダ N360」を見ることがあります。
レストアでもしたのかピカピカなボディは現役そのもの、ナリは小さくとも立派に現代の車として通用しそうですし、なんなら今から新車として発売しても売れそうです。
もちろん、時代の変化で衝突安全性能をクリアするため全幅・全長ともに大きくしなければいけませんし、デザインのバランスを取るためキャビンも大きく、ルーフは高いセミトールワゴンスタイル。
ロングストロークの高効率エンジンS系を収め、歩行者衝突時安全をクリアするためボンネトは高い位置に、丸目ヘッドライト周りもなだらかにしていくと、なるほど現在の「N-ONE」はN360の生まれ変わりなのだな、と納得できます。
今回はその元祖であり、ホンダが本格的に乗用車メーカーとして走り出した、そして日本の「軽自動車」が「自動車」としてやっていけるようになった偉大なる第一歩、ホンダ N360の紹介です。
- 最新「N360」中古車情報
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本日の在庫数 9台 平均価格 179万円 支払総額 90~239万円
目標、月販1万台!
1960年代半ばのある日、「月に1万台売れる軽乗用車を作れ!」という号令が発せられました。
その場所は日本のホンダ、号令の主はもちろんカリスマ創業者、本田 宗一郎氏です。
当時はトヨタ カローラや日産 サニーの初代モデルが発売されるマイカー元年(1966年)以前で、登録車(白ナンバー)の乗用車など高嶺の花。
さりとて軽乗用車もスバル360やスズライト フロンテがあったとはいえ、20馬力ソコソコと非力でもまだ40万円以上と決して安くはなく、月販1万台以上売るようなクルマなんてありません。
何よりホンダ自身、まだFRスポーツカーのSシリーズと軽トラのT360を発売したばかりの新参で、戦前から4輪やオート3輪で鳴らした大メーカーや、戦後組でも1950年代までに実績を積んだメーカーを上回る大ヒット車を作れというのですから、大変なことでした。
オースチン・ミニみたいなFF車を作れ
戦後、オートバイメーカーとしては十分な実績を誇っていたホンダですから、エンジンはT360のように芸術的な(そして整備性は最悪な)4連キャブのDOHC4気筒エンジンなど使わなくとも、2輪用のSOHC2気筒4サイクルエンジンで十分安くハイパワーを見込めます。
問題はそのエンジンでどんなクルマを作るかでしたが、それは明確に「オースチン ミニ(1959年発売。旧ミニことBMC ミニ)みたいなFF車を作れ」と決まっており、外装、内装たった2人ずつという貧弱な体制ながらデザインもスタートしました。
それも寸法が軽自動車規格いっぱいの木枠と、両端へタイヤのついたシャフト上に2本の角材で支える箱とスノコをかぶせ、粘土を盛って実物大モデルを作り、木枠(軽自動車枠)からはみ出す部分は削るという手法。
デザイン担当の1人、岩倉 信弥氏(現・多摩美大名誉教授)など、コラム「千字薬」にて、「モデルをつくる道具もろくにない会社が、どうして月に1万台も売れる車をつくれるだろうかと、不思議ではあった。」と語っています。
それでもどうにかなったのは、「ミニみたいな車を作る」と目標にした車のパッケージが優れていたからと、エンジンがマトモだったからでしょう。
日本版ミニを作るのに足りなかったのは、アレックス・モールトンのゴムサスペンションくらいです。
安くてパワフル、売れるべくして売れたクルマ
こうして1967年3月に発売されたN360は、ミニ同様にエンジン直下にミッションとデフを配したイシゴニス式のFF車で、当時の他社軽乗用車がせいぜい20馬力ソコソコだったのに対し、31馬力とパワフルで滑らかな高回転高出力型4サイクルエンジンを搭載。
バランサーシャフトがなかったので騒音や振動は激しかったものの、ブン回せば公称最高速度115km/hの俊足を発揮、しかも他社が対抗して発売した「高性能版」ではなく。標準でその性能、しかも31万5千円と格安でしたから、売れないわけがありません。
まだオートバイ屋に毛が生えたような…というよりオートバイ屋そのものな販売店には札束片手にユーザーが押し寄せ、新車を積んだ積載車が店に着くや、支払いを終えた端から乗って走り去るという光景が見られた、国産車史上初となる大ヒットとなりました。
確かにスバル360は箱根の山を越え、第1回日本グランプリではそのスバル360をフルチューンのスズライト フロンテがブッチぎりましたが、当時のユーザーはもうそんな最低限のレベルではなく、「安くて普通に高性能なクルマ」を求めていたのです。
そこにバッチリとハマったN360が売れないわけもなく、スポーツカーとそれをベースにしたライトバン(L700)とピックアップトラック、それに軽トラ(T360)しか売っていなかったホンダにとっても、初の「乗用車らしい乗用車」でした。
近代軽自動車そのものといえる、MM思想の元祖
ホンダが提唱するMM思想、「マン・マキシマム、メカ・ミニマム」、すなわち「メカは最小限に、乗車スペースは最大限に」というコンセプトの元祖たるN360ですが、繰り返し書くようにそれ自体はミニをベースに軽乗用車化したもので、新しいものではありません。
しかし軽自動車枠という寸法の限界、低価格化のため難しい新技術を使いにくいコストの限界という制約の中で、他社が乗車スペース最大化のためのRRレイアウト、コスト削減のため保守的なFRレイアウトを採用する中、低価格高性能FFレイアウトの軽は画期的でした。
現在のように大きく開くテールゲートを持ち、後席も倒せば広大な荷室が生まれるハッチバック車こそ「それじゃライトバンと変わらない」と言われる時代でしたから、通常の独立トランク式ですが、それを除けば現在のFF軽自動車となんら変わりありません。
タイヤを四隅に置いてキャビンを最大化する工夫も当然のごとくで、現在の国産FF軽乗用車やコンパクトカーのスタイルは、今から56年も前の1967年に発売されたこのN360で既に完成、その後は時代に応じた発展を遂げてきたにすぎない、と言えるでしょう。
開発スタート時に目標とされた月販1万台は余裕でクリアし、ライトバン仕様のLN360など派生車を含めれば、最大で2万5千台を超える月間販売台数を記録しました。
大ヒットで最終的にNIIIへ発展
現在ホンダミュージアムに展示されている初期型(通称「N I」)はフロントグリルの「H」エンブレムやリア側面エアアウトレットが簡素なプレス打ち抜きですが、トヨタ博物館に展示されている中期型(通称「N II」)では赤字に白抜きエンブレムに樹脂製アウトレット。
さらに今回は画像がないものの、1970年にビッグマイナーチェンジを受けた「N III 360」(これは正式名称)ではフロントマスクなど造形が一変し、大ヒット車ゆえにコストをかけた変化が矢継ぎ早に繰り返されています。
しかしN360の真髄とは、高性能を支えたエンジンもさることながら、ルーフ(屋根)と前後ウィンドウを一体で作り、フロントウィンドウ下のつなぎ目はボンネットで、リアピラー下のつなぎ目はテールランプで隠し、極力つなぎ目を見せないようにする工夫です。
もちろん、最初からつなぎ目を作らないデザインなら高級で美しいものになりますが高コストですし、「つなぎ目はあるけど見せなかったり、デザインの一部として高級に見せて安く売る工夫」の方がユーザーにとっては正解でしょう。
そういう意味では、フロントマスクのほとんどをヘッドライトと巨大なメッキグリル、それに上からかぶせた大きなボンネットで埋め、グリル下のわずかな継ぎ目も極力バンパーで隠したN IIまでのデザインは秀逸です。
NIIIのフロントマスクは近代的ですが、ヘッドライト周りの継ぎ目を隠す工夫がないため妙に目立ち、安っぽく見えてしまうのが惜しまれます。
初代ライフへと橋渡しするも一時撤退
1971年には環境対策が容易な水冷エンジンを、エンジンとミッション・デフが直列でキャビンスペース拡大に寄与する、より近代的なジアコーサ式FFレイアウトで搭載した初代ライフへと発展。
しかしその頃には高性能化と品質向上による高価格化、それに車検制度の導入で維持費の負担も増えた軽自動車は、初代スズキ アルトによる軽ボンバン全盛期まで小型車への競争力を失い、ホンダも初代ライフを最後に、軽乗用車から一時撤退することとなります。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...