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「本来のエス」幻のS360をリファインした市販スポーツ第1号!《ホンダ S500》【推し車】
目次
ホンダ初のスポーツカー、S500
1963年、ホンダが当時の最後発メーカーとして4輪車へ参入した時、軽トラックのT360(8月発売)から2ヶ月遅れで発売したのがS500。
ホンダ初の小型車、スポーツカーであるとともに、1970年にS800の生産を終えるまで続いた、初期のホンダ”S”シリーズオープンスポーツで最初のモデルでもありました。
1962年10月の全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)では「スポーツ360、スポーツ500」として発表されたものの、後者のみS500として発売されたのはなぜだったのか、実際のS500がどんなクルマだったのか。
ホンダコレクションホールや、トヨタ博物館に展示されているS500の画像を交えつつ紹介します。
当初はもっと時間をかけるはずだった4輪進出
1946年に本田技術研究所として設立後、1948年の本田技研工業への改組を経て、オートバイメーカーとして着実に成長していったホンダですが、1963年の4輪車参入というタイミングは、実はかなり不本意なものでした。
1957年暮れから1958年にかけ、飛行機や3輪車を作っていた技術者を50人近く中途採用し、2輪から引き抜いた技術者を含む7人の若手メンバーによって、「第3研究課」を設立したのがホンダ4輪の始まりで、1959年1月には初の試作車XA170を完成させています。
しかし、カリスマ創業者の本田 宗一郎 氏でさえも、1959年12月の時点で以下のような慎重論を唱えていました。
“「自動車は十二分の検討をし、性能においても、設備の点においても、あらゆる点で絶対の自信と納得を得るまで商品化を急ぐべきではない」”(ホンダ公式「語り継ぎたいこと」内「S360・T360発表」より、ホンダ社報50号でのコメント)
そのため、まずは1955年に通産省(現・経済産業省)が発表した「国民車構想」に沿った形の実用的な軽自動車を開発していましたが、後発組が成功するには新規需要開拓が必要と2シーターの軽スポーツに切り替わり、もっとも需要の多そうな軽トラックが加わります。
1960年夏の時点では、軽スポーツカーXA190、軽トラックXA120の2種が完成しており、熟成のためにテストを重ねており、数年かけてジックリ開発を進め、生産体制や販売体制も含め、機が熟した頃に堂々と4輪へ参入するつもりだったのです。
しかし1961年5月、通産省が「自動車行政の基本方針」を打ち出し、乗用車産業の新規参入制限と、既存メーカー統廃合を前提とした「特措法」(乗用車のほか、特殊鋼と石油化学の3種類と特定産業に指定した、「特定産業振興臨時措置法案」)を提出すると言い出します。
本田 宗一郎 氏は激怒したものの、法案が通ってしまえば4輪への参入が阻まれる弱い立場なのは自覚しており、なんとしても法案成立までに4輪メーカーとしての実績を作るため、1962年1月、開発部隊へ4輪車の製作を命じました。
1962年に発表した「スポーツ360とスポーツ500」
1962年6月5日に建設中の鈴鹿サーキットで開催が決まった、ホンダ特約店(ディーラー)が集まる第11回ホンダ会(全国ホンダ会総会)で発表すべく、軽スポーツカーと軽トラックのプロトタイプを2台ずつ作れ!と言われた開発部隊に残された時間は、実質4ヶ月半。
数年後の発売を目指してジックリ開発していたはずが、突然の無茶振りもいいところでしたが、当初の完成目標は4月15日でしたから、それでもマシになった方です。
「オヤジさん(宗一郎)」からの細かい指示を反映しつつ人数も増やし、開発中の試作車をベースに突貫作業で車両を製作、発表前日の6月4日深夜にようやく完成。
スポーツ360の方はパイプフレームへFRPのガワをかぶせただけと言いますから、当時の実態はエンジンつきのハリボテに近かったようです(後に鋼板製ボディでも製作)。
翌日には参加者がメインスタンドで見守る中、本田 宗一郎 氏自らが満面の笑みでステアリングを握る「スポーツ360(S360)」が、鈴鹿サーキットのホームストレートを駆け抜けました。
同年10月、「スポーツ360」と、492ccエンジンに載せ替えた「スポーツ500」の2台、それに軽トラックT360を全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)で発表、特に2台のスポーツカーの周りには黒山の人だかりができるほどの人気ぶりです。
あとはどうにかお披露目の済んだ軽スポーツカーと軽トラックを発売するだけですが、実際にはスポーツ360はお蔵入りとなり、スポーツ500のみがS500として翌1963年10月に発売されました。
なぜ「S360」は発売されず、S500だけだったのか?
全日本自動車ショーへ展示された「スポーツ500」は、資料によれば当時の軽自動車規格(全長3,000nm、全幅1,300mm)に対し、全長が若干はみ出していた(3,195mm)だけで全幅は軽自動車規格内に収まっており、排気量もS500の531ccと異なる492ccでした。
あるタイミングで、「軽自動車規格内で作っても日本でそんなに売れるわけもなく、世界で通用するクルマにしよう」という意見と、「特措法対策で、軽自動車だけでなく小型車の生産実績も作っておこう」という目論見もあったようです。
実際の輸出にはS500でもパワー不足だったため、わずか5ヶ月という短期間でS600へと移行、輸出もそこからとなったため、どちらかと言えば「小型車の生産販売実績を手っ取り早く作る」が、S500の主目的だったように思えます。
もっとも、「特措法」は1964年1月の第46回国会で成立せずに廃案に追い込まれており、とりあえずS360を発売して、後からノンビリS500でも問題はなかった(それどころか、結果的には発売を前倒しする突貫作業自体が必要なかった)わけですが。
ならば最初にスポーツ360の実車も作っており、エンジンもあるのだからS360も発売すれば良かったのに…と言いたくなりますが、何しろ突貫作業で数年前倒しの4輪参入ですから、細々でも売ればよい販売はともかく、生産体制が全く追いつきません。
ホンダ初の本格的な4輪車量産工場、狭山製作所(現在の埼玉製作所狭山工場)の完成が1964年11月で、それまでは鈴鹿製作所、埼玉製作所(現在は廃止された和光工場)、浜松製作所の2輪車用生産設備を活用し、S500の最終組立は浜松製作所という状態。
本田 宗一郎 氏は1963年8月時点で「もうかっている2輪の設備を活用し、4輪専用工場はじっくり作ればいい」という考え方でしたが、要するに間に合わないだけなので、浮かれるも何もないわけです(数カ月後には「やっぱり工場が必要」と方針転換)。
1963年10月に発売したS500の量産車引き渡しは翌1964年1月までずれこんだと言いますし、S360まで作っている余裕はなく、生産体制が整った頃にはN360(1967年)が視野に入ってくるので、日の目を見る機会に恵まれなかった、ということなのでしょう。
短命とはいえ、直線的でシャープな印象のS500
さて、当時のプレス向け資料、現在のホンダコレクションホールやトヨタ博物館へ展示されているS500の実物を見ると、フロントグリルを大型化し、メッキバンパーも曲がったS600/800と比べ、ピンと一本筋の通ったシャープな印象を受けます。
資料によっては「スポーツ500の全長を縮めたのがスポーツ360」ともありますが、実際には最初から360cc軽スポーツのところへ、「500ccで出すからカッコよくするのにボディーの幅を10cmほど広げ、リアの長さを30cmほど伸ばすように」と指示があったようです。
このS500こそがS360の開発でデザインされ、小型車化にともなってカッコよくリファインされた、「本来のエス」の姿なのでしょう。
表情の豊かさという意味ではS600/800に軍配が上がるものの、ピンと横一文字のメッキバンパーに引き締まった口元(フロントグリル)からは、「緊張しながら入学式の記念写真に収まる、ピカピカの1年生」という雰囲気があり、むしろ微笑ましく感じます。
44馬力/8,000rpmを発揮するDOHCエンジンは現在の軽自動車用自然吸気エンジンと比べて控えめなスペックですが、33馬力のS360でも100km/h程度は出たと言いますし、重量増加分を差し引いても、当時の日本では十分。
筆者はシャフトドライブの後期型S800しか運転したことはありませんが、S800前期までのチェーンドライブ特有だという、発進時にチェーンが張り詰め「ヒョコッ」とテールを持ち上げる挙動など、どんなものだったか一度味わってみたいものです。
なお、展示されているS500は2台とも赤いボディカラーですが、当時は消防車専用色で一般車には認められておらず、ホンダの担当者が運輸省へ日参してようやく許可を得たもので、ホンダの4輪参入にあたって地味に苦労した部分のひとつでした。
(どれだけ地味かといえば、赤い車を熱望していた本田 宗一郎 氏へ許可を得たと報告したところ、「おう、そうか」の一言で終わってしまったくらい…)
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...