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広島が世界に誇る自動車メーカー、マツダ…戦前は小型オート3輪の御三家だった【推し車】

コルク製造から始まったオート3輪の名門、マツダ

東洋工業(現・マツダ)が1935年に発売した400kg積みのTCS型(空冷単気筒サイドバルブ654cc・13.2馬力)は、マツダが所有する最古の自社製小型3輪トラックで、マツダミュージアムにて展示中。

現在は「SKYACTIVテクノロジー」で画期的な新技術を積極採用し、かつては「未来のエンジン」として脚光を浴びたロータリーエンジンの実用化で知られた、日本というより「広島が世界に誇る自動車メーカー」、マツダ。

スズキやホンダなど戦後参入組とは異なり、戦前の1930年代から長い歴史を誇る自動車メーカーでもありますが、もともとはコルク生産の「東洋コルク工業」として1920年に設立するも、競争過多を嫌って機械事業へ進出、社名も「東洋工業」へと改めます。

今回紹介するのは、現在マツダミュージアム( 広島県安芸郡府中町)で公開されており、経済産業省の近代化産業遺産にも指定されているマツダ TCS型3輪トラックなど、マツダの戦前型オート3輪です。

実験的な二輪車を経て、手堅く普及が見込める小型オート3輪市場へ進出

当時、申請のみで無試験だった小型自動車免許で乗れる小型3輪トラックは自動車の普及に重要な役割を果たした

当初は主に海軍向け軍需がメインでしたが、量販でコスト低減と増益を狙える民需への進出を狙い、中興の祖といえる当時の松田 重次郎社長が若い頃から憧れていた自動車への参入を決断しました。

まずは二輪車用250ccエンジンの試作と、実験的な少数販売ながら二輪車の販売から始まり、オートレースの優勝で自信を深めると、1931年に3輪トラック「マツダ号DA型」で本格的に自動車メーカーとしてスタート。

戦前の日本では、1920年代後半に3輪トラック用として実用に足る空冷単気筒、または2気筒サイドバルブエンジンの開発に成功、町工場レベルからそれなりの大企業まで3輪トラック(オート3輪)へ進出していた頃。

免許取得が実質不要(試験に合格する必要のない許可制)だった小排気量3輪トラックは、普及にうってつけで、東洋工業もダイハツやニューエラ(後の「くろがね」)と並ぶ戦前の小型オート3輪御三家の一角へと踊り出します。

「デファレンシャルギア」を組み込んだ本格派

シャフトドライブとデファレンシャルギアの本格派小型3輪トラック、TCS型の発売当時はまだ三菱商事で販売しており、燃料タンクに三菱マークがつくのはその証。

小型オート三輪は一見すると、「オートバイの後ろ半分へ、左右輪を持つ荷台をくっつけただけ」に見えますし、実際に零細メーカーの多くはオートバイ同様のチェーンドライブで後輪軸を駆動する安直な作りでしたが、戦前のヒット作はそこでまず差をつけました。

すなわち、「ダイハツ号」で先行していた発動機製造(後の「ダイハツ工業」)に続き、後輪への駆動伝達はプロペラシャフトで行い、カーブをスムーズに曲がれるように左右輪へ駆動配分を行う差動装置(デファレンシャルギア)を採用しています。

さらに、それまで軍需で鍛えた工業製品の生産技術や、大規模な生産工場によって量産も可能としており、積載力に合わせた排気量アップなど、戦後の軽自動車と同じような規格改正もあって、482ccで始まった初期のDA型から、1934年のKA型では654ccにまで拡大。

1935年に発売した「TCS型」は、DB型(1932年)から採用した強固な2重フレームにKA型の654cc空冷単気筒サイドバルブエンジン(13.2馬力)を搭載、現在の軽自動車規格で定められた350kgを超える、最大積載量400kgを誇る、低床型小型オート3輪でした。

緑色のボディカラーは当時のマツダ3輪トラックのイメージカラーだったそうで、オートバイと似たような形の燃料タンクに三菱マークが入っているのは、まだ国内販売網の整備まで手が回らなかったマツダが、三菱商事へ販売を委託していたためです。

戦前の三菱は、1917年に初の国産量産自動車「三菱 A型」を三菱造船で開発・生産した実績はあったものの、戦後に中日本重工業(現在の三菱自動車工業)が登場するまで自動車産業へ進出しておらず、三菱商事がマツダ車を販売するのにも支障はありません。

しかし、1936年には三菱商事との提携を解消、自社販売に移行し、現在のマツダに近い形となります。

戦後へ持ち越しとなった、四輪車メーカーという夢

TCS型でも運転席周りは2輪車と大差なく、戦後すぐの時代も同じような3輪トラックで再出発、現在のマツダに至る。

マツダがオート3輪の直売を始めた頃には、次のステップとして四輪車の開発を始めており、実現していればダットサン(日産)や戦前の名門、「オオタ」(戦後は東急くろがね工業を経て、現在の日産工機)と並ぶ、「小型自動車の御三家」になった可能性もありました。

しかし、それ以前から中国大陸で激化していた紛争が、1939年には日中戦争へと発展、東洋工業も1938年の軍需工業動員法で陸海軍共同管理工場に指定されます。

そんな中でも1940年には小型4輪乗用車を製作しますが、もちろん市販が許される状況でもなく、軍需産業としての活動を余儀なくされたものの、広島への原爆投下(1945年8月6日)でも生き残り、戦後にオート3輪メーカーとして再出発しました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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