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漫画「三丁目の夕日」にも登場!超軽量車「フライングフェザー」は知ってる?【推し車】

レトロ漫画に出てビックリした、軽自動車草創期のマイナー車

とにかくクルマのカタチをしているのは確かな、フライングフェザー

懐かしき昭和レトロの時代を描く漫画、「三丁目の夕日」へ、ある回でいきなりフライングフェザーが登場したのにはビックリしました。

およそ漫画の題材になるようなメジャー性はなく、むしろ知る人ぞ知る、軽自動車草創期に作られた有象無象の1台に過ぎない同車は、熱心な旧車マニアでもなければ記憶の片隅にあるかないか、という程度のマイナー車です。

しかし、その志の高さからたびたび注目されることも多く、歴史的遺産の1台として、今もトヨタ博物館へ展示されています。

今回は50台も生産されなかったという貴重なフライングフェザーを、トヨタ博物館で撮影した画像を交えつつご紹介しましょう。

戦後の日本で理想を追求した「超軽量車」

メーター類も徹底的に簡素で、スピードメーター以外には補助的な何かのメーターがひとつあるのみ

フライングフェザーを語るには戦前から自動車技術者、工業デザイナーとして活躍した富谷 龍一という人物が欠かせません。

富谷氏は戦前に現在の日産のルーツであるメーカーへ入社、「ダットサン」ブランドの小型乗用車の開発を手掛け、戦後型ダットサン「110」の直前まで、スリフトやコンバーといった、戦前型ダットサンの末裔にデザイン面から関わったと言われています。

しかし戦後の貧しい日本で、庶民にも普及する安価で簡易な「超軽量車」に着目、1949年に「軽自動車」規格が誕生する以前から研究しており、フライングフェザーを作った後、富士自動車でFRPボディの軽量マイクロカー「フジキャビン」に携わりました。

その後も生涯のテーマとして超軽量車の研究へ取り組み、東京モーターショーなどで同種のコンセプトカーへ関わる機会もあって、現在の超小型モビリティにその思想が活かせれば、さぞかしユニークなクルマを作ったに違いありません。

その富谷氏が注目した「超軽量車」とは、戦前の1920年代あたりまで盛んだったサイクルカーやボワチュレットと呼ばれる車や、戦後のバブルカーやキャビンスクーターと呼ばれた、いずれもヨーロッパで流行した簡素で安価なクルマの、日本版です。

後にスズキが作った、初代「アルト47万円」ですら、そこまで踏み込まなかったという徹底した簡素化を推し進め、日産(ダットサン)を中心に使える部品は徹底して流用し、確かに安価なクルマづくりには成功しました。

しかし、戦後の軽自動車草創期や、現在の超小型モビリティ草創期にいろいろなメーカーが現れては、ほとんどがそれっきりで終わったように、自動車用部品やシートなど、本業の片手間でフライングフェザーを作った住江製作所もただクルマを作るので精一杯。

戦前からのオート三輪やトラック、戦後のオートバイなど販売ネットワークを持っていたおかげで、着実に販売実績を積み上げて現在まで生き残っているメーカーと異なり、販売・サービス体制に欠けた企業は、自動車メーカーとして存続できなかったのです。

走り、曲がり、止まれて屋根と窓があれば上等

織物メーカーが親会社で、後に住江製作所自体もシートメーカーの住江工業へと発展しただけあって、シート表皮だけは妙に立派

フライングフェザーの簡素化は徹底しており、リアに搭載したエンジンからしてダットサンのピストンを流用した空冷V型2気筒OHVに、ミッションもダットサン由来。

ブレーキはなんと油圧ではなく、ペダルを踏めば後輪の機械式ドラムブレーキが作動するだけ、単純に考えれば足踏み式パーキングブレーキだけで制動力を得ようという代物です。

タイヤも試作車ではリヤカー用、量産車でもオートバイ用の細くて薄いゴムタイヤがついただけで、道路事情が悪かった当時の日本に多かった被舗装路、あるいは傷んだ舗装路を、タイヤやホイール、四輪独立懸架のサスペンションが傷むまで、どれだけ走れたのでしょう?

キャビンはグルグル回し窓を上下させるレギュレーターもなく、窓は下部が外側へ押し開けられるだけ、メーター類はスピードメーターなど最低限、パイプフレームに布張りのシートはシトロエン 2CVと同様で、当時の親会社が繊維業だったため、表皮は西陣織でした。

屋根がメタルトップではなく幌なのも、スポーティというより軽量化と簡素化のためと思われ、ヒーターなどもちろんないため、冬はだいぶ冷え込みそうです。

そんなクルマでも、漫画「三丁目の夕日」ではオート3輪ですら贅沢という時代に「若僧が4輪のマイカーなんて生意気」と白い目で見られたり、雨の日の送り迎えに使われて、屋根のおかげで濡れて歩かずに済む便利さが描かれていました。

あまりに簡素とはいえ、ちゃんとした屋根とドアつきというだけでマトモなクルマに見られるというあたり、現在の超小型モビリティに通じるものがあります。

「販売やサービスもマトモなクルマ」の登場で、お役御免

リアエンジンでブレーキもリアのみ、それで軽自動車として成り立ったというからスゴイ時代だった

しかし、フライングフェザーが発売された1955年には、スズキが初の市販4輪車「スズライト」(初代)を発売、3年後の1958年には富士重工(現・スバル)が「スバル360」を発売して、国民車的な成功を収めるという時期です。

いかに簡素とはいえ、町工場レベルでヨソからの寄せ集め部品やワンオフ部品を組み立てて細々と生産し、販売体制やサービス体制もロクにないクルマなど、すぐに出番がなくなって忘れ去られるどころか、ほとんど知られることもなく消えてしまいます。

これは住江製作所だけでなく、当時の零細~中小自動車メーカー全てに起きた事で、オートバイ生産が本格化する前の川崎重工(現在は100%子会社として分社、カワサキモータース)すら、軽4輪乗用車「KZ360」を試作しながら、販売の見通しが立たず撤退しました。

オート3輪メーカーとしてある程度の実績があった、コニー(愛知機械)やくろがね(東急くろがね工業、現・日産工機)、ホープ自動車ですら1960年代は乗り切れず、ましてや住江製作所も長続きするわけがありません。

同社が本業のシートメーカーに注力すべく、「住江工業」として独立して自動車生産から手を引いたのも、当たり前のことでした。

簡素で安価な超軽量車というコンセプトだけは、各社のコンセプトカーや、実用市販車だと1人乗りのミニカーとして細々ながらも生き残り、現在のコムスやC+podなど超小型モビリティとして再評価の段階に入っています。

しかし、フライングフェザーほど「徹底的に割り切った」クルマは、少なくとも日本ではそうそう生まれないでしょう。

何しろクルマという工業機械は、作って売ったら終わりではなく、むしろそこからのサービス体制が勝負です。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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執筆者プロフィール
兵藤 忠彦
兵藤 忠彦
1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...

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