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《ウィリアムズ ホンダ FW11》F1界の“ビッグカップル”がもたらした興奮と勝利のマシン【推し車】

「F1参戦」から「F1での勝利」に目標をステップアップ

ホンダコレクションホールに展示されている、ウィリアムズ ホンダ FW11(マンセル車)

1980年からラルト ホンダ RH6でF2ヨーロッパ選手権に参戦して2年目から快進撃、1983年にはスピリット ホンダ 201CでF1への「復帰」も果たしたホンダですが、とにかくレースに出るからには勝たねばなりません。

しかし、自ら出資したとはいえ新興チームのスピリット・レーシングでは開発用テストベッドとしてはともかく勝つのは難しく、「どこかに新興で変なしがらみもなく、勝てるけど今はたまたまエンジンがなくて困ってるチームはないかな~と探したら、これがありました。

レーシングエンジンの名機とはいえ、ターボエンジンの台頭で苦しくなっていたフォード コスワース DFVで1980〜1981年にコンストラクターズタイトル連覇、1982年にもケケ・ロズベルグがドライバーズチャンピオンを獲得した、ウィリアムズです。

話が決まるや電光石火!マシンができたからレースに出よう!

大柄なマンセルにはさぞ狭苦しかったであろうFW11のコクピットだが、FW11Bではさらに押し込めてロールバー位置も下げ、空気抵抗を下げるなどの改善が行われている

スピリットを踏み台に、「勝てるチーム探し」中のホンダの目に止まったウィリアムズと、「自然吸気3リッターでは、もう1.5リッターターボに勝てない」と名機DFVの発展型DFYでも限界を感じ、ターボエンジン探しをしていたウィリアムズにとって救いの神、ホンダ。

まさに奇跡のような偶然…と言いたいところですが、ここでも1960年代から温めてきたホンダの人脈が生きており、すなわち当時ホンダのアドバイザーになっていたジャック・ブラバムが、ウィリアムズを推薦したという流れです。

それで1983年途中にホンダから「好きに作ってくれ」とエンジン──スピリット ホンダ 201Cに積まれるRA163EよりはいくらかマシなRA164E──が送られ、FW09を開発。

本来は1984年からの3年契約でしたが、仕事の速いウィリアムズのエンジンは当時最新のカーボンファイバーではなく、アニルミハニカムのモノコックという保守的な設計もあってサッサとFW09を作り、RA164Eでテスト走行も済ませるや、すぐ参戦を決めます。

それも1984年開幕戦ではなく1983年最終戦の南アフリカGPで、「高地で空気の薄いキャラミサーキット(標高1,520m)ならターボの方が有利だし、マシンも完成してるから出てしまおう」というわけでホンダも承諾。

これでワリを食ったのがスピリットで、ウィリアムズが契約上ホンダエンジンを独占するため、1984年から失うはずだったエンジンを前倒しで失ってしまい、スピリット201CはアフリカGPを走れませんでした。

その1983年アフリカGPでは、ウィリアムズは6番グリッドからスタートのケケ・ロズベルグが5位フィニッシュ、スピリット201Cでステファン・ヨハンセンによる最高位(7位)をアッサリ塗り替え、ホンダがウィリアムズを選んだ正しさは早くも証明されました。

ダメなエンジンをなだめつつ、奇跡のような初勝利

FW10Bから改善されたリアサスペンションや空力関係はFW11で完成の域に達し、ウィリアムズとホンダに1986年のコンストラクターズ・タイトルをもたらした

ウィリアムズ・ホンダの本格始動(フルシーズン参戦)となった1984年は引き続きFW09で参戦、開幕戦ブラジルGPでケケ・ロズベルグが2位表彰台と幸先良いスタートを切り、第9戦アメリカGPではついに第2期ホンダF1での「初勝利」を達成します!

もっともこの年、ダラス市街地コースで開催されたアメリカGPは猛暑に襲われており、気温38℃以上、路面温度65℃以上という「タイヤが溶けるどころか、舗装が剥がれる」という、ニキ・ラウダやアラン・プロストなどは開催中止を提案するほどのコンディション。

しかし涼しい顔をしてレースをするべきと言ったのはロズベルグで、それも当然、彼はヘルメットに特製の冷却システムを組み込んでおり、文字通り「涼しい顔」で冷静なレース運びをした結果、マシントラブルや熱中症に苦しむサバイバルレースを制したのです。

しかし猛暑と言えば当時のホンダエンジンは改良型のRA164Eに至っても異常燃焼と過熱、ピストン溶解に苦しめられており、いくらロズベルグが涼しい顔でも、ダラスで最後までRA164Eが持ちこたえたのは、やはり奇跡だったのでしょうか。

その後もRA164Eは「熱で壊れる→直して出力アップ→さらに熱で壊れる」の繰り返しで、熱問題をどうにかしようと燃料を多く吹いて冷却すれば燃料不足で完走できず、アメリカGP以降はヨーロッパの高速コース点線でロクな結果を残していません(※)。

(※最高位は第13戦オランダGPでロズベルグが8位、それ以外はほとんどリタイア)

エンジン開発体制を改め、RA165Eを積むFW10でついに3連勝

1986年にFW11でタイトル獲得後、1987年のFW11Bは全面再設計に近い改良が行われ、フロントウィングの形状などもホンダミュージアム展示車のFW11とは大きく異なり、ドライバー背後のロールバーも低い

1985年型マシンのFW10でもRA164Eの悪癖は改善されず、ついにホンダもF2用RA260Eを原型とするビッグボア×超ショートストロークエンジンをあきらめ、出力と燃費のバランスを取ったスモールボア×ロングストローク化に着手するなど、全面的に設計しなおします。

こうして完成した新エンジン、「RA165E」は今までがウソのように好調で、初投入となった1985年第5戦カナダGPではロズベルグ4位、新加入のナイジェル・マンセルが6位と好成績で完走、第6戦アメリカGPではロズベルグが第2期ホンダF1の2勝目をもたらします。

しかしエンジンが落ち着くと今度は保守的すぎるFW10の設計が問題になり、シーズン途中でサスペンションや空力などリアセクションを大幅に改良した「FW10B」が登場。

第14戦ヨーロッパGPから最終戦オーストラリアGPまでマンセル2勝、ロズベルグ1勝の3連勝で、いよいよウィリアムズ・ホンダは上昇気流に乗ったのであります!

リッター1,000馬力のFW11でついに初タイトル!

翌1986年は1,000馬力を超えるターボエンジンのパワーにウンザリしたF1運営サイドが燃料使用量の制限を厳しくしますが、燃費とパワーの両立ならお手のものなホンダは改良型エンジンのRA166Eでリッター1,000馬力、つまり最高出力1,500馬力に達します。

あくまで予選アタック用モードで実戦では抑えられていたと言いますが、名手ネルソン・ピケの新加入でピケ/マンセル体制となったウィリアムズは新マシンFW11を投入。

開幕戦ブラジルGPでピケが優勝したのをはじめ、ピケ4勝、マンセル5勝で9勝をあげ、ホンダにとっては第1期以来の悲願だったコンストラクターズ・タイトルを、ウィリアムズにもたらしました。

勝利の陰で…迫っていたウィリアムズとの破局

2005年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで、ケケ・ロズベルグの息子、ニコ・ロズベルグがステアリングを握ったウィリアムズ ホンダFW11B

ただし、その裏でウィリアムのチーム内ではチームと同じイギリス人のマンセルを支持する一派と、ホンダが勝利のために呼んできたピケを支持する一派に分かれる派閥争いが勃発しており、かなり険悪な状態でした。

最終戦オーストラリアGPでピケが2位に終わり、アラン・プロストに逆転でドライバーズ・タイトルをさらわれたのは、直接的には「グッドイヤーからタイヤ交換しなければ安全性を保証しない」と通告されたピケがピットインを強いられた…とされています。

これがホンダとウィリアムズの確執を呼び、翌1987年も同じドライバー体制、改良型のFW11Bでコンストラクターズタイトル連覇、ピケのドライバーズ・タイトルとダブルタイトル獲得が決まった日本GPの時点で、ウィリアムズとはその年限りと決まっていました。

ホンダは既に1987年からロータスにもエンジンを供給していましたが、翌1988年からはウィリアムズに代わってマクラーレンへの供給を発表しており、ここから第2期ホンダF1の黄金時代が始まります。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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