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【自動車の歴史】日産自動車の歴史、ルーツと車種の特徴を知ろう!
目次
日産自動車とは?
日産自動車は、神奈川県横浜市に本社を構える日本の自動車メーカーです。「やっちゃえNISSAN」というキャッチフレーズは上のCMでもおなじみです。
現在はフランスの自動車製造大手ルノーとアライアンス関係にあり、高級車ブランドである、「インフィニティ」、そして新興国向け低価格ブランドとして「ダットサン」を展開しています。日本国内年間販売台数では、第4位のシェアを誇る、日本屈指の自動車メーカーです。
今回は、そんな日産自動車をここまで大きな自動車会社に押し上げた、過去の人気車種や、モータースポーツでの実績、さらに今後の展望についてまとめています。
日産自動車のルーツ
1911年、橋本は東京・広尾に国産乗用車の生産を目指し、快進社自動車工場を設立し、日本の交通事情に合う小型乗用車を設計します。そして、その車は、資金協力者の田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎のイニシャルを並べDAT自動車(脱兎号)と命名されて発売されました。
その後、快進社はトラックの開発などに取り組みますが経営状況は悪化。1925年に解散してダット自動車商会として再出発します。
一方、大阪では久保田鉄工所を中心として自動車を造りを目指し、1919年に実用自動車製造が設立されました。アメリカ人技師のウィリアム・ゴルハムの指導を受け、三輪自動車のゴルハム号の製造が始まります。
しかし、関東大震災後に米国の自動車が大量輸入されると経営が悪化。そのため、東京のダット自動車商会と合併し、ダット自動車製造を設立することになりました。
ダット自動車製造は、DATの息子という意味を持つ「DATSON(ダットソン)」という車名を持つ乗用車を開発しました。しかし、「SON」は「損」を連想させるため、発音が同じで太陽を意味する「DATSUN(ダットサン)」に改名されたのです。
そして、この車の生産拡大のために、鮎川義介が設立した戸畑鋳物が資金提供。さらに、自動車部品を製造していた戸畑鋳物は、自動車工業への進出を企画し、ダット自動車製造を傘下に迎え入れました。
その後、鮎川が設立した持ち株会社、日本産業と戸畑鋳物で出資して、自動車製造を設立しました。そして1934年、自動車製造は社名を変更し、日産自動車が誕生したのです。
日産を襲った業績悪化とルノーへの統合の歴史
1990年代、日産自動車の経営状況はデザインの方向性や、マーケティング戦略の失敗により悪化、さらに2000年3月期の連結最終赤字は6,843億円にも上り、このままでは倒産というところまで追い込まれていました。
そこで、事実上吸収合併という形でフランスの自動車メーカー・ルノーから資金を入れ、ルノーから送り込まれたカルロスゴーンが社長に就任。2万1,000人の人員削減計画というリストラとコスト削減、合理化の推進で2001年には3311億円の黒字に改善されました。今では、トヨタ、フォルクスワーゲングループ、GMに次ぎ、世界大4位のシェアを誇る一台グループとなっています。
しかし2018年11月、ゴーン氏は日産が開示する有価証券報告書に、自身の役員報酬額を実際よりも少なく表記したとして、東京地検特捜部により逮捕。
2019年1月から4月までの間に、少なくとも50件の不正が発覚し、拘束と釈放を繰り返しました。1度目の釈放の際は、作業着姿に扮していたことで話題になりました。
そして、ゴーン氏は日本からレバノンへと亡命。2021年4月現在も逮捕されていません。理由として、日本とレバノンが犯罪人引き渡し条約を締結していないことが挙げられるようです。逃亡したゴーン氏の詳しい情報についてはこちらの記事でご紹介しています。
技術の日産と言われるほどの技術力
日産車はやはり技術力の高さが特徴です。技術の日産に対して、販売のトヨタと言われていたほどです。
日産は、創業期より先進技術の吸収に積極的で、アメリカのゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年にイギリスのオースチンと技術提携しています。
1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場して見事にクラス優勝を飾ります。
創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれました。
また1980~90年代には、「90年代までに世界一の技術を誇る自動車メーカーになる」という目標を掲げ、「901運動」を進めていました。その内容は主にシャシー性能、車体剛性、ハンドリング(足回り)に対しての技術の向上でした。R32やZ32は当時技術面で高く評価され、今でも根強い人気があります。
モータースポーツでの輝かしい歴史・戦績
日本グランプリ
「技術の日産」と呼ばれた、日産はモータースポーツにおいても輝かしい戦績を残してきました。日産のスポーツカーとして日本のみならず世界でも有名なスカイライン。その伝説が始まったのは、1964年に開催された第2回日本グランプリと言われています。
第2回日本グランプリの7週目、スカイラインGTが圧倒的パワー差のあるポルシェを抜いてそのままホームストレートへ戻ってきました。観衆はざわめき総立ち状態。観客を熱狂させたこのスカイラインが、日産のモータースポーツ史の大事な一ページを刻みます。
グループC
グループCカー時代には世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に1989年と1990年の2年間フル参戦しました。
また、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)3連覇(1990-1992年、マシンはそれぞれR90CP、R91CP、R92CP)、そしてデイトナ24時間レース総合優勝(1992年、マシンはR91CP)を成し遂げています。
ルマン 24時間レース
世界最高峰カテゴリーであるFIA世界耐久選手権(WEC)のLM P1(ル・マンプロトタイプ1)クラスに参戦した「GT-R LM NISMO」。
革新的なフロントエンジン前輪駆動というレイアウトは、世界中のレースファンの間で話題になりました。
SUPER GT
SUPER GTは、前身となる「全日本GT選手権」から数えて20年以上の歴史を持つ国内最高峰の自動車レースです。
GT500クラス、GT300クラス共にそれぞれ4台、計8台のGT-Rが参戦しています。GT500クラスでは、2014、2015年と二連覇を達成しています。
今年度も安定した速さを見せつけ、技術力の高さをサーキットでもいかんなく発揮しており、GT-Rの三連覇が期待されています。
- 執筆者プロフィール
- MOBY編集部
- 新型車予想や車選びのお役立ち記事、車や免許にまつわる豆知識、カーライフの困りごとを解決する方法など、自動車に関する様々な情報を発信。普段クルマは乗るだけ・使うだけのユーザーや、あまりクルマに興味が...