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負けて咲き誇った“伝説の始まり”『スカイラインGT』…プリンス時代のスカイラインたちを偲ぶ【推し車】
目次
国産車業界最大の再編劇から現在まで生き残るスカイライン
日本の自動車メーカーが、業界再編の続くバス/トラックメーカーや小規模メーカーを除き、おおむね現在の顔ぶれになったのは1970年頃、コニー(愛知機械工業)が自社生産から撤退し、完全に日産の子会社として組み込まれた時でしょうか。
それまでは戦前からの名門、戦後に将来の大メーカーを夢見たり、あるいは実験的車種の実現を目指した中小〜小規模メーカーが乱立していましたが、多くは撤退するか大メーカーの傘下へと再編されます。
その再編劇でもっとも大規模だったのは、1966年8月に日産に吸収合併された「プリンス自動車工業」で、その後も日産が1999年にルノーと資本提携するまで、1つの会社に2つのメーカーが存続しているような状況が続いたものです。
今回はそのプリンスを何回かに分けて振り返り、その後も日産車として存続した車種を中心にご紹介、最初は現在もまだ生き延びているスカイラインのプリンス時代です。
初代はプリンスセダン後継のフルサイズ小型高級車
旧立川飛行機の技術者が戦後に結集、オオタ(高速期間工業)の車体を電気自動車化した「たま」シリーズを作り、旧中島飛行機系ながら戦後はブリジストンの資本下で、富士重工(現・SUBARU)に加わらなかった富士精密と合併したメーカーが「プリンス」です。
1952年には富士精密製のエンジンを載せた「プリンス・セダン」を発売、初代トヨペット・クラウンに先立つ戦後初の本格的国産乗用車とも言われますが、その後継として1957年に発売されたのが、初代スカイラインです。
当時の小型車枠は排気量1.5リッターが上限でしたから、プリンス・セダン、スカイラインともに当時としては小型車枠いっぱいのフルサイズ高級乗用車という事になり、エンジンが優秀だったので、クラウン以上の性能を誇りました。
2代目以降のイメージでスポーツセダン、あるいはそれをベースにしたスポーツクーペのイメージが強いスカイラインですが、最初は高級乗用車からスタートしているので、インフィニティ車の日本仕様であるV35以降、現行のV37までは「先祖返り」とも言えます。
ミケロッティがデザインした「スカイラインスポーツ」
合併した富士精密と同様、プリンスも「たま電気自動車」時代からブリジストン創業者の石橋 正二郎の出資を受け、その影響下で海外にも早くから進出を試み、西ドイツ(当時)でNSUから同社の大衆車「NSU プリンツ」から商標権でクレームがついた逸話もあります。
それだけでなく、デザイナーをイタリアのカロッツェリアへ修行に出しつつ、並行してスカイラインをベースとしたスポーツカーのデザインを依頼しており、それに応じたミケロッティによって、「スカイラインスポーツ」がデザインされました。
コンバーチブルとクーペの2種が作られ、トリノショーへ出展すると「チャイニーズ・アイ」と呼ばれる、目の吊り上がった四灯式ヘッドライトや流麗なデザインが好評で、1962年4月には市販にこぎつけます。
生産に当たっては、ミケロッティからの依頼でショーモデルを作った工房の職人を日本に呼び寄せ、その指導によってハンドメイド生産しており、非常に高価、かつ生産台数の少ないモデルとなりました。
ただし、スポーツカーとはいえ1.9リッターエンジン(※)は通常のセダンと同じ、いわばカッコだけのスペシャリティカーで、1963年に第1回日本グランプリへ出場するも、ダットサン・フェアレディ1500やトライアンフTR4などへ全く歯が立たずに終わっています。
(※小型車枠が1960年9月に2リッター上限となり、上級版「グロリア」と同じエンジンを積むようになった)
それでも国産スポーツカーなどほとんどない時代でしたし、戦後初の高級ラグジュアリースポーツとして、自動車史に名を残しています。
2代目では高級車からアッパーミドルクラスへ
1963年には2代目へモデルチェンジ、上級派生車の「グロリア」が本格的にトヨペット・クラウンや日産 セドリックへ対抗する高級セダンへの道を歩んだので、スカイラインは格下げして1.5リッター級ミドルクラス大衆車へ。
「大衆車」といっても、当時のトヨペット・コロナや日産 ブルーバードが1.0~1.3リッター級なのでそれよりは格上、後の日産 ローレルやトヨペット・コロナマークIIのような、アッパーミドルクラス・サルーン的なハイオーナーカーと考えてよいでしょう。
実際、第2回日本グランプリでは、T-Vクラスに出場したスカイライン1500がコロナやいすゞ ベレットに対して1〜7位まで独占する圧勝で、格の違いを見せつけました。
ただ、当時のプリンスは事実上のオーナーであるブリジストンの石橋 正二郎が大衆車の販売を許さず、さりとて当時の庶民にとっては価格面でまだ身近な存在といえなかったスカイラインがエントリーモデルでは、販売台数をうまく稼げません。
おそらく「ノイエ・クラッセ」こと1500シリーズで高級スポーツ路線を歩み始めた、BMWの日本版になろうという狙いがあったかもしれませんが、戦前にまだ大衆向け自動車文化が存在せず、戦後復興期から高度経済成長期に入ったばかりの日本ではまだ早すぎました。
販売自体は好調だったとはいえ、プリンスが日産への吸収合併を余儀なくされ、2代目スカイラインも1966年8月以降は「日産 プリンス・スカイライン」とならざるをえなかったのも、致し方ない話でした。
負けて咲き誇った「伝説の始まり」、スカイラインGT
ところで2代目スカイラインには、「スカイラインGT」という特異な、あるいは異形とも呼べるモデルが存在しました。
1963年の第1回日本グランプリでは全くの準備不足で大敗し、怒り狂った石橋 正二郎が第2回での勝利を厳命したため、グロリアやスカイライン1500とともに「グランプリの目玉」としてGT-IIへ投入したもの。
直列4気筒エンジンのスカイライン1500をベースに、グロリア・スーパー6用の直列6気筒SOHCエンジンG7を無理やり積むべくフロントを延長した特殊なマシンです。
最初はスカイライン・スポーツへG7を積んで試作したものの、もともとが1957年発売の初代スカイラインがベースですから、シャシーや足回りが根本的にポテンシャル不足。
「国民車構想」に乗って開発した大衆車CPSK(※1)ベースのスポーツカーCPRB、そのデザインを流用した2代目S50系スカイラインベースの「1900スプリント」も候補にあがりましたが、G7を積むのためフロントを延長するとデザインバランスが崩れます(※2)。
(※1:石橋 正二郎が大衆車に首を縦に振らなかったのでお蔵入り)
(※2:実現していればロングノーズ・ショートデッキのGTカーになり、ジャガーEタイプのようでカッコ良かったと思う)
結局は2代目S50系スカイラインのフロントを伸ばしたロングノーズ仕様になるわけですが、市販車と認められるため、グランプリまでに突貫作業で100台作る必要を考えれば、スカイラインGTで正解だったのでしょう。
第2回グランプリでは、ポルシェ カレラGT-S(ポルシェ904)を持ち込んだ式場 壮吉に敗れはしたものの、ドライバー同士の紳士協定で1度だけポルシェの前を走らせてもらえたのが大ウケし、後にGT-Rまで生む「スカイライン伝説」の元となりました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...