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「これが俺らの限界です…」オールホンダ体制最後のヘビー級F1マシン・ホンダRA273

苦戦もまた歴史のうち

ホンダコレクションホールに展示されているRA273

ツインリンクもてぎ(栃木県)のホンダコレクションホールにはホンダが関わったさまざまなF1マシンが展示されていますが、歴史的意義が深かったり華々しい戦績に恵まれたものもあれば、苦戦を強いられたものもあり、今回紹介するRA273は後者の部類です。

1965年に1.5リッター時代最後のF1GPでホンダが参戦初勝利を挙げたRA272の後継として作られた、初の3リッターF1だったものの、ホンダが2輪での実績とは裏腹に4輪メーカーとしてはまだ新興である事を痛感したマシンでした。

優先順位を下げられた中での開発

奥のRA300やRA301よりスリムに見えて、実際は重すぎるほどだった

1964年、エンジンコンストラクターの予定が一転、自社開発マシンRA271へ自社エンジンRA271Eを積む「オールホンダ体制」で第1期F1参戦を開始したホンダですが、大幅に改良を施したRA272で挑んだ2年目、1965年には最終戦メキシコGPで初勝利を挙げました。

これが1.5リッター自然吸気エンジン時代のF1で最後の勝利を挙げたマシンとなり、翌1966年からF1の排気量上限は3リッターとなります。

つまり、1966年にもマトモに戦おうと思えば、前年の早い段階から新エンジンを積むニューマシンを開発せねばなりません。

しかも開発費の高騰を嫌ったイギリスのコベントリーが実質的に撤退したため、コベントリー・クライマックスに頼っていた多くのチームがエンジン探しに右往左往する中、マシンもエンジンも自社製のホンダは、フェラーリと同様に有利な立場にありました。

しかしこの時のホンダは、4輪車メーカーとしての将来を占う重要な局面にあって、F1のために開発陣の労力を十分に割けない状況にもあったのです。

メキシコGPで勝ち、ようやく翌年用3リッターV12エンジンの構想を固めた1965年秋、東京モーターショーで発表する新型の軽乗用車、N360の開発が大詰めを迎えていました。

軽トラのT360と小型スポーツカーのSシリーズで4輪車へ参入したとはいえ、数が見込める乗用車と商用バンをラインナップするN360は何としても成功させねばならず、エンジンの開発順位はもちろん最優先。

ブラバム・ホンダとして参戦していたF2用エンジンは4番目、新型のF1用3リッターV12エンジンRA273Eは6番目…つまり後回しで、とても1966年開幕からの参戦など見込めず、ニューマシンRA273は9月の第7戦イタリアGPが初戦となりました。

重すぎたエンジンと、シャシー開発能力の限界

エンジンとシャシーを一体で開発できる強みのあったホンダRA273だが、いくらパワーがあっても重すぎるマシンしか作れないホンダの未熟さは如何ともしがたく、急きょシャシー開発をローラに依頼した後継機、RA300が開発された

前年から排気量は2倍、420馬力を目指したRA273Eエンジンは常識的な縦置きマウントとなり、角バンクからメデューサの髪のごとく太い排気管が後方に伸びます。

目標値には達しなかったと言われるもののライバルより強力なパワーを誇ると言われますが、それに耐えうる強度を持たせたモノコックボディは重く、凝りすぎて重いエンジンと合わせて最低重量を大幅に超過しました。

多少エンジンに難があっても軽量なマシンで走るライバルに対し、RA273はまるで強力なエンジンを積んだトラックのようで、ストレートの速さだけならともかく、コーナリングも含めたコース全体で速く走ることなど、思いもよりません。

しかし規則改正に各チームが混乱しているうちなら、あるいはタナボタ的な好成績、あわよくば…と下心を出し、3戦目(最終戦)のメキシコGPではリッチー・ギンサーが4位入賞を果たしたので、一応は目論見通り。

翌1967年にはフェラーリから移籍した1964年のF1王者、ジョン・サーティスを迎え、開幕戦の南アフリカGPで3位表彰台、第6戦イギリスGP(6位)、第7戦(4位)と入賞し、一見すると好成績に見えます。

ただしこの1967年は、後にF1エンジンの名機として誉れ高い「フォード・コスワースDFV」(3リッターV8)がロータス49へ積まれてデビューした年であり、軽量・高性能・高い信頼性と3拍子揃ったエンジンが軽量マシンに積まれましたから、もはや勝ち目ナシ!

重たいV12エンジンでどうにかするにはマシンの軽量化しかありませんが、4輪車メーカーとしては新興もいいところでレーシングカーの経験も浅く、エンジンも小排気量のうちは2輪のノリで何とかしてきたホンダにとって、オールホンダ体制はここまでが限界でした。

結局、1967年シーズンの途中から、サーティースのコネで渡りをつけたイギリスのシャシー・コンストラクター「ローラ」へ開発を依頼したRA300へ切り替える事となり、RA273はついに未勝利で終わったのです。

しかし創業者の本田 宗一郎氏が「走る実験室」と呼んでいたホンダF1にとって、オールホンダ体制の限界まで頑張ったという意味で、RA273はその役割を十分に果たしたと言えるでしょう。

(厳密には、空冷マシンRA302という「悲劇で終わった限界」が、その先にもありましたが…)

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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