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「えっ?これ全部軽自動車?」60’s初期日本GPを盛り上げた3つ巴の大決戦!スバル 360 vs スズキ フロンテ vs マツダ キャロル【推し車】
目次
初期の日本GPで実は一番面白かった?軽自動車の戦い
1960年代はじめ、日本ではようやく少しずつ富裕層以外の一般ユーザーにもクルマが売れ始めてきて、各社とも躍進の機会と新型車を投入するも、何しろ実際にクルマを運転するだけならともかく、乗り比べなんてそうそうできませんから、クチコミや評判が大事です。
そうなると一番わかりやすいのは「ヨーイドンで走ったらどっちが速いの?」という比較ですが、1963年に始まった日本グランプリは、ユーザーにとっても気になりますし、メーカーとしても評判に関わる重大事でした。
特に1963年の第1回、翌年の第2回は市販車同士の競争がメインでしたから、外野から見ると面白いドラマが生まれますが…今回はもっとも小さく、しかしもっとも熱かった400cc以下のクラスで激しく戦った、3種の軽自動車を紹介します。
「やられた!」二輪でレースを知るスズキに屈したスバル
1963年の第1回日本グランプリでは、よく「卑怯にも紳士協定を破ったトヨタが掟破りのチューニングカーで各クラスを制し…」なんて書かれてますが、実は全く話が異なります。
何しろレースなんて初めてというプライベーターを放っておくと、無茶な運転で事故は起こす、車は壊すで済めばともかく、それが悪評として伝われば販売にも響くというわけで、自動車メーカーから部品メーカーまで、どこも裏に表に動き回っていた、というのが実情。
これからもクルマを売りたきゃ、紳士協定がどうのと言ってる場合じゃないぞ…と、理解はしていたものの、メーカーによってスタンスは分かれます。
トヨタ、日産、いすゞ、日野、スズキは、海外や二輪で既にレースやラリーを経験しているか、事情通の外国人を介して情報を仕入れるなどして準備万端。
それに対してプリンスは、「性能が劣るヨソにウチのクルマが負けるわけがない」、スバルも全く同じで、多少馬力があっても重たいスズキのフロンテに負けるわけないと、400cc以下の軽自動車クラスにはNo.1、2ドライバーを出場させない余裕の構え。
しかしフロンテFEAをフルチューンし、前年完成のテストコースでしっかり走り込んできたスズキワークスは見事に1-2フィニッシュを決め、自分たちの甘さを目前で見せつけられたスバルは、レース後の晩に早くも翌年の雪辱を誓ったのです。
スズキ以外にも意外なライバル、マツダ キャロル登場!
こうしてスバルワークスが始動、1964年の第2回グランプリに向けてスバル360のフルチューンに挑み、エンジンは信頼性の38馬力、バランスの取れた40馬力、ハイリスク・ハイリターン狙いの42馬力と3つの仕様を作って、40馬力と42馬力が主力となります。
他にもアレコレと手を加え、いかにスズキが頑張っても、フロンテより100kg以上軽いスバルが簡単に負けることはない、否、今年こそ勝つ!と意気込んでいたところ、思いもよらぬところから伏兵が現れました。
それがマツダ キャロルで、フロンテと同じくらい重いはずなのに、予選では40馬力オーバーのスバルに肉薄するタイム、つまり直4OHV・水冷4ストロークエンジンはスバルの直2空冷2ストより馬力で勝るのは明らか。
しかもエースドライバーは2輪のレースで勇名を轟かせ、後にマツダロータリー軍団の中核としてスカイラインGT-Rの撃破に大きな役割を果たす片山 義美が出てきて、スバル vs スズキにマツダも加わる三つ巴の大バトルが、始まろうとしていました。
勝敗の行方は二輪出身、大久保 力の「秘策」に託された!
ここでスバルワークスが小関 典幸率いる社員ドライバーチームだけなら、スズキの望月 修、マツダの片山 義実の追い上げに不測の自体が生じていたかもしれません。
しかしスバルにも外部から契約した二輪レース出身のドライバー、大久保 力がいたのが幸いで、これが最終的な勝敗を決めました。
すなわち、エンジンなどそれまでのチューンだけでなく、一発の速さを狙って規則に違反しない範囲でアレコレと手を加えた「予選スペシャル仕様」でポールポジションを獲得。
さらに、「副変速機付き3速MTで、実質3×2の6速MTだった」と言われるスバル360のレース車ですが、40馬力仕様の大久保車だけは変速時の空走を嫌い、超ハイギアード仕様の4速MTを組んだのです。
これでスタートにさえ成功すれば、他車がシフトアップしている間も加速を続ける大久保車はトップで1コーナーへ飛び込み、後は低回転域を使うハメにならないよう、減速せず舞うように走れば勝つ!(はずだ!)
もちろん堅実ハイパワーな42馬力仕様の小関車がトップに立つ事もありえるので、そこは先行された方が3位以下をブロックして先行車にプレッシャーを与えない段取り。
さらにスバルの7台中4台は1度ピットインして、あえての周回遅れからフロンテやキャロルをブロックするという、もうなりふり構わぬチーム戦略です(※)。
(※そんなの卑怯じゃないかというなかれ、当時のレースじゃ当たり前の話)
実際にスタートすると大久保車が先行、小関車がスズキ・マツダ両ワークスを抑える役目を果たし、スバル360は大久保車、小関車が見事に1-2フィニッシュ!
前年優勝の望月フロンテを3位、脅威の伏兵、片山キャロルを4位に従え、見事に第1回グランプリの雪辱を果たしました。
この名勝負は、もっと広く語り継がれるべき
ちなみに、1963年の大敗後はプリンス同様、スバルにも「なんで遅いんだ」と苦情が殺到したので、1964年の第2回グランプリで勝利したスバルは巻き返せたか…というと、そう単純にはいきません。
そもそもスバル360は1962年に発売したキャロルに軽乗用車販売のトップを奪われており、第2回グランプリの結果が多少響いたとはいえ、1964年もキャロルが軽乗用車で56%とトップを維持するという、意外な結果になりました。
1965年には巻き返したスバル360がトップを奪回するも、1967年にはホンダのN360に圧倒され…と案外報われず、第1回グランプリでの失敗が惜しまれます。
もう1つの雄、スズキも第1回優勝、第2回3位入賞と結果を出した割に、FF車の信頼性不足が響いてか市場でのシェアは拡大できず、2代目フロンテ(1967年)からRRレイアウト化、軽量ハイパワー路線でホンダN360へ挑むことに。
結果的には、第1回、第2回日本グランプリで熱く火花を散らした3社とも販売に大きな影響は出せず、「しょせんは下位のマイナー争い」で目立たなかったとはいえ、レースにかける情熱はトヨタやプリンスの熱戦に決して劣らない、歴史に残る名勝負でした。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...