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「走れば振動でアームが折れる」今なら即倒産?スズキの命を繋いだスズライトSLとは【推し車】
目次
他の零細メーカー同様、すぐ消えてもおかしくなかったスズキ
1974年にホンダが軽乗用車から撤退後は長らく軽自動車No.1メーカーへ君臨し、2004年に発売した2代目スイフトあたりから高品質小型車にも力を入れ、現在は日本のみならずインドなど新興国を中心に、小型車メーカーとしても存在感を放つスズキ。
自動車メーカーとしてはホンダ同様の戦後参入組でしたが、その当初は限られた生産設備で貧弱なクルマづくりという、黎明期の軽自動車メーカーにありがちな展開から始まりました。
2代目スズライトバンTL(1959年)や初代キャリイFB(1961年)のヒットでどうにか四輪車メーカーとしての安定を手に入れ現在に至りますが、それまで細々ながらも撤退せずに済んだのは、初代スズライトバンSLのおかげです。
あれもないこれもない、作れるのはこれだけの初代スズライト
スズキの前身、鈴木式織機の創業者・鈴木 道雄は戦前の自動車国産化ブームに乗って四輪車への参入を目論んでいた1人であり、オースチン セブンなど外国車を購入しては分解調査、1939年頃には自動車生産を視野に入れ、新工場まで建設していました。
ただしその頃から日本では戦時色が濃くなり、民需用の自動車より軍需優先、鈴木式織機も機械部品や砲弾の生産に明け暮れますが、戦後に民需生産に戻ると、同じ浜松で創業したホンダが自転車用補助エンジンから始まり、2輪メーカーへ発展するのを見て後追いします。
1952年から販売した自転車用補助エンジンで成功すると、初の2輪完成車(コレダCO)の開発と並行し、1954年1月に4輪車の基礎研究を開始、同年4月に本格的に計画がスタート、9月から10月にかけセダンの試作車2台を作るという早業です。
もっとも、この早業には理由があり、研究資料として購入した数台の外国車と戦前のダットサンのうち、当時の鈴木式織機にあった生産機械でどうにか作れそうだったクルマをよく言えば「参考」に、率直に言えば「使える部分はコピー」したからでした。
何しろ必要な歯車を作れず、FR車は作れないのでダットサンやオースチン セブンのコピーは無理、RR車でもルノー4CVなど大型プレスがないとコピーできないクルマも無理、というわけで、落ち着いたのが西ドイツ(当時)の簡素なFFマイクロカー、ロイトLP400。
初代スズライトは「戦後初の国産FF車に挑んだ力作」と紹介されたりしますが、何のことはなく、他に作れそうなものがない…という消去法で選んだだけというオチです。
4種のボディで発売した初代スズライト、1年目はわずか30台
試作車以前に作った走るだけの裸シャシーも含め、走行テストはなかなか壮絶でした。
走れば振動でアームが折れる、ドライブシャフトはネジ切れる、駆動輪はハブごとモゲて転がり、一緒に油圧ブレーキのパイプも千切れてノーブレーキなので摩擦で止まるのに任せ…というのを、国道1号線でやっていたと言いますから、ノンキな時代です。
エンジンも2輪用の50ccしか作ったことがないので360ccでも十分大排気量で問題続出、カタログスペックでは15.1馬力となっていますが、実際は10馬力も出ていたかという代物。
でも走るんだから東京へ出よう!と試作車2台で勇んで出発するも、箱根の山越えは止まらず一気に駆け抜ければともかく、試作車の1台は登りきれずにオーバーヒート、ドライバー以外は降りてマフラーも外してどうにかクリアしました。
そんな状態でも1955年7月に陸運局で認可を得て、同年10月に軽自動車「スズライト」として発表できたのは不思議ですが、1952年にはプリンスが試作車完成数日後に認可、そのまま発売という例もあり、単にいい加減な時代だったのでしょう。
ともあれ発売にこぎつけた初代スズライトはSS(セダン)、SL(ボンネットバン)、SP(ピックアップ)、SD(デリバリーバン)の4種で、1号車(SS)、2号車(SL)とも工場からの直販で静岡県内の開業医に販売され、晴れて自動車メーカーとなりました。
発売初年の1955年、前年に300トン油圧プレス機を購入したので、試作車のように鉄板を叩く完全手作業でボディを作る必要はなくなっていたものの、初めての機械で勝手もわからず、どうにか生産したのは30台だったそうです。
トラブル続出でも内製にこだわったスズキ
もっとも、「売れてよかった」のか、「売れてしまった」のかは判断に迷うところです。
何しろテストして壊れれば別な部品で…という塩梅、何とか市販にこぎつけたものの、その後も続いたテストでもトラブル続き、売ったクルマはクレーム続き。
それでもスズキが何とか持ちこたえたのは、初期のオート3輪や軽4輪メーカーが他社の部品で作るファブレスメーカーに近い形態が多かったのに対して可能な限り内製にこだわり、無理な部分も委託メーカーと協力して乗り切る姿勢を崩さなかったためでしょう。
ファブレス系は、何しろ既に使われているエンジンや部品を使うので耐久性は優れていましたが、ガスデン(富士自動車)のエンジンでトラブル続出したホープ自動車のように、ハズレを引いてしまうと自社での対応には限界があります。
一方、スズキの場合は内製部品を自力で設計変更するのはもちろん、委託生産の部品もメーカーと共同で問題を解決していったので、初期トラブルは仕方ないにせよ、次第に品質を上げていくことができました。
戦後に数多く誕生してはすぐ消えていった2輪/3輪/4輪メーカーと、その後も生き残れたメーカーの間にあった根本的な違いは、「問題解決を自力で行えたかどうか」にあったと思います。
そういう意味では、日本軽自動車(NJ号、ニッケイタロー)や住江製作所(フライングフェザー)、オートサンダルなどと異なり、スズキこそがスバルに先立つ、初の本格的な軽自動車メーカーだったのは間違いありません。
ライトバンのSLに絞って販売を継続
発売初年に30台を生産したスズライトですが、少なくともセダンSSとバンSLが1台ずつ売れた以降の内訳について、参照できる資料で明らかになっているものはありません。
ただ、1957年4月の廃止まで販売したとも言われるSS/SP/SDについては、公益社団法人自動車技術会の「本格的軽乗用車の誕生と量産化」で、スズライトの初期から関わった稲川 誠一氏がこう語っています。
“途中でライトバン一本に絞って、それでその翌年少し生産したかな(※)、たぶんそうだと思います”
(※筆者注:1956年3月までの1955年度で30台位を作り、直販した)
つまりSS/SP/SDの3種は発表直後のごく初期に数台作ったのみで、かなり早い段階から軽ボンネットバンのSL1種に絞ったようです。
消費税導入(1989年)以前にあった「物品税」では軽乗用車にも高い税金がかかっていましたが、1955年時点では軽商用車に物品税がかからず(1989年時点までも安かった)、安く購入できました。
ピックアップのSPやデリバリーバンのSDは2シーターだったので、補助的とはいえ1人用の後席を持つ3人乗りで、それでいて乗用車風のボディ、補助席を畳めば荷物も載るSLを、後の初代アルトのように「実質は軽乗用車な軽ボンネットバン」として残したのでしょう。
それならもっと荷室が広いSDを4シーター化すれば…と思いますが、初期30台のスズライトはコイルスプリングを使った4輪独立懸架が全くの耐久性不足で、アームが折れるなどトラブル続出。
翌年以降は横置きリーフスプリングへ仕様変更しているので(すぐにそう設計変更できたのも内製の強み)、その過程でSDは重量過大か、4人乗ったり最大積載量いっぱいに荷物を積んだ時の耐久性が不安に思われたのかもしれません。
現在の4輪車メーカー、スズキの礎となったスズライトSL
SLは貨客兼用の軽ライトバンとはいえ、ユニークな横開きテールゲートは直立しているわけでもないので開閉しにくそうで、やはり実質は「税金が安い軽乗用車」だったのでしょう。
それでも何とか実用的と思われたのは、リアにエンジンがないフロントエンジン配置のFF車だったからで、改めて軽乗用車としてデビューした「フロンテ」がリアエンジン配置のRR車になってからも、再びFF化するまでFR車の「フロンテバン」を販売しました。
とはいえ2+1シーター3人乗りのSLはあくまで暫定的に残したクルマで、本格的に2+2シーター4人乗り軽ボンネットバンの2代目、「スズライトバンTL」を1959年に発売します。
それまでの間、スズキが四輪車メーカーとして存続できたのは、初代スズライトSLが「かろうじて売れる(売っていてもいい)クルマ」だったからで、地味であるものの、その後のスズキの発展に重要な役割をしっかり全うしました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...