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「トヨタクラウンを撃破する皇室御用達車」プリンスグロリア スーパー6【推し車】

プリンス最後の高級セダン、2代目グロリア

トヨタ博物館展示車。バンパー中央のエンジン始動用クランク穴、サイドまで回り込んだウィンカーレンズなどが特徴の初期型スーパー6

振動が少なく静粛性に優れ、スムーズな吹け上がりから現在もファンの多い「直6」こと直列6気筒エンジン。

戦前にもトヨダAA型乗用車へ採用され、戦後も初代日産 セドリックに搭載されるなど国産エンジンにも直6はありましたが、国産初の近代的な直6エンジンといえば2代目プリンス グロリアの「スーパー6」に搭載された、2リッターSOHC直6の「G7」でしょう。

本来はこのG7搭載スーパー6を目玉に華々しくデビューするはずだったとも言われる2代目グロリアですが、実際は直4搭載車が先行し、第1回日本グランプリにもそれで挑んだ結果、スカイラインともどもかなり悔しい想いをすることになりました。

第2回グランプリで雪辱を果たしたとはいえ出遅れた事には変わりなく、販売面では苦戦したようですが、日産と合併以前にプリンスが発売した最後の高級セダンということで、現在でも旧車の中では人気モデルとなっています。

スカイラインの高級バージョンから独立したフラッグシップ

スカイラインの高級バージョンに過ぎなかった初代から一転してモダンな姿となり、メッキパーツの使い方も絶品

1950年代後半のプリンスは、1952年に発売した「プリンスセダン」を1957年にモデルチェンジ、改名した「スカイライン」の上級モデルを計画します。

1959年1月、スカイラインより上等な内装を持ち、1.9リッターエンジンを積む3ナンバー高級セダン(※)、初代「グロリア」を発売。

(※1960年9月まで、小型車の排気量上限は1.5リッターだった)

しかし、小型車枠が2リッターへ拡大されるとスカイラインも1.9リッターエンジンを搭載、さらに同じエンジンを積み、より高価な「スカイライン・スポーツ」がデビューすると、グロリアは単にスカイラインの豪華内装版となってしまいます。

これではフラッグシップの面目は保てない…というわけで、スカイラインは2代目で1.5リッター級大衆向けセダンへ路線変更(1963年9月発売)させる一方、2代目グロリアは一回り大きくなってフラッグシップセダンらしさを明確にし、1962年9月に発売されました。

ただし、フロントがダブルウィッシュボーン+コイル独立懸架、リアがド・ディオンアクスル+リーフとサスペンションの基本構成が変わらなかったのはともかく、搭載されたエンジンは初代のGB4を改良した1.9リッター直4のG4なのは、ちょっと物足りないところ。

逆スラントノーズへ丸目4灯ヘッドライトを配した精悍なフロントマスク、「ハチマキグロリア」とも呼ばれたフラットデッキ上部全周のメッキモールなど、直線的でありながらダイナミックな曲線美も表現した姿は称賛されただけに、ネックはエンジンでした。

もちろんプリンスもそこは計算しており、発売直後のモーターショーでは2.5リッター直6エンジン搭載車の「プリンス2500」を展示しますが、本来は直6搭載車をイメージリーダーとして、もっと華々しくデビューするはずだった、という話も伝わっています。

あるいは開発が遅れた、ライバルのデビューに焦って予定を前倒ししたのかもしれませんが、結果的に古いエンジンでのデビューが、2代目グロリアに暗い影を落としました。

ノーマル同然で挑んでしまった、無念の第1回日本グランプリ

ボディ上部のメッキモールはこのようにボディをグルリ一周していることから、「ハチマキグロリア」とも言われる

2代目グロリアの発売翌年、1963年5月に開催された第1回日本グランプリにはT-VIクラス(1,601~2,000ccのツーリングカー)が事実上の各メーカーフラッグシップセダンの戦いとなり、プリンスも2代目グロリアと初代スカイラインをエントリーさせます。

しかしこのレース、開催前に各メーカーが「出場車の改造に関与しない」という紳士協定を結んでいたものの、あくまで「協定」であり、レースへ参戦するうえで守らなければいけない「規則」ではなく、規則の範囲内でメーカーが改造してもなんら違反にはなりません。

つまり「レースはスタート前から始まっていた」わけですが、レース直前の練習走行まで紳士協定を信じ、「性能では負けないんだからウチが勝つ」と思いこんでいたのは、プリンスとスバルだけでした。

いざ練習走行が始まると各社とも明らかにメーカーチューンドに腕の立つドライバーを載せ、ワークス体制で走らせているのですから、高級セダンのスペック対決だと思いこんでいたプリンスは仰天、慌てて試作部品で可能な限りのチューンをしても時すでに遅し。

T-VIレース本番では、トヨタのクラウン(2代目)をフォード タウヌス17Mやいすゞ ベレルが猛追、在日米軍のスイッシャー中佐が鬼気迫るドリフトで追い上げるベレルに、多賀 弘明のクラウンが逃げ切り優勝を飾り、日産のセドリック(初代)も後に続きました。

プリンスはそんな盛り上がりからすっかりカヤの外、最新のグロリアは9位止まりで、プリンス最高位の8位に入ったモデル末期の初代スカイラインにすら負けてしまいます。

これを「紳士協定破り」と言うのは簡単ですが、実際問題としてプリンスとスバル以外はちゃんとレースをするつもりで準備万端整え、勝っても何の問題もありません。

普通に新聞広告で「われらが高性能車の大勝利!」と謳い上げるライバルメーカーの陰で、なんとも間抜けな惨敗を喫したプリンスは上層部が激怒し、同社のレース関係者は始末書を書きながら雪辱を誓ったといいます。

実際のところ、「レースとは販売促進活動であり、勝つためにできる限りの事をするのが当然」という大原則を上から下まで誰も理解していなかったのが原因ですが、こういう時に一番損な想いをするのは現場なのでした。

これがグランプリに間に合えば…「スーパー6」の登場

最高級車らしい気品あるインテリア

第1回日本GP直後、トヨタなどが勝利の成果を誇らしげに報告して販売促進に結びつけたのに対し、プリンスではユーザーからの「どうなってんだ!遅いじゃないか!」というクレームで、販売現場も困り果てたと伝わっています。

グランプリから1ヶ月半後に発売された、本来なら「目玉商品」だったグロリア スーパー6を見た時の、関係者やユーザーはどんな心境やいかに?

「これなら次は負けない」と奮い立つ人、「負けないって言ってて惨敗して1ヶ月半たつのに、そう簡単に信用できるか」と怒り続ける、さまざまだったと想いますが、いずれにせよ「これでグランプリに出ていれば…」と思ったのではないでしょうか。

それほどグロリア・スーパー6はインパクトがあり、これぞ本物のフラッグシップセダンだ!と言えるほどの高級感と高性能を持っていました。

メルセデス・ベンツを参考にした2リッターのG7は国産初のSOHC直6エンジンで、静粛性や振動面で理想的と言われる直列6気筒エンジンの利点を前面に出しつつ、国産初の100馬力オーバーとなる最高出力105馬力、最高速も直4のG2搭載車を10km/h上回ります。

もちろん紳士協定を守っていれば、いかに高性能のスーパー6でもワークスチューンにかなわなかったと思いますが、もしプリンスが最初からレースをやるつもりで、スーパー6も前倒しで販売していたら…と、「1ヶ月半遅れのデビュー」が悔やまれました。

雪辱を果たした第2回GP

いわゆる「ベンコラ」(ベンチーシート&コラム)で6人乗りのシートも、安っぽさは感じさせない

翌年の第2回日本グランプリは、「本気になったプリンス」とライバルメーカーによる仁義なき争いとなり、プリンスも去年と同じT-VIクラスへ、もちろんグロリア スーパー6で参戦、今度はG7をチューンした「GR7A」を搭載し、しっかり足回りも固めました。

GR7Aは、GT-IIクラスへ参戦したスカイラインGTが積むウェーバー3連キャブのGR7B(150馬力)ほどではなかったものの、市販型G7を35馬力も上回る140馬力を発揮するれっきとしたチューニングエンジンです。

最大のライバルはもちろんトヨタのクラウンでしたが、2リッターSOHC直6のM型搭載車が発売されるのは翌1965年で、1.9リッターOHV直4の3Rという、去年と同じエンジンで迎え撃った結果、グロリア スーパー6は見事に1.-2フィニッシュで優勝!

ホラ、ちゃんと本命のマシンでマジメにレースをやれば、トヨタなんかに負けるわけないんだよ!と思ったかもしれません。

レース後にはスーパー6のG7をベースに2.5リッター化したG11を積む、3ナンバー最高級セダンの「グランド・グロリア」を発売、ホイールベースを延長したVIP向け特装車「グランド・グロリア・カスタムビルド」は皇室にも納車され、皇室御用達の面目も保ちました。

また、G7をデチューンした直6廉価版「グロリア6」や、そのバン/ワゴン仕様も追加するなど、直6エンジンが中心のラインナップとなっていきます。

日産との合併で、「最後のプリンス グロリア」へ

1周するメッキモールはテールで一段下がる曲線を描き、国産セダンは類を見ないほど、なんとも色気のあるデザインに仕上げている。

しかし、グロリアの栄光の日々は長く続きませんでした。

グランドグロリア発売からわずか1年後の1965年5月、根本的な販売不振を脱しきれなかったプリンスは、自動車業界再編を推進していた通産省(現・経済産業省)からのあっせんや、実質的な親会社ブリジストンとメインバンクの都合もあって、日産との合併を発表。

翌1966年8月に合併が現実のものとなると、「日産・プリンス グロリア」となり、開発中だった3代目が1967年4月に発売されると、正式に「日産 グロリア」となります。

それでも開発したのはプリンスであり、独特の縦目4灯ヘッドライトなど独自デザインを貫いていましたが、4代目からはセドリック(230型)の日産プリンス店向け兄弟車になってしまい、ついにプリンス グロリアの灯は途絶えてしまいました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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