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「2×3=4×6」この意味わかる?軽自動車No.1メーカー・スズキの《フロンテ71》トンデモ戦略【推し車】

軽自動車No.1メーカーへ駆け上がった原動力、3代目フロンテ

スズキ歴史館へ展示されている3代目フロンテ初期型、「フロンテ71(セブンティー・ワン)」

スイフトやソリオで小型車メーカーとしても存在感を発揮する以前のスズキは、「軽自動車No.1メーカー」として君臨した時期が長かったものの、1960年代あたりの軽自動車史を見ていてもスズキはどうもパッとしません。

当時の内情を知る人のインタビューを読むと、割とアバウトなクルマづくりがその原因だったようですが、それでも軽貨物車キャリイのヒットで命脈をつなぎ、1960年代後半からは軽乗用車フロンテも次第に形を整えて、1970年代にはついにNo.1へと駆け上がります。

その原動力になったのが「フロンテ71」など時期によってサブネームが変わった3代目フロンテで、好評だった2代目フロンテの実用性・快適性をより高めたモデルでした。

アバウトな作りだった初代スズライトから2代目フロンテまで

うねるような曲線基調のコークボトル・ラインから直線基調のスティングレイ・ルックへ転換、フロントフード内には立派なトランクもこしらえたが、全高を下げて空気抵抗低減に努力が払われた

よく販売したなと思える1950年代の初代スズライト

フライングフェザーなど意欲的な設計で評価される車はあったものの、あまりに小規模すぎて発展の余地が少なく、次々に現れては消えていったのが、1950年代の軽自動車メーカー。

やはり継続的に商品を供給できないと、改良を加えつつ次第に販売を増やして、発展・存続はできない…というわけで、戦前から織機メーカーとしてある程度は機械部品の内製・量産が可能な規模を持つ鈴木自動車工業(現・スズキ)が頭角を現したのは、1955年。

発売した初代「スズライト」は率直に言えば西ドイツ(当時)のロイトLP400を当時の軽自動車規格に合わせてコピーしたFF軽自動車でした。

しかし、形だけは整えたものの精度や耐久性はコピーできず、さらに量産のためのラインもないため作りはかなり雑で、大雑把にプレスした鉄板を叩き出した外装はロクな装飾もなく貧相、走ればアームがモゲる、タイヤがハブごと外れて転がるは日常茶飯事。

キャリイがヒットし、RR化でフロンテも軌道に載せた1960年代

それでも初年度に30台を作り、4種類のボディからボンネットバン1種にしぼって改良しつつ量産化を図って次第に販売を増やしていき、1961年に発売したFRの軽貨物車、初代キャリイのヒットでようやく、軽自動車メーカーとして軌道にも乗りました。

しかし、FFの軽ボンネットバン、スズライトバンや軽乗用車版のスズライト・フロンテはエンジンパワーで勝り、FFレイアウトで余裕のできたキャビンや荷室の実用性は高かったものの、500kg台の車重が重すぎて、どうにもアンダーパワーです。

第1回日本グランプリではカリカリにチューンしたエンジンと固めたサスペンションの初代フロンテで宿敵スバル360へ勝利するも、誰もが同じ事をすれば軽い方が速いのは道理で第2回グランプリでは敗北。

そこでスズキは、積載性が求められるボンネットバンはフロントエンジンを続けますが(初期はFF、後にFRのフロンテバンへ発展)、軽乗用車フロンテは1967年発売の2代目からリアエンジン後輪駆動のRRレイアウトへ転換、軽量ハイパワーで好評を得ました。

ライバルメーカーの台頭から巻き返しまで

1970年代ともなるとスズキもシャレっ気が板につき、サイドウインドウ後端のエンブレムはスティングレイ(赤エイ)型

工業製品としてはロクなものではなかった初期のスズライトですが、他にマトモなものがなかった1955年当時なら走るだけマシ、壊れても直せばよかったのですが、1958年に名車スバル360が「マトモに走って壊れにくい軽乗用車」で、あっという間に軽自動車トップへ。

スズキも対抗して改良を進めますが、スバル360もデビュー5年目で新鮮味が薄れた1962年には、4人が快適に座れて後に4ドアも追加したマツダの初代キャロルがヒットして販売トップへ(後にスバル360がトップを奪還)。

さらにスズキが気合を入れたフルモデルチェンジで2代目フロンテをRR化した1967年、FFレイアウトにオートバイの技術を駆使したハイパワーエンジンで多少の車重増加はモノともしないホンダN360が発売されてトップに立ちます。

つまり1958年から1960年代後半までのスズキは、「どれだけ頑張っても発売する頃にはライバルメーカーがより魅力的な新型車を出してくるので、なかなかトップになれない」というもどかしさがあり、マツダやダイハツのように軽オート3輪もないので苦しかった時期。

しかし1960年代末、簡素に過ぎた軽自動車免許、車検制度がないといった問題を抱えたまま高性能化した軽自動車の事故が多発、大ヒットゆえに格好の標的となったN360が悪質な消費者団体から訴訟や恐喝まがいの恫喝を受ける「ユーザーユニオン事件」が発生します。

結果的に団体幹部が逮捕、裁判でも勝利して事件は終息へ向かうものの、ホンダのイメージダウンは避けられず、他に有力なライバルのいなかった時期とあって、ついにスズキが軽自動車No.1メーカーへと駆け上がるチャンスが到来しました。

こう書くと身もフタもありませんが、何かものすごいクルマを作ったからというより、トップが空席になったタイミングの良さが、スズキにとってはラッキーだったのです。

実用性や快適性も高めた傑作、3代目「フロンテ71」

このリアエンジンフード内にスペアタイヤがあるものの、出し入れすると近くの配線がこすれて被膜が破れ、ショートする初期トラブルがあった

もっとも、ホンダが失速するタイミングでモデルチェンジを迎えたのはスズキのフロンテだけではありません。

スバルは名車360の資質を受け継ぐR-2(1969年)、ダイハツは360cc軽自動車最強の40馬力モデルを擁するFFハイパワーマシンのフェローMAX(1970年)、マツダも軽ロータリーは頓挫したとはいえシャンテ(1972年)を繰り出し、3代目フロンテに立ちはだかります。

スズキは2代目フロンテでリアエンジン化による大幅な軽量化と、N360に始まる軽パワーウォーズにもホンダ同様にオートバイの技術で36馬力のフロンテSSがうまく対抗しており、工作精度やデザイン面でもスズライト初期の貧相さからは完全に脱却していました。

ただ、RRレイアウトにはうまく作らないとキャビンが狭い、トランクスペースも小さいという欠点があり、1970年11月に発売、「フロンテ71(セブンティーワン」」を名乗った3代目フロンテはその改善に全力を上げます。

ポイントとしては、デザイン優先で絞り込んだ2代目の「コークボトルライン」から、「スティングレイ(赤エイ)・ルック」と呼ばれるデザインへの転換でキャビン内寸法を広く取り、スペアタイヤやパンタジャッキの格納スペースもリアのエンジン上へ移設したこと。

ホイールベースを50mm延長した効果もあって室内長は65mmも、室内幅も15mmへ広がり、スポーティなイメージを保つため全高は35mm低くしましたが、室内高は10mmダウンへ留め、快適性は大幅に高めたのです。

一方、スペアタイヤの移設は少々クセモノで、いざ出し入れとなると近くの配線がこすれてショートしたうえ、下にエキゾーストパイプもあって、少しでもガソリンが漏れると引火炎上するという設計ミスがあり、早々にリコールで対策を強いられました。

後ろのエンジンの飢えにペアタイヤを置くようになっていた所に、配線が通っていてとめてあったのです。スペアタイヤを出し入れすると、その配線がよくこすれるんだね。そこからショートして火が出てしまったんです。そのトラブルがあちこちから出てきて、原因がわからなくて大変でした。

公益社団法人自動車技術会「本格的軽乗用車の誕生と量産化」当時の鈴木自動車工業技術サービス部長・稲川誠一氏へのインタビューより

それでも、スペアタイヤその他を全てリアに追いやったフロントフード下には、底は浅くとも広々としたトランクスペースが生まれ、実用性は大いに高まったのです。

2×3=4×6?!4ストローク6気筒並と宣伝した2ストローク3気筒

発売半年後には水冷エンジンを追加、パワーダウンを抑えつつ環境対策や2ストローク3気筒エンジンの恩恵もあっての静粛性アップも果たし、スズキはついに軽自動車No.1メーカーへと駆け上がっていく

さらに、2代目譲りの2ストローク直列3気筒エンジンは、カタログで「2×3=4×6 2ストローク3気筒は、4ストローク6気筒に匹敵する」と書かれ、なめらかで静粛性が高く、高級感のある軽自動車用エンジンだとアピールされました。

2ストロークエンジンはクランクシャフト1回転で1回爆発するのに対し、4ストロークエンジンは2回転で1回爆発、つまり同じ回転数なら、気筒数が半分でも倍の回数爆発するのだから、4ストローク6気筒エンジンと同じ回数爆発するのだ────。

だからどうした、と言われそうですが、実際スズキでも1気筒から3気筒まで試作して、もっともスムーズで高回転まで回ったのが3気筒だったらしく、実際他社の2気筒エンジン(※)よりは滑らかで静かだったため、ユーザーには好評でした。

(※スズキ以外でも直列3気筒エンジンが当たり前になるのは、ダイハツが1978年の初代シャレード、1985年の2代目ミラで採用して以降)

パワー面でも、ダイハツのフェローMAXが最大40馬力を発揮したのに及ばなかったとはいえ最大37馬力で、いくらか扱いやすかったと言われています(というより、フェローMAXの40馬力エンジンが高出力と引き換えにピーキーすぎた)。

1971年5月には排ガス規制対策で有利な水冷エンジン搭載車を発売、狭いエンジンルームへ押し込めるため、空冷とは逆にシリンダーを後ろへ大きく方向け、デュアル・ラジエーター方式で冷却性能も確保するなど、苦心を重ねた新開発エンジンです。

しかし、苦労した甲斐あって、低回転でのトルクを重視してもトップグレードの最高出力は37馬力で変わらず、後の4代目フロンテでは若干パワーダウンしたとはいえ排出ガス規制もクリアできたので、環境性能と動力性能の両立が勝負を決めます。

1972年11月へ「フロンテ72(セブンティ・ツー)」、1973年に「ニューフロンテ」と車名とデザインを変えつつ段階的な水冷エンジンへの転換も進み、空冷エンジンが一部へ残るのみとなった末期には、軽トラを除く軽自動車撤退を控えたホンダに代わり、軽自動車No.1メーカーへなろうとしていました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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