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「スバル」じゃない「富士自動車」って何?ピーク時には東洋一の自動車工場に【推し車】

代表作がフジキャビンという、もうひとつの「富士」

国産車界の1つ目小僧、フジキャビン

自動車業界で「富士」と言えば現在は「スバル」へと社名も変えた富士重工が真っ先に、さらに同じ旧中島飛行機系でプリンスの前身のひとつである富士精密工業も思い浮かびますが、かつてはもうひとつ、富士自動車という「もうひとつの富士」がありました。

自動車メーカーとしてはキャビンスクーターのフジキャビンをわずかばかり、軽1BOX車のガスデンミニバンに至っては販売すらできませんでしたが、単に「進駐軍の自動車修理」というだけではなく、戦後復興期の日本で大きな役割を果たしたのは間違いありません。

もし、歴史の歯車が少し違う動きをしていたら、今も自動車メーカーのひとつだったかもしれない…そんな富士自動車を、トヨタ博物館に展示しているフジキャビンの画像を交えつつ回想してみます。

満州帰りのやり手が興した、富士自動車

フジキャビンは補修容易なFRP製のためか生産数が少ないわりに残存しており、トヨタ博物館にも2ドア車が展示されている

設立と戦後復興に関わった日産のキーパーソン

第2次世界大戦の敗戦から2年を経た1947年5月、単に「資本金1万円以上の会社の社長だから」という理由だけで、進駐軍の命令によるパージ(公職追放)を受け、日産の社長を追われた1人の男がいました。

彼の名は山本 惣治(やまもと そうじ)。

1927年、後に日産コンツェルン(鮎川財閥)の中核となる戸畑鋳物で、シボレーやフォード車向け部品製造から自動車畑に関わり、同社が傘下に置いたダット自動車製造の取締役にもなって、同社の分割と「ダットサン」ブランド取得、日産自動車設立に関与。

その後も満州(現在の中国東北部)へ渡るなど、日産コンツェルンに関わる企業の要職を経て、日本の敗戦直後、1945年10月に日産自動車の社長へ就任するや進駐軍に掛け合って工場の操業再開に成功するなど、連合軍施政下でも活躍します。

公職追放を発令した進駐軍からの、思わぬ相談

そんな人物でしたから、あいにくのお役所仕事で失職したとはいえ進駐軍が放っておくわけもなく、パージから半年と経たず呼びつけられると、「我々のジープやトラックを再生できるか?」と相談されます。

当時のあまりに劣悪な日本の道路事情に、頑丈なはずの軍用車両すら消耗してしまい、車両不足に頭を抱えていた進駐軍。

しかし、日本軍と激戦を繰り広げた南方各地の戦場から車両を引き上げ、戦争で荒廃したとはいえ工業化を果たし、教育された労働者が存在する日本で修理再生すれば事態は好転するかもしれません。

そしてその日本には、進駐軍とコネがあり、それでいて彼ら自身が職を奪ってしまい、無聊を囲う男が1人…というわけで、山本氏に白羽の矢が立ちました。

彼は早速、戦前から外国車やダットサンを含む日産車の車体生産をしていた日産傘下の「日造木工所」へ出資して、1948年に「富士自動車」へ改組(※)、進駐軍を相手にした大仕事を追浜(神奈川県横須賀市)で始めたのです。

(※後に旧・日造木工所部門は同じ富士自動車の社名で分離独立後、2023年現在も不動産賃貸業の株式会社イマックスとして存続しています)

追浜で立ち上がった「東洋一の自動車工場」と、朝鮮特需

カラフルで立派そうに見えるフジキャビンのシートだが、よく見るとFRP内装へクッションを貼っただけ

進駐軍車両の整備・修理はトヨタなども手掛けましたが、富士自動車の場合はただの部品交換や修理ではなく、特に崖から転落大破したか、あるいは日本軍の攻撃で撃破されたか…というほどメチャクチャになった車両の「再生」でした。

連日、接岸した米軍の揚陸艦から破損車が降ろされると、ほとんどはバラバラに解体されて部品単位で使えるものは再利用され、使えぬ部品は取り寄せた新品を準備して再組み立てを行うので、「再生」というより「再生車の生産」と言った方がいいレベルです。

しかも1950年6月に朝鮮戦争が勃発、日本から朝鮮半島へ送られた米英軍の増援と、新たに世界各地から駆けつける国連軍へ供給するため、単に「進駐軍で使う車両の確保」では済まない事態となりました。

幸い、同年にベルトコンベアー式の流れ作業で連日多数の再生車を「生産」できる大工場が完成しており、文字通りのフル稼働で連日破損車両を引き受けては、再生車を吐き出し続けます。

富士自動車だけでなく、アメリカ本国に発注していては間に合わない部品を生産する下請けメーカーにとっても、最高のタイミングで朝鮮戦争による「特需景気」の恩恵を受け、国連軍による韓国防衛の成功にも大きく貢献しました。

ピークだった開戦翌年の1951年から、停戦翌年の1954年までに「生産」した再生車は、当時の国内全メーカーによる国産普通車(ほとんどはトラックやバス)生産台数を超えており、当時の富士自動車追浜工場はまさに「東洋一の自動車工場」だったのです。

失敗した民需転換と、突然の追浜工場閉鎖通告

エンジンが収まるフジキャビンのリアには左右のメンテナンスハッチからアクセス可能

通産省の横槍で頓挫したプリムス

しかししょせんは戦争景気、しかもまだ朝鮮戦争のさなかだった1952年4月にはサンフランシスコ平和条約が発効して日本は独立を取り戻し、いずれ戦争が終われば進駐軍改め「在日米軍」の多くは日本を去ってしまいます。

富士自動車でもその時に備えて民需転換の準備を進め、1952年には米クライスラーと提携、追浜工場で「プリムス」ブランドのノックダウン生産(輸入部品の組み立て生産)を始めました。

フォードやシボレー(GM)に対し、日本市場に出遅れていたクライスラーにとってもいい話でしたが、国内自動車産業の保護育成を目指したい通産省にとっては面白くない話だったようで、部品輸入のための外貨を割り当てない妨害にあって、間もなく頓挫。

「ガスデン」ブランドを手に入れるも、フジキャビンが失敗

1953年には東京瓦斯電気工業(※)を合併し、同社の「ガスデン」ブランドを活かしたエンジンや自動車部品メーカーとしての活動も開始します。

(※いすゞの前身になった自動車部門ではなく、「日立航空機」として1939年に独立後、敗戦を経て1949年に改めて旧社名を名乗った旧航空機部門)

その一環として、1955年には121ccエンジンを積むキャビンスクーターを開発するとともに、販売会社として「メトロポリタンエージェンシーズ」を設立、同年の全日本自動車ショウ(現・ジャパンモビリティショー)で「メトロ125」として発表。

翌1956年には「フジキャビン」と改名して再び出展後に発売されますが、1957年までわずか85台を生産したのみで、これも頓挫するなど民需転換が失敗続きのまま、ついに軍需が途切れる日を迎えます。

米軍の方針変更で特需バブル崩壊

まず朝鮮戦争停戦後の1955年に米軍からの再生車発注が半減、その後1957年には東南アジア諸国への軍事援助用として発注増加の見通しを示されますが、翌1958年8月に突如方針が変わり、その年いっぱいでの契約終了と、追浜工場の閉鎖を通告されました。

しかも発注半減と工場閉鎖で2度にわたる従業員の大量解雇に米軍からの十分な保証はなく、退職金のために経営が傾いた富士自動車は、フジキャビンを作っていた鶴見工場を含む、複数の工場など資産を売却せねばならなかったのです。

FRPモノコックの2人乗りキャビンスクーター、フジキャビン

ただ安く簡単に作っただけではないとデザインでしっかり主張していて、超マイナー車のわりに人気があるフジキャビン

簡素で軽いがパワーもない

富士自動車が期待を寄せたフジキャビンですが、「クルマなんて小さくて簡素であるほど面白い」というマニアには今でも人気がある、本当に雨風がしのげるだけのレベルで簡素なキャビンスクーターです。

量産車としては世界初採用と思われるFRPモノコックボディは、ソラマメを細長く伸ばしたような曲面で強度を確保しつつ超軽量でしたが、空冷単気筒2サイクル121ccエンジンはたった5馬力で、車重わずか150kgでも人が乗ると完全にアンダーパワーでした。

超ダイレクトなステアリングフィール

ともに雑誌の表紙を飾ったグラビアモデルは、ギャラのオマケとしてフジキャビンがもらえたそうですから気前がいいものですが、渡されたのは試作車だったらしく、なんとバーハンドル!

量産車は自動車らしい半円形ステアリングですが、操舵装置の減速ギアはないままで、勢いよくハンドルを切れば簡単に片輪が浮き、現在だと小型のATV(全地形車)に近い操作感覚だったようです。

初期にはドアすら1枚しかない割り切り

前2輪、後1輪の3輪車でサスペンションはゴム製、FRPモノコックの一部である台座と背もたれにクッションを貼っただけのシートは助手席が運転席より後退しており、初期型は助手席側だけの1ドアで、助手席に人が乗ったままでもドライバーが乗降可能という触れ込み。

途中から運転席側にもドアがつき、窓も引き戸式で開閉可能になったようですが、トヨタ博物館の展示車は2ドアでも窓の開閉はできないようで、どうも仕様が一定しません。

ほとんど手作業で作っていたようですから、引き戸式の窓は受注生産だったのでしょうか?

誰が作ったかと思えば?

他にも普通ならクラッチペダル位置にキックスターターペダルがあり、運転席右側のシフトレバーを左に倒せばクラッチが切れ、前進させれば変速するシーケンシャルシフター、パーキングブレーキの代わりに手動ストッパーと、簡易化とスペース有効活用策が盛り沢山!

ひたすら簡素に安く、経済的という理想を追求した熱意がものすごいフジキャビンですが、設計者が住江製作所のフライングフェザーと同じ富谷 龍一氏だと聞けば納得です。

1人乗りでよければ、EVミニカーで復刻すると面白そう

1950年代の日本ではFRPモノコックの量産自体が無理そうですが、仮にそれがうまくいっても1958年には追浜工場閉鎖に伴う従業員の大量解雇、退職金による経営悪化と鶴見工場の売却が待っていましたから、どのみち失敗する運命でした。

1962年にマン島(イギリス王室領)のピール・エンジニアリング・カンパニーが発売した1人乗りマイクロカー、「ピール P50」とは2人乗りという違いがあるもののコンセプトがよく似ており、簡易EVとして(もちろん鉛バッテリーで)再販したら面白いかもしれません。

その後も浮き沈みが激しかった富士自動車

合わせホイールのようだが、リヤカーのようなタイヤのフライングフェザーを見た後なら、これでも十分本格的に見える

プリムスのノックダウン生産もフジキャビンも失敗、追浜工場閉鎖とバブルが弾けたかごとく凋落した富士自動車ですが、満州帰りで敗戦直後の悲哀も嫌というほど味わった男・山本 惣治、それくらいでは挫けません。

その後もオートバイやモペット(当時は50ccの原付自転車も「モペット」と呼んだ)向け「ガスデン」エンジンの生産・供給は順調で、「ガスデン」や「フジモーター」ブランドで独自にオートバイ生産・販売にも乗り出し、意気軒昂です。

1961年には軽1BOX商用車「ガスデンミニバン」を全日本自動車ショウへ出展、軽4輪車市場への進出を図ろうとしますが…なんとその直後に山本氏が急逝。

強力な牽引役を失った富士自動車はガスデンミニバンの市販を断念、搭載予定だったガスデンの新型エンジンは他社へ供給しますが耐久性が極端に不足しており、3輪/4輪トラックへ積んで市販したホープ自動車がクレーム対応に追われるという、失敗作でした。

華々しく上がったかと思った次の瞬間、猛烈な勢いで落下するジェットコースターのようなエピソードが多かった富士自動車ですが、山本氏亡き後にコマツとの関係を深め、農機や建機に活路を見出すと、ようやく落ち着きます。

1973年に「ゼノア」に社名変更後、分離合併など再編され、現在は部門によってコマツへ組み込まれるか、ハスクバーナ・ゼノアというスウェーデン系農林・産業機器メーカーの日本法人になりました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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