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「ホンダF1の参戦は意味ある決断だった」最初期を彩った“黄金のRA270”と“急造のRA271”【推し車】

ホンダF1の最初期を支えた2台のF1マシン

ホンダコレクションホールに展示されているRA271

今から60年近く前の1964年1月30日にホンダはF1参戦を表明、「第1期ホンダF1」が正式にスタートしますが、その時点ではエンジンコンストラクター(エンジン供給メーカー)という形だったものの、供給先(ロータス)の都合で御破算。

エンジンテストベッドとしては、デル・コンテッサや三菱コルトF3より早く国産初のフォーミュラカー「RA270」を完成させていたものの、クーパーT53を参考にした古い構造で、F1を戦える性能はありません。

しかしせっかちな「オヤジさん」こと、カリスマ創業者の本田 宗一郎 氏がジックリ熟成など待つはずもなく、ホンダは突貫作業で開発した「RA271」で世界最高峰の荒波へ漕ぎ出すのでした…今回はそんなホンダF1第1期最初期のマシン、RA270とRA271を紹介します。

目指せ270馬力?!しかし太くて重すぎた黄金の試作車RA270

270の意味するところは…

現存しないのが惜しまれる「黄金のF1マシン」、RA270

1962年にスタートしたホンダの「第1期」F1プロジェクトは、既に世界のグランプリレースを制覇していた2輪での知見を活かした125ccのシリンダーを、V型に12個並べた1.5リッターV12エンジン「RA270E」の開発から始まります。

1963年末に完成、試運転を始めたRA270Eによって、自力開発しないチーム向けにエンジンを供給する、コベントリー・クライマックス(英)のようなエンジンコンストラクターとしてF1へ参戦する予定だったホンダですが、どのみちエンジンのテスト車両は必須。

とにかくエンジンを載せて走れればいいので、参考資料として購入したクーパーT53をベースに、2輪同様の横置きでRA270Eを搭載する試作車「RA270」も製作されており、F1参戦を公式発表した直後の1964年2月6日には、荒川のテストコースでシェイクダウン。

このRA270の「270」という数字については、ホンダ公式「語り継ぎたいこと」ではこう書かれています。

「エンジンの馬力目標は宗一郎さんが決める。出るか出ないかの理論はない。とにかく勝つためにはこれだけ出せ。RA270というコードネームは、『270馬力出すんだよ』と言って付けられたくらいです」(当時のエンジン性能担当・奥平(おくだいら)明雄)。

F1参戦-第1期より

一方で目標最高速度270km/hという意味だ、という記述も見られるものの、RA270自体は鈴鹿サーキットで試走したジャック・ブラバム曰く、「重い、太い、パワーがない」の三拍子で酷評され、確かに270馬力も出さねばF1での勝利は覚束ないマシンでした。

実際は200馬力で「オヤジヨロコブ」

1.5リッターV12エンジン横置きという以外は全てが新設計されたRA271

そもそもRA270Eエンジン自体、F1参戦発表で宗一郎氏が200馬力と断言した程度で、実際にはなかなか出力が上がらず、「200馬力って言っちゃったから仕方ないな!」というノリで、その日から徹夜で200馬力を目指すハメになった代物です。

1964年2月13日のベンチテストでようやく200馬力へ到達(最終的に210馬力を記録)、当時のエンジニアのメモに「オヤジヨロコブ」と記入されたほどですから、1.5リッターで270馬力はまだまだ遠い夢でした。

それでも志は高かったようで、荒川でのシェイクダウン時は白く塗装されたRA270に、宗一郎氏は日本のナショナルカラーのつもりで(※)「金箔を貼れ!」と命じます。

(※金屏風や金扇子に日の丸ってのも、たしかに日本っぽいですから…)

この時ばかりは塗装職人もさすがにブチキレますが、どうにかそれっぽい色を塗装メーカーに頼んで、なんとも派手な「黄金の試作車RA270」が生まれました。

もっとも、当時のナショナルカラーは既に南アフリカが「ゴールド」で登録していたらしく、実際のレースではアイボリーホワイトに赤い日の丸で落ち着いたそうです。

ロータスのキャンセルで急きょ開発したRA271

RA271はロータスのキャンセルからわずか4ヶ月でシェイクダウンしており、ロータスのせいで急造したというより、設計中の試作車を実戦用に「昇格」させたに近いと思われる

しかし世の中うまくいかないもので、「1台は2輪で名高いホンダのエンジンを使いたい」と言っていたロータスが、諸事情で2台とも従来からのコベントリー・クライマックスを使うことになり、開幕直前の1964年2月になって、RA270Eは宙に浮いてしまいました。

ならばRA270で出るかと言えば、前述の通りジャック・ブラバムから酷評される性能ですから、次期エンジンテストベッドの予定だったRA271を、実戦用マシンへと「昇格」。

エンジンコンストラクターとしてではなく、オールジャパン、オールホンダで1964年中の参戦を目指して、急きょ開発します。

重い、デカイと言われたボディはパイプフレーム式からアルミモノコックへ変更、リヤサスのマウント場所を確保すべく、エンジンそのものを剛性材として使う「ストレスメンバー」を先取りしたモノコック+スペースフレームを採用。

デカくて重い割にパワーがないと言われたRA270Eも、シリンダー間を詰めるなど苦労して全長を12cmも短く、軽く作り変えたRA271Eへ発展しますが、何しろ急造なもので無理な部分も出てきます。

もっともわかりやすいのがボディ後端に丸見えのバッテリーで、いくらミッドシップレイアウトでもこんなオーバーハングに重量物を積んでは意味がありませんし、フロントからのラジエーター配管もドライバーの肩口を通るので火傷する代物でした。

それでもロータスから断りの電報が入ってから4ヶ月後の6月には荒川テストコースでシェイクダウンし、軽くテストしただけで8月2日にニュルブルクリンクでF1グランプリ第6戦が開催されるドイツへ向け、RA271は慌ただしく旅立ったのです。

参戦する事に意義があった1964年のホンダF1

出場3戦完走扱い1回、最高位13位

狭いコクピットで計器も少ないが、オーバーヒートに悩まされたというので水温計は気になっただろう

どうにかニュルにたどりつき、3ヶ月前の第2回日本グランプリ(1964年5月)ではホンダS600でGT-Iクラス優勝の成績を上げていたものの、F-1レーサーとしては未知数のアメリカ人レーサー、ロニー・バックナムへRA271のステアリングを託したホンダF1チーム。

テストもロクにしていない急造マシンに新人ドライバーですが、「とにかく行って勝て」と尻を叩いて送り出し、勝てなければ「なんで勝てないんだ、次はどうするんだ、それで勝てるのか」という本田 宗一郎が、日本からスパナ片手に睨んでいては逃げ場がありません。

予選すら満足に走れなかったものの、温情で本戦のグリッド最後尾にはつかせてもらうと、奇跡的にマトモに走って22位(最下位)から一時は9位まで追い上げ、残り3周でナックルアームが破断しクラッシュしたものの、一応は完走扱いで13位となりました。

RA271の戦績はこれが最高で、9月のモンツァ(イタリアGP)、10月のワトキング・グレン(アメリカGP)もリタイヤで、結局参戦初年度は完走なし。

信頼性もさることながら、そもそも根本的に他のマシンより数十kg重いなど未完成にもホドがあり、しかもゴム製燃料タンクはレースを完走できる容量がなく、「出るだけだからスタートできればいい」と割り切っていたそうで、3回スタートできただけマシでしょう。

RA271EエンジンもドイツGP直後に京浜キャブから機械式インジェクションへ改め、翌年に向けた成果は十分に得て、翌1965年には改良版RA272でホンダF1は初勝利をあげました。

ホンダはなぜそこまでして「参戦」にこだわったのか

後端から丸見えの位置に重いバッテリーを積んでしまうあたり、RA271はまだまだ未完成のマシンだった

当初エンジンコンストラクターとして参戦する目論見が狂っても、独自マシンで生みの苦しみを味わってまでスタートした第1期ホンダF1ですが、なぜそこまでこだわったかといえば、「市販車への技術的フィードバック」を目的としていたからです。

もちろん軽トラ(T360)と小型スポーツカー(S600)しか作っていないホンダが、スーパースポーツをいきなり世に出すわけではなかったものの、技術者の育成という意味では十分にその目標を果たしていたと言えます。

何しろ当時のホンダは予算の7割をF1につぎ込んでいたと言われていますが、F1プロジェクトの立ち上げが一段落すると開発の優先順位がつけられて、新型の軽乗用車を最優先として開発力を注ぎ込みます。

その新型車へF1で鍛えたエンジニアたちが加わった結果、猛烈にパワフルでスポーティな軽乗用車「N360」として1967年に発売されると同時に大ヒット、ホンダを、そして日本の軽自動車やモータリゼーションを大きく変えていきました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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