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セナ&中嶋悟による無敵の黄金時代!ホンダエンジンが表彰台を独占したマシン・ロータス ホンダ 99T【推し車】
目次
ウィリアムズによるWタイトルだけではなかった1987年
第2期ホンダF1は1986年のウィリアムズ ホンダ FW11によるコンストラクターズタイトル獲得、そして翌1987年には同FW11Bとネルソン・ピケによるコンストラクターズ&ドライバーズのWタイトル獲得により、大きな目標を達成しました。
しかしその1987年、その後のホンダにとって、そして日本人にとって意義深かったのは、「もうひとつのホンダ」、ロータス ホンダ 99Tだったかもしれません。
コンストラクターズランキングではマクラーレンに次ぐ3位にとどまりましたが、重要な役割を担ったロータス ホンダ 99Tとは。
第2のホンダエンジン供給先、因縁のロータス
1983年からエンジンコンストラクターとしてF1へ「復帰」以来、ホンダはそれまでのヨーロッパや日本でのF2の経験から、フォード・コスワースDFVのように広く販売とはいかないまでも、複数チームにエンジンを供給したいという意向を持っていました。
その方が開発上もエンジンコンストラクターとしての実績を積むにも有利ですが、スピリットの次に供給を決めた強豪チームのウィリアムズが独占供給を求めたため、その時点での3年契約(1986年まで)ではウィリアムズにのみ供給、スピリットへは打ち切っています。
しかし1987年からはいよいよウィリアムズ以外へも供給を決め、「第2のホンダF1」となったのは奇しくもチーム・ロータス。
第1期ホンダF1の時も当初はエンジン・コンストラクターとしてロータスに供給する予定が1964年の開幕直前に諸事情で反故となり、仕方なくオールホンダ体制でRA271を作って参戦…という歴史を考えると、23年の時を経て因縁のタッグ実現!でした。
ちなみにこの頃のロータスはF1ターボ時代の尖兵だったルノーエンジンが相変わらず信頼性が低いのに苦しみ、1985年から加入した若き天才、アイルトン・セナをもってしても同年、翌1986年と2勝ずつにとどまるという、伸び悩んでいた時期です。
そのセナが、1985年のカナダGPから投入されたウィリアムズ ホンダFW10のホンダRA165Eエンジンのパワーに驚き、ホンダエンジンを熱望した…という話も伝わっています。
それが決め手ではないにせよ、ホンダにとってもエンジンさえマトモなら高い戦闘力を持つマシンを作れる名門チームとのタッグは、望むところだったでしょう。
天才セナと初の日本人レギュラードライバー中嶋 悟
ロータスへのホンダエンジン供給は、単に「ホンダエンジン初の第2カスタマー」というだけでなく、その後のホンダと日本にとって重要となる、2人のドライバーとの出会いがありました。
それがF1史上最高のドライバーと称される1人であり、「天才」、「音速の貴公子」といった2つ名を持つ偉人、若き日のアイルトン・セナとの出会いであり、そして日本人初のF1レギュラードライバーとなった、中嶋 悟の加入です。
1984年にトールマンからF1デビュー以来、直4ターボのハートエンジンで戦闘力が劣るTG184で2位(モナコGP)、3位2回という腕前で翌1985年にロータスへ引き抜かれ、信頼性の低いルノーV6ターボでも1986年まで2年連続で2回優勝していたセナ。
言うまでもなく後のマクラーレン時代にはプロストとともに第2期ホンダF1で無敵の黄金時代を築き上げた、伝説級の名ドライバーです。
そして中嶋はその才能を認められたホンダに支援され、日本だけでなくヨーロッパのF2でも揉まれて実績を積み、満を持してのロータス入り。
1975年の鮒子田 寛に始まり、1976〜1977年のF1日本GPを経て何人かいたスポット参戦ドライバーとは意味合いが異なる、日本人初のF1レギュラードライバーでした。
しかも1982年には全日本F2のJPSトロフィーで勝った副賞としてロータス92のテストをした縁もあるロータスへの参戦であり、1984年以降はホンダエンジンを積むウィリアムズFW10のテストドライバーも努めていた中嶋には期待がかかります。
そして何より、中嶋のフル参戦で日本全体が大きく動き、1987年からのF1日本GPレギュラー開催、フジテレビによる全線放映も実現したことにより、日本人にとって「F1」が一気に身近な大イベントとなりました(※)
(※筆者もそれでF1を知ったクチですが、日本人F1ファンにとっては「フジテレビ以前か以降か」で、知識や価値観も大きく異なるようです)
ホンダへ2勝をもたらし、ホンダ1-2-3-4フィニッシュも!
さて1987年シーズン、ウィリアムズFW11Bと同じホンダRA167Eを積んでデビューしたロータス99Tですが、保守的なウィリアムズと異なり新技術への果敢なチャレンジでも知られた名門ロータス、この年も「アクティブサスペンション」という武器がありました。
コースレイアウトに応じてダンパーを電子制御して車高や特性を変化させ、理想的な空力や操縦性を実現するアクティブサスペンションは、後年になって多くのチームが導入してレースに大きな影響を与えますが、この頃はまだまだ未知の部分が多かったようです。
信頼性が低い、コンピューターの能力不足、エンジニアが使いこなせない、うまく動いたところでタイヤへの負担が低すぎて発熱不足にグリップ不足、といった諸問題を抱えてロータスは悪戦苦闘し、そのポテンシャルを十分に発揮できません。
そのため実際は全戦アクティブサスではなかったのでは?と言われるくらいですが、それでも天才アイルトン・セナによってモナコGPとアメリカGPでは優勝したほか2位4回に3位2回、サンマリノGPではウィリアムズの2台を押しのけポールポジション。
日本人ルーキーの中嶋も、4位を最高に6位までの入賞4回と健闘し、成績上はウィリアムズに次ぐセカンドチームでしたが、十分な実力を発揮したのです。
特に中嶋が4位に入ったイギリスGPではセナも3位、そして1-2位はウィリアムズの2台でしたから、ホンダF1史上初の「ホンダエンジン1-2-3-4フィニッシュ」を成し遂げるという、素晴らしい結果を残しました。
ただしこの頃からロータスは慢性的な資金不足で、翌1988年もマクラーレンに移籍したセナに代わりウィリアムズからネルソン・ピケが加入、引き続きホンダエンジンを積んだロータス100Tで戦うも十分な結果が残せず、その年でロータス ホンダは最後になりました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...